蜻蛉切 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日太鼓鐘貞宗 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日
目次
【物吉貞宗の歴史と概要】
物吉貞宗(ものよしさだむね)は鎌倉時代後期から南北朝時代に作られたとされている日本刀だよ。
日本の重要文化財に指定されている脇差で、現在は愛知県名古屋市にある徳川美術館に所蔵されているの。
この物吉貞宗は徳川家康の愛刀としても広く知られているよね。
作者は鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した刀工・正宗の弟子であり子でもある貞宗。
貞宗は相模国鎌倉で活動していた刀工だよ。
作風は正宗に似ているものの、貞宗の方が正宗よりも整っていて穏やかであると評されているんだ。
次に物吉貞宗の来歴をまとめてみよう。
<豊臣秀吉>
元々、物吉貞宗は徳川秀吉の蔵刀であったと言われているよ。
秀吉は、物吉貞宗を三之箱に入れていたそう。
<豊臣秀頼>
慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉の死後、物吉貞宗は子・秀頼へと継承されたよ。
<徳川家康>
慶長6年(1601年)10月8日秀頼から徳川家康に贈られたよ。
「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指方々ニ被遣之帳」にも、「将軍様へ御鷹野之時被進之」と記載されているんだ。
慶長6年10月12日に京伏見を出発した家康は、鷹狩りを楽しみながら東海道を下ったそう。
11月5日に江戸城へ入城しており、その途中の11月1日には禁中へ鶴を献上。
「御鷹野之時」というのは、鶴を献上したことを指していると言われているよ。
<尾張徳川家>
元和2年(1616年)4月17日徳川家康没後、尾張徳川家・徳川義直へと譲られたよ。
当初、物吉貞宗は義直への形見分け(遺産)には含まれていなかったんだけど、義直の生母であるお亀の方(尾張大納言殿御袋、相応院)の尽力により義直のものになったと言われているんだ。
尾張徳川家に伝来し続けた物吉貞宗は、尾張徳川家の重宝として非常に大切に扱われ、有事にはいの一番に持ち出されることになっていたんだ。
藩主が狩衣姿で脇差を差せない時や徳川将軍家から尾張家へお祓いや日光東照宮の御鏡を頂戴する際には、物吉貞宗を懐中に帯びていたとされるよ。
参勤交代などの道中では、藩主が座乗する駕籠の中に入れて物吉貞宗を携帯するほどだったそう。
また藩主が隠居する際には必ず次代の藩主へ物吉貞宗を譲り渡すことになっていたんだ。
どれだけ大切にしていたのかがよく分かるよね。
・初代藩主・徳川義直
初代藩主・徳川義直は朝廷の宝剣と同じくらい物吉貞宗を秘蔵していたと言われているよ。
・2代藩主・徳川光友
2代藩主・徳川光友は物吉貞宗に対して「こちら(当家)には無いはずのものなのに不思議にこちらに伝わった」と話していたそう。
・4代藩主・徳川吉通
4代藩主・徳川吉通の時代には、普段は刀箱の中に入れた状態で中御間の床の上に置いてあり、火事の際には小姓が持ち出すことに定められていたんだ。
幕末時代になると藩主のお側にある刀箪笥の一の引出しへ入れられていたそう。
承応3年(1654年)9月3日には、本阿弥光温により金百五十枚の折紙を極められているんだ。
ちなみに折紙には「相模国貞宗」とあるだけで名物名が記されていなかったことから、この時期までは名物とされていなかったとみられているよ。
・14代藩主・徳川慶勝
14代藩主・徳川慶勝は池田正宗と物吉貞宗を大小にして差料していたと言われているよ。
<近代>
明治維新以降も尾張徳川家に所蔵。
昭和に入ってからは尾張徳川家19代当主・徳川義親侯爵が設立した徳川黎明会の所蔵となるよ。
昭和16年には重要美術品に認定、昭和28年(1953年)11月14日付で重要文化財に指定。
現在も徳川黎明会が運営する愛知県名古屋市にある徳川美術館に所蔵されているんだ。
【物吉貞宗の作風】
この物吉貞宗は、貞宗の作品の中でも最も大胆で激しい作為域を示した作と言われていて、作域的には貞宗よりも師匠である正宗の作に近い短刀であると言われているの。
正宗作の短刀に非常に似ている物吉貞宗は、姿が正宗に比べて大振りなため、貞宗と極められたと伝わっているんだ。
地刃ともに優れた出来栄えで、正宗から貞宗へと行われた師伝の継承をうなずける傑作となっているよ。
<刀身>
刃長33.0㎝、反り0.6cm、茎長8.8㎝。
平造りで三つ棟、身幅広く、やや寸延び、反りつき。地鉄は小板目肌が詰み、処々大肌交じり、地沸よくつき、地景入り、湯走りかかる。
刃文は湾れ、主体に小乱まじりで、小互の目交じりで、小沸よくつき、砂流し、金筋など刃中の働きが盛んである。
帽子は、指表は乱れ込んで返り、裏は乱れ込んで尖りごころに返る。
また指表には仏像や寺院の内陣を飾る装飾である瑶珞(ようらく)や大日如来」の梵字と蓮台、素剣、鍬形、蓮華が彫られているよ。
また指裏にも、素剣、鍬形、蓮華、「金剛夜叉明王」の梵字と蓮台が彫られているんだ。
柄に収まる手に持つ部分である茎は無銘で、先浅い剣形で、目釘穴は2つ。
そのうち上1つは鉛で埋めてあるよ。
<外装>
物吉貞宗の外装には、徳川家康、義直所用の蝋色塗合口拵(ろいろぬりあいくちこしらえ)が付属しているんだ。
鐔のない合口拵で、鞘が蝋色塗、柄を黒塗鮫となっているよ。
柄にある目釘穴を隠すための装飾品である目貫は後藤祐乗が作ったものなんだ。
この目貫は龍が象られており、じっと見つめていると龍が瞬きするように見えることから、徳川家康が「瞬きの龍」と名付けたものとされているよ。
また小柄には盲亀浮木(もうきふぼく)があしらわれていて、これも後藤祐乗が作ったものなんだ。
さらに物吉貞宗には桐白木地刀箱、蝋色塗葵紋付刀箱という刀箱2合と、焦茶地雲鶴宝尽文金入錦刀袋、紺地鶴亀松竹橘宝尽文銀入錦刀袋という刀袋2口が付属しているの。
蝋色塗葵紋付刀箱は尾張家8代・徳川宗勝が作らせたものであると伝わっているんだ。
【物吉貞宗の豆知識】
物吉貞宗のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<物吉貞宗の名前の由来は?>
物吉貞宗の名前の由来に関しては諸説あるんだ。
それぞれまとめてみよう。
・この物吉貞宗を帯刀して出陣すると必ず勝利したことに由来する説
物吉貞宗は徳川家康の愛刀で、この脇差を帯刀して出陣すると必ず勝利したことから「物吉貞宗」と呼ばれるようになったよ。
ちなみに「物吉」とは、めでたいことを意味しているんだ。
・物吉貞宗を差料にしていると何事も思し召し通りになったことに由来する説
尾張藩9代藩主である徳川宗睦が家臣の松平君山や久野彦八郎に調査・執筆させた「物吉記」によると、「百事吉祥と言うがのごとし」と記されているよ。
また「続岩淵」には家康が物吉貞宗を差料にしているとすべてのことが思い通りになったから物吉貞宗と呼ばれるようになったと言われているよ。
・切れ味のよさから名付けられた説
「享保名物帳」においては「切れ申すこと度々であった」と記されているよ。
度々良い切れ味を発揮したことから「物吉し」として名付けられたと言われているんだ。
ただ「日本刀大百科事典」において、刀剣研究家・福永酔剣は脇差で何度も切ったとは思えないとしていて、この説は信憑性が低いと考えられているよ。
<徳川家康の愛刀であった物吉貞宗>
物吉貞宗は家康の愛刀として有名だよね
「三河戦記」によると、家康は戦場に物吉貞宗を帯びて行ったと記されているよ。
尾張藩初代藩主である徳川義直の母・相応院(お亀の方)は、家康の側室として、家康晩年の駿府に居たんだ。
その際、物吉貞宗の重要性を目の当たりにしていたと言われているよ。
そのため相応院は、家康没後に物吉貞宗が義直に譲られるように奔走。
家康の遺品分与品である駿府御分物とは異なる手順にて、尾張徳川家に譲られたんだよ。
一説によると、形見分けの前に相応院が密かに持ち出して、尾張徳川家に運ばれたそう。
本来であればなら徳川将軍家にとっても重要な刀剣であったはずの物吉貞宗が尾張へ伝わったため、尾張藩2代藩主・光友は「こちらには無いはずのものなのに不思議とこちらに伝わった」と驚いていたと伝えられているんだ。
<物吉貞宗は脇差なの?短刀なの?どちらに分類する?>
この物吉貞宗は、長さが1尺を超えているため、現在の登録証基準では「脇差」に分類されるんだ。
しかし江戸時代の基準では「寸延び短刀」という扱いになっているので、「享保名物帳」では短刀となっているの。
刀剣界においては、刃渡りが一尺(約30.3㎝)を超えた長めの短刀を「寸延び短刀」、一尺~一尺三寸(約39.4㎝)くらいまでの短めの脇差を小脇差というんだ。
ちなみに現代の登録制度では、小脇差も脇差扱いになっているよ。
寸延び短刀と小脇差はどちらも大刀に添えて指すという用途になるんだけど、それぞれ時代によって生み出された背景は異なるんだ。
現存している寸延び短刀のほとんどは鎌倉時代末期以降の作で、山城伝、備前伝、相州伝など様々な寸延び短刀が作られるようになったよ。
<物吉貞宗を作った貞宗とは?>
貞宗は名工四工の1人であり、正宗の後継者であったんだ。
貞宗は古来より名工として名高く、享保名物帳にも22口の記載があるよ。
また、国宝4口、重要文化財12口、重要美術品3口の計19口が国の指定、認定を受けていることからも、今日でも高い評価を受けている相州を代表する刀工の1人なんだ。
「名物刀剣」によると、江戸時代以前には名物三作(天下三作)というくくりはなく、「名工四工」として正宗、貞宗、義弘、吉光の4人を扱っていたそう。
享保名物帳に記載されている貞宗の作品は23口。
この数は名物三作の1つである郷義弘の22口よりも多いんだ。
貞宗は通称「彦四郎」と言い、正宗の門人でその後養子になったそう。
貞宗の作は、郷義弘とともに現存する正真の在銘作が1つもなく、その作刀すべてが無銘極めなの。
貞宗の作刀期間は、鎌倉再末期から南北朝初期にかけてと言われているよ。
刀は幅広で、鋒の延びたものが見られ、短刀や平造りの小脇差も身幅が広めで、寸が延びて反りがつくものが多くみられるんだ。
また貞宗作の極められたものの多くには、刀身彫刻が施されていて、非常に巧みだよ。
貞宗は正宗門下の中で最も師の作風を継いでいるものの、師である正宗と比較すると作風は総体に穏やか。
短刀や小脇指の姿態が大柄で、反りがつくところなどに、製作年代が正宗より若いと言われているんだ。
貞宗の弟子には、子と伝わる高木貞宗や京信国、但州法城寺国光、備前長船元重などがいるよ。
<小柄にあしらわれている盲亀浮木(もうきふぼく)とは?>
物吉貞宗の小柄にあしらわれている「盲亀浮木(もうきふぼく)」とは、会うことが非常に難しいこと、めったにないことの例えで仏教用語の1つなんだ。
大海の海底には目の見えない亀(盲亀)がいて、百年に一度海面に顔を出すそう。
また一本の丸太棒が大海原に浮かんでいて、その棒の真ん中には小さな孔が開いているの。
この盲亀が百年に一度浮かび上がる時に、丸太棒の小さな孔にすっぽり頭が入ってしまうことはめったにないという話からできた言葉なんだ。
釈迦は弟子に対して「私達が人間に生まれるということは、この盲亀の頭が大海に浮かぶ丸太棒の孔に入ることよりも難しいことで、とても有り難いことだ」と教え説いたと言われているよ。
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