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古今伝授の太刀 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

 

【古今伝授の太刀の歴史と概要】

 

古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)は鎌倉時代初期に作られたとされる日本刀だよ。
日本の国宝にも指定されていて、現在は東京都文京区の永青文庫が所蔵。

国宝の指定名称は「太刀銘豊後国行平作」で、拵も「革包太刀拵」として附指定されているの。

 

古今伝授の太刀の作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて豊後国で活躍した刀工・行平。
行平は反りのある湾刀に刀身彫刻を行った刀工としては、最も古い人物と言われているんだ。
行平の作刀の腰元には、複雑な彫り物が施されていて、佩裏に銘を刻むのが特徴だよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
鎌倉時代の刀が残っているのもすごいですよね〜!さすが国宝!!

 

 

次に古今伝授の太刀の来歴をまとめてみよう。

 

<細川幽斎>

元々、古今伝授の太刀は細川幽斎(藤孝)に伝わっていたんだ。
細川家の重宝であったと言われているよ。

 

<烏丸光広>

細川幽斎が慶長5年(1600)年に田辺城の戦いで籠城戦を繰り広げていた際に、朝廷(後陽成天皇)は三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し講和を命じたの。

これによって講和が成立し、細川幽斎は講和の礼として、勅使であった烏丸光広に古今伝授を行ったんだ。
その際に古今伝授の太刀を烏丸光広に贈ったよ。
この時、「万葉類聚古集」16冊も鳥丸家に伝来したと言われているんだ。

 

<烏丸家へ伝来>

その後は江戸時代を通して烏丸に伝来。
享保名物帳には載らないものの、出来栄えゆえに帳外名物であったと言われているんだ。

 

<近代>

明治27年(1894年)12月に経緯は不明なものの、烏丸光亨から中山侯爵上へと譲られたよ。
昭和4年(1929年)6月29日、中山候伯爵家の売立で出品され、1万1,300円で個人が落札。

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その後、昭和初期に細川家16代当主・細川護立が買い取ったことによって、再び細川家の所有となったよ。

昭和26年(1951年)6月9日に国宝指定され、現在は細川家に伝来する文化財を保存する永青文庫が所有・管理。

 

 

 

【古今伝授の太刀の作風】

 

<刀身>

長さ二尺六寸四分(79.9cm)、反り九分八厘(2.9cm)、元幅2.7cm
造り込みは鎬造、庵棟、腰反り高く、中鋒となり、小切先となる。
彫物は表裏に棒樋を掻き流し、樋内の腰に表は陰刻で梵字、浮彫で倶利伽羅、裏の樋中には陰刻で梵字、浮彫で不動立像が施されているよ。
この不動立像に関しては、行平が修験者であったという伝来から、修験者の祖役小角という説もあるんだ。

 

鍛えは小板目肌が細かによくつみ、地沸細かに厚くつく。
刃文は直刃調に小乱交じり総体にうるみ、砂流し掛かり、小沸深く、刃縁に湯走りかかり、金筋入り、区上で大きく焼き落としている。
帽子は焼詰めごころに掃き掛ける。

茎は生ぶで雉子股形となり、茎尻は栗尻、鑢目は筋違で、目釘孔は2つあり、うち1埋める。
佩裏に「豊後国行平作」の六字銘を切る。

 

姿の古雅な優美さや、地刃の出来、彫物ともに行平の典型作であり代表作でもあるんだ。

 

 

<外装>

附属の革包太刀拵は、丸みを帯びた鞘の形をしていることから、室町時代に制作されたものと考えられているよ。

 

 

【古今伝授の太刀の豆知識】

 

古今伝授の太刀のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

 

<古今伝授の太刀の名前の由来とは?>

 

安土桃山時代、慶長5年に細川幽斎が烏丸光広へ古今伝授を行った際に、この太刀幽斎が光広に渡したため、「古今伝授の太刀」という名で呼ばれるようになったよ。

元々、本太刀は細川幽斎(細川藤孝)に伝わっており、関ケ原の戦いではすでに家督を譲っていた幽斎の嫡子・細川忠興がいち早く徳川に与することを決めたんだ。
その結果、幽斎の籠もる田辺城は1万5000人の西軍兵に囲まれてしまうの。

忠興は大半の兵を引き連れて会津征伐に向かっていたため、田辺城には忠興の実弟・細川幸隆と細川幽斎が率いる500人ほどの軍しかいなかったんだ。
慶長5年(1600年)7月19日に始まった攻城戦は、月末には落城寸前となってしまうの。

 

その当時、細川幽斎は三条西実枝から歌道の奥義を伝える「古今伝授」を相伝されていたんだ。
そのため、弟子の1人である八条宮智仁親王が、細川幽斎が死んで古今伝授が断絶することを恐れ、7月と8月に二度に渡り使者を遣わし開城を進めたよ。
しかし幽斎はこれを謝絶。

八条宮は兄・後陽成帝に奏請し、ついに後陽成帝は三条西実条、中院通勝、烏丸光広の3名を勅使として派遣し、講和を命じたんだ。
これによって、関ヶ原の戦いの2日前である9月13日に篭城が解かれ、細川幽斎から三条西実条に返し伝授が行われ、古今伝授が途絶えるという危機は回避されたの。

この時幽斎は、勅使の1人であった烏丸光広らに対しても古今伝授を行い、その際に烏丸光広に古今伝授の太刀を贈ったと言われているんだ。

 

その後、幽斎は西軍の将である前田茂勝の居城・丹波亀山城に身を移され、細川忠興への豊前一国豊後二郡39余万石拝領が決定。
幽斎にはこれとは別に6000石が与えられ京都で隠棲したんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
歌道の奥義を伝える「古今伝授」というのがあったんだね!!

 

<古今伝授とは?>

 

古今伝授とは最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の解釈を秘伝として伝えたもの。
元々、「古今和歌集」は公家の教養である和歌の中心的存在であったんだ。

実際に、随筆「枕草子」でも「古今和歌集」に関する下りが登場しており、「古今和歌集」を暗唱することは公家にとって重要な嗜みだったの。
暗唱はできても、誰しもがその内容を注釈なしで理解するということは非常に難しかったと言われていたんだよ。

 

古今和歌集の読み方や注釈を秘伝とする風習は、平安時代末期から現れたんだ。
鎌倉時代以降は公家の家筋が固まり、それぞれの家職が分別化されると、歌学を家職としていた二条家の秘事として代々相称されるようになったよ。

 

しかし、二条為衝の死により二条家が断絶してしまうんだ。
すると、二条家の教えを受けた「二条派」と呼ばれる者たちによって、古今和歌集の読み方や注釈が受け継がれていくようになったの。

 

その後、二条家の秘伝は、二条為世の弟子・頓阿に受け継がれたよ。
頓阿は、二条派再興の祖とされていて、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされたんだ。

さらに頓阿から、子孫の経賢、尭尋、尭孝と続いたよ。
尭孝は弟子の東常縁に秘伝をことごとく教授し、常縁は室町時代中期における和歌の権威となっていくの。
この東常縁は足利義尚や近衛政家、三条公敦などに古今集の伝授を行っている人物なんだよ。

 

古今和歌集の伝授を受けるということは非常に大きな権威が伴っていたと言われているの。
東常縁は美濃国郡上妙見宮において連歌師宗祇に古今集の伝授を行ったよ。

連歌師宗祇は三条西実隆と肖柏に伝授を行い、肖柏が林宗二に伝えたことによって、古今伝授の系統は三つに分かれることになっていくんだ。

 

この3つの系統というのが

・三条西実隆が三条西家に伝えた「御所伝授」
・肖柏が堺の町人に伝えた「堺伝授」
・林宗二の伝えた「奈良伝授」

だよ。

 

この中で細川幽斎が伝授されたのは三条西家に伝えられた「御所伝授」だったの。
三条西実隆は当代随一の歌人と評されていて、実隆・公条・実枝の三代は歌道にも優れていて、三条西家は家職として歌道を継承したの。

三条西実枝は、自分の子がまだ幼かったため、のちに子孫に伝授を行うという約束で、弟子であった細川幽斎に伝授を行ったんだ。

細川幽斎に伝授を行った際には、「たとえ細川家の嫡男の一人といえども、絶対に他人には伝授しないこと、三条西家に、もし相伝が断絶するようなことがあれば、責任をもって伝え返すこと」と誓わせたそう。

 

幽斎は田辺城の戦いで石田三成方に包囲されるものの、朝廷によって身柄を保護され開城。
その後、細川幽斎は八条宮智仁親王、三条西実枝の孫・三条西実条などに伝授を行ったよ。

ちなみに朝廷が武士同士の争いに介入したのは、この時だけであったと言われているんだ。
それほど特別なことだったんだよ。
血筋でも物でもなく、和歌の伝授が途絶えることを恐れて朝廷が動くとは、本当に面白いよね。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
歌がそれだけ凄い立ち位置だったんだね!!

 

<古今伝授の太刀の所有者であった細川幽斎とは?>

 

古今伝授の太刀の最初の所持者であった細川幽斎は、細川家中興の祖と言われており、室町時代末期から安土桃山時代の戦乱を生き抜いた武将として広く知られているよ。
幽斎(藤孝)は、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、武芸に通じた武将として活躍したんだ。

その一方で、能、茶の湯など当代一の文化人としても高い教養を示していたの。

その中でもとりわけ歌道については「古今伝授」の継承者でもあり、幽斎から八条宮智仁親王へ、さらに智仁親王から後水尾上皇へと伝えられ、朝廷での御所伝授として受け継がれていったんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と名だたる武将に仕えた人だ!!

 

<細川幽斎から古今伝授の太刀を譲り受けた烏丸光広とは?>

 

烏丸光広は天正7年(1579年)に准大臣烏丸光宣の長男として誕生。
天正9年(1581年)にわずか3歳で従五位下に叙され、慶長4年(1599年)には従四位下蔵人頭を経て、慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列しているの。

この間、慶長5年(1600年)に細川幽斎から古今伝授を受けているんだよ。その後も烏丸光広は昇進し、慶長13年(1608年)には従三位、慶長14年には左大弁に遷任。
烏丸光広は和歌だけではなく、書画や茶道にも通じており、多才多芸であったと言われているよ。

著書も「黄葉和歌集」など数種を残していて、絵は和歌の先人たちの図に自作の歌を添えたものが残っているんだ。

 

 

<古今伝授の太刀を作った刀工・豊後行平とは?>

 

古今伝授の太刀を作刀した豊後行平は平安時代末期から鎌倉時代初期に豊後国で活躍した刀工。
豊後行平は僧定秀の子、あるいは門人とされる刀工であり、紀行平新太夫、紀ノ行平、紀ノ新大夫行平、鬼神大夫とも呼ばれているよ。
行平の在銘の国の指定・認定品は、国宝が1口、重要文化財が7口、重要美術品5口の計13口。

同時期の刀工と比べても、指定・認定数、現存する刀数は多い方なんだよ。
また行平は短刀の創始者とも言われていて、行平以前の作には短刀が確認されていないんだ。

行平は銘を「行平」「豊後国行平」と切っており、隠し銘として「方士」「宗安」「宗秀」「品」と切ることもあったの。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
鎌倉時代ので13口も残っているの。
刀剣レモン
刀剣レモン
今から700年くらいも前の時代のものが残っているだけでも凄いありがたいことですね!!

 

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(公式サイトより引用)

 

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