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五月雨江 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

 

【五月雨江の歴史と概要】

 

五月雨江(さみだれごう)は南北朝時代に作られたとされる日本刀で、日本の重要文化財にも指定されているんだ。
「五月雨郷」とも呼ばれていて、現在は愛知県名古屋市にある徳川美術館が所蔵しているよ。

 

作者は、南北朝時代に活躍した刀工・郷義弘。
相州正宗の流れを汲む正宗十哲の1人でもあり、師匠・正宗に劣らない地刃ともに明るく避ける作品が多く高い評価を得ているんだ。

 

五月雨江は福岡藩(現在の福岡県西部)を治めた黒田官兵衛(黒田如水)の嫡男・黒田長政が福岡藩主だった際に入手したもので、その後前田家、徳川家でも所持された華々しい由緒を持つ刀なの。
享保名物帳にも所載してあるよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
正宗十哲の1人、郷義弘の作がまたきましたね!!

 

次に五月雨江の来歴をまとめてみよう。

 

<本阿弥掘り出し>

五月雨江は、これまで名が知られておらず由来も不明だったんだ。
本阿弥光啄がどこからか掘り出し、見いだされた際には、越中に移住し活躍していた刀工・大和鍛冶の一派で、傑作が少ないとされる越中宇多物と見られていたんだ。
見つけられた当初、五月雨江の刃肉が丸く、多くついていたために見分けが難しかったと言われているよ。

 

その後、本阿弥家分家3代目当主・本阿弥光瑳が研ぎ直し、刃肉が多くついていたのを取ったところ、刃文が生まれ変わったように変わったんだ。
ちなみに本阿弥光瑳は、研磨の名手として知られていたの。

そうして、本家10代目当主・本阿弥光室によって、五月雨江は郷義弘の作であると極められたんだ。

 

<黒田長政から徳川将軍家へ>

本阿弥光室によって郷義弘作であると極められた後、この五月雨江を福岡藩初代藩主であった黒田長政が買い求めたよ。
元和9年(1623年)3月20日に、黒田長政が死去した際の遺品として徳川二代将軍・徳川秀忠に献上されたんだ。

日本刀大百科事典では「名物扣」を引いて元和9年(1623年)3月20日の長政死後の遺物献上としてあるよ。

 

しかし黒田長政は秀忠の将軍宣下のための上洛に先遣した際に、8月4日京都の旅宿報恩寺で病に罹り死去したんだ。
嫡子である黒田忠之が跡を継ぐのは同年10月で、その際の実記の記事では遺物については記述されていないの。
寛政重脩諸家譜では父の遺物として「木丸の茶入」を献上したと言われていると記されているけれど、五月雨江については記述がないよ。

 

大広間にて老中方列席の前で、秀忠の元に渡った五月雨江を御覧の際、秀忠は「この刀は毎度霧のかかったように見える。五月雨とはよく名づけたものだ」といったという逸話が残っているんだ。

 

<前田光高>

寛永6年(1629年)4月23日、前田利常が筑前守から肥前守になり、のちに加賀藩三代藩主となる前田光高(利常の長子)が三代目将軍・家光の前で元服して従四位下に叙任された際に、前将軍・徳川秀忠より光高が拝領しているよ。

 

<再び徳川将軍家へ>

寛永10年(1633年)2月5日、徳川頼房の四女で、徳川三代将軍・家光の養女である阿智姫(大姫)が、加賀藩主・前田光高のもとへ嫁いだ際に、光高の父である前田利常によって行平の太刀、八幡正宗の脇差、五月雨江を、光高によって一文字の太刀が将軍・家光へ献上されたんだ。
この時、徳川将軍家からは輿入れに際して、前田利常へ和歌山正宗を、前田光高へ信濃藤四郎と太郎作正宗が下賜されたとされているよ。

 

<結納祝いとして尾張家・徳川光友へ>

寛永16年(1639年)9月21日、徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家二代藩主である徳川光友と輿入れする際に、同月28日に婿引き出物として徳川家光から光友へ下賜され、尾張徳川家へ伝来。

この時、五月雨江と併せて後藤藤四郎(国宝指定)や上野貞宗も下賜されたよ。その頃には五月雨江には5,000貫の代付けがされていたんだ。さらに享保頃には250枚に格上げされたの。

 

<徳川綱誠>

寛文7年(1667年)9月26日、光友の嫡男である綱誠(綱義)が、中納言・広幡忠幸の娘である瑩珠院新君と婚姻。
翌27日に江戸市ケ谷の尾張藩上屋敷を訪れ、祝言を挙げる際に、徳川光友から綱誠へ五月雨江と後藤藤四郎が贈られたよ。

 

<徳川将軍家へ再び戻る>

元禄12年(1699年)6月5日に徳川綱誠が死去すると、7月25日に綱誠の遺品として綱誠の子である吉通より徳川5代将軍・綱吉へ献上されたよ。
この時に附けられていた後藤宗乗作の三所物も残っているんだ(現在は個人蔵)
それ以降は代々徳川家へ伝来。

 

徳川8代将軍・吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録「享保名物帳」が成立した頃には、金250枚の代付けがされるようになったよ。

 

1939年(昭和14年)5月27日付で徳川家達公爵名義にて国宝保存法に基づく旧国宝(現在の重要文化財)に指定されたよ。

1944年(昭和19年)3月には、徳川家正公爵から尾張徳川家伝来の家宝を展示する徳川美術館へ、同家ゆかりの品として本作が寄贈され、美術館はその謝礼として5万円を家正へ贈ったんだ。

 

<近代>

昭和14年(1939年)5月27日、徳川家達公爵名義にて国宝保存法に基づく旧国宝(現在の重要文化財)に指定。

昭和19年(1944年)3月には、徳川宗家第17代当主・徳川家正公爵から、尾張徳川家伝来の家宝を展示する徳川美術館へ徳川家ゆかりの品として寄贈されるよ。
徳川美術館はその謝礼として5万円を家正へ贈ったんだ。

 

現在は「公益財団法人徳川黎明会」所有のもと、愛知県名古屋市東区の「徳川美術館」でその姿を観ることができるよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
徳川家を行ったり来たりしてますな〜!!

 

【五月雨江の作風】

 

<刀身>

刃長:二尺三寸四分(71.8㎝)、反り:五分(1.5㎝)、元幅:一寸(2.9cm)、先幅:七分(2.1㎝)、元重ね:二分(0.6cm)、先重ね:一分二厘(3.6cm)、茎反り:六寸四分(19.4㎝)

造りは、鎬造、庵宗、大磨上げにて浅い鳥居反りとなり、中切先、フラクが枯れる。
鍛えは、板材の表面ような模様の小板目が詰んでおり、板材の年輪部分のような同心円状の模様「杢」が交じり、地沸つき、地景が入る。

 

刃文は、のたれに小乱れを交えていて、刃縁は細かに沸えて匂い深く、匂い足が盛んに入る。打のけや砂流しがかかり掃けごころに変化が多く富む。
帽子は浅く乱れ込み、表裏ともに深く焼き下げて、先は強く掃きかける。
茎の中心は大磨上であり、茎尻は一文字に切り、、鑢切り、棟平、目釘穴は二つ、銘はなし。

 

<外装>

五月雨江には元々、拵が付いており、刀に付属する小刀である「小柄」や、結髪用具である「笄」、目釘穴を隠すための装飾品である「目貫」など、後藤宗乗が作成した三所物が付属していたの。

 

この後藤宗乗作の三所物は、元禄12年(1699年)に死去した、徳川綱誠の遺品として五月雨江に添えて5代将軍・徳川綱吉へ献上されたものなんだ。
それ以降、徳川将軍家へ伝来しており、現在は個人所蔵となっているよ。

 

 

【五月雨江の豆知識】

 

五月雨江のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<五月雨江の名前の由来とは?>

五月雨江の名前の由来は、断定はされておらず諸説あるよ。それぞれまとめてみよう。

 

・五月雨の季節に本阿弥家で郷義弘作と極められた説

五月雨江という号は、五月雨の季節に、本阿弥家でこの刀が郷義弘作であると極められたため、そう呼ばれるようになったと言われているよ。

五月雨とは、サはサツキ(五月・皐月)のサに同じ、ミダレは水垂(みだれ)の意と言われているよ。陰暦5月頃に降る長雨のことであり、その時期のことなんだ。

 

・五月雨の季節に打たれ、その姿が霧のように美しかった説

また、五月雨の季節にこの刀が打たれ、その刃文がまるで霧のように美しいことから「五月雨江」と呼ばれたとも言われているんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
素敵な説ですな〜♪

 

・刃文が曇って見えるので、その姿が五月雨のようである説

五月雨江の刃文は曇っており、その姿が五月雨の季節のように霧がかって見えたことから、その号が付けられたと言われているよ。
いつ見ても五月雨江は霞がかった刀に見えたそう。

 

実は刃文が曇ってみえるのは、本阿弥光徳の孫である本阿彌某(本阿弥光甫)が、刃が錆びないようにと手入れのために刀身に手入れ用の油を塗り過ぎ、鞘の中まで引いてしまい、油染みを起こしたためなんだ。

 

現在まで残っている五月雨江の刃文も、本阿彌某が油を引きすぎたため、出来たものと言われているよ。
ちなみにこの説が最も有力視されているよ。

 

また逸話としてこのような話も残っているんだ。

ある日、江戸城大広間で五月雨江が手入れされた際に、手入れに立ち会っていた幕府老中(徳川秀忠とも言われる)がこの刀の曇っている刃文を見て、「五月雨江とはよく名付けたものよ」と感心したと言われているんだ。

 

 

<五月雨江は「南総里見八犬伝」に登場する「村雨丸」のモデルになった?>

 

五月雨江は「南総里見八犬伝」に登場する「村雨丸」のモデルになったと言われているんだ。
「詳註刀剣名物帳」には「曲亭馬琴が八犬傳の村雨丸はこの五月雨郷を思ひ寄りたる趣向也と庄司春村先生言れたりしなり。」と記されているの。

 

五月雨江がモデルとなった村雨丸は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」に登場する名刀で、八犬伝前半の主人公・犬塚信乃が所持しているんだ。

鞘から抜くと刀身に露が浮かぶ奇瑞があり、このことから「抜けば玉散る氷の刃」と言われたの。

映画「里見八犬伝 妖刀村雨丸」(1954年制作)以降、村雨丸は妖刀のイメージがつき、「ひとたび鞘から抜けば刀が露を帯び、人を斬れば村雨のごとく水が滴たたり、刃に血のりがつくことがなかった」という。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
南総里見八犬伝と聞くとやはり妖刀が思い浮かんでしまうよね。イメージってすごいな〜

 

<五月雨江の作者・郷義弘とは?>

 

五月雨江の作者は、南北朝時代の刀工・郷義弘。
通説では郷義弘は、越中国新川郡松倉郷(富山県魚津市)に住んでいたことから、「郷」もしくは読み替えて同音の「江」と称されると言われているよ。

 

また別の説では、義弘の本姓が大江氏であるため、1字取って江の字を用いて、それが転じて郷の字を使用したとも言われているんだ。
相州正宗の流れを汲む正宗十哲の一人でもある郷義弘は、師匠・正宗に劣らない優れた作品が多く、非常に高く評価されている刀工なの。
地刃ともに明るく冴える姿は師・相州正宗に勝るとも劣らないよ。

 

また郷義弘は早くに亡くなっていることから、作刀が極めて少なく、全て無銘で正真の在銘がないことから、謎に包まれた刀工でもあるんだ。

 

義弘による刀は、本阿弥家が義弘の刀と極めたものか、伝承により義弘の刀と言われているしかないよ。
それにより、「世間ではあるとされているものの、実際に見たことがない物の例え」として、「郷と化け物は見たことがない」という言葉が生まれたんだ。

 

刀剣レモン
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徳川美術館でぜひみてくださいね〜♪

 

 

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(公式サイトより引用)

 

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