千子村正 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日物吉貞宗 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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【蜻蛉切の歴史と概要】
蜻蛉切(とんぼきり)は室町時代に作られたとされる槍で、静岡県の県指定文化財に指定されているよ。
2019年時点では個人所蔵で静岡県三島市にある佐野美術館に寄託されているんだ。
この蜻蛉切は、戦国時代の武将であり、徳川四天王の1人でもある本多忠勝が愛用していた槍として広く知られているよ。
本多忠勝は徳川家康の家臣の中でも最も武勇に優れていた武将としても有名だよね。
忠勝が出陣した合戦の中で、1度も負傷することはなかった…という逸話も残っているんだ。
次に蜻蛉切の来歴をまとめてみよう。
<本多忠勝>
徳川四天王の1人である本多忠勝は、蜻蛉切を愛槍として数多くの戦に合戦したんだ。
ここでは蜻蛉切を使った主な戦いをまとめてみよう。
・遠州一言坂の戦い
元亀3年(1572年)10月、遠州一言坂の戦いで武田信玄が大挙して遠江に進入した折、本多忠勝は大久保忠佐とともに退去する際に蜻蛉切を掲げて徳川の殿軍を指揮。
鍬形の冑をつけて、ただ一人だけ槍をとって武田勢を寄せ付けず、無事その役目を果たしたと言われているよ。
勝が敵軍に向け掲げていたのが、他ならぬ蜻蛉切だったの。
武田勢から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛されたんだ。
家康は忠勝に「お前がいたために我が軍は全滅を免れることが出来た」と言って賞詞を与えたそうだよ。
・三州長篠合戦
天正3年(1575年)5月、三州長篠合戦時には、武田軍・内藤昌豊が徳川家康の本陣めがけて突進してきた際に、本多忠勝は蜻蛉切をもって防戦したよ。
・本能寺の変
天正10年(1582年)6月、本能寺の変にあい、徳川家康が泉州堺から逃げ帰るときに、忠勝は蜻蛉切を持ち先導の役を果たしたよ。
・長久手の合戦
天正12年(1584年)4月、長久手の合戦に忠勝はわずか500騎の手兵を携えて豊臣秀吉の大軍数万と並進。
この戦いに挑んだ忠勝の武者振りは、豊臣秀吉の舌を捲かせたという話は歴史上とても有名だよ。
・関ケ原の合戦
慶長5年(1600年)9月に起きた関ヶ原合戦では、徳川家康が島津勢に攻め立てられ切腹しようとしたよ。
忠勝は家康の切腹を止めさせ、島津軍に馳せ向かったんだ。
そこで敵将である川上左京の馬の脚を、蜻蛉切で払おうとしたの。
しかし、忠勝は島津勢の鉄砲に当たってしまい落馬。
危うく首を掻かれるところで、忠勝の家臣であった梶金平が自分の馬に乗せて逃がしたため助かったと言われているよ。
・伊勢桑名城主
1601年、忠勝は伊勢桑名城主になったんだ。
城下の町家河原に出て、馬上で蜻蛉切の石突を握って振り回した後、柄を三尺ほど切り詰めたんだ。
忠勝の家臣がその行動を不審がると、「道具は己の力に応じたものでなければならぬ」と忠勝は言ったそう。
鹿角の兜と鎧、そして蜻蛉切の槍は共に本多家に長く伝わり、往年の忠勝の武勇を物語っているよ。
記録によると螺鈿の柄が付属することになっているけれどその所在は分かっていなくて、朴の鞘、樫の短かい柄がついているだけなんだ。
<近代>
忠勝の死後、黒糸威胴丸具足と共に子孫である本多家に伝わった蜻蛉切は、第二次世界大戦時に本多家を離れるよ。
その後、沼津市の実業家でありコレクターでもあった矢部利雄氏が入手。
ちなみにこの矢部利雄氏は一代で矢部コレクションと呼ばれる美術品のコレクションを収集した人物でもあるんだ。
矢部氏の没後は、蜻蛉切を含めた矢部コレクションは、静岡県三島市の佐野美術館に寄託され、2015年1月からは11年ぶりに展示されたんだ。
また、愛知県岡崎市の岡崎城内「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されているよ。
【蜻蛉切の作風】
<刀身>
蜻蛉切は、笹の葉のような形をした大笹穂槍(おおささほやり)だよ。
刃長は1尺4寸4分弱(43.7cm)、茎は1尺8寸(55.6㎝)、最大幅3.7cm、厚み1cm。
平三角と呼ばれる、上から手元に向かって見ると三角形の底辺が非常に長い形をしているんだ。
重量約499gでかなり軽量な造りになっているんだ。ちなみに通常の刀の平均は800g~1kg程度と言われているからかなり軽いよね。
軽量化のために蜻蛉切には表に樋(ひ)と呼ばれる溝が4本、裏には幅広な樋の中と下部に彫刻が施されているんだ。
裏の彫刻は、下から上に、仏様が座る台座である蓮台、不動明王を表す長梵字、不動明王の持っている剣である「三鈷柄剣」、観世音菩薩の梵字、阿弥陀如来の梵字、地蔵菩薩の梵字が彫られており、修験道的な要素を強く感じさせる槍となっているよ。
姿も彫刻もどちらも非常に優れている美しい槍と言われているの。
鍛えは、板目に柾がかり、よく詰む。
刃文は、互の目に湾れ交じり、小沸つき、砂流しかかる。
茎は鑢目切、目釘穴は2つ、藤原正真の五字銘を切っているよ。
この蜻蛉切は、天下三名槍の中でも唯一武勲を残していて、出来はもちろんのこと「天下を取った槍」という出自が天下三名槍に数えられた所以となっているんだ。
<外装>
柄の長さは戦国時代の通常の槍では標準的な2丈あまり(約6m)だったものの、晩年には体力が衰えたため、2尺あまり柄を短く詰められたんだ。
また、柄には青貝がちりばめられた螺鈿細工が施されてあったと伝わっているものの、現存はしていないよ。
長さ九尺六寸ともいうものの、現存するものは長さ一丈三寸で鉄の口金、鍔、石突きがついているんだ。
忠勝は槍には柄のみで鞘をつけず、裸身に油紙で巻いていたとも言われているの。
戦場では鞘が邪魔になるからこうしていたんだよ。
【蜻蛉切の豆知識】
蜻蛉切のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<蜻蛉切の名前の由来は?>
蜻蛉切という名前が付いた由来は諸説あるんだ。それぞれまとめてみよう。
・蜻蛉が真っ二つになった説
蜻蛉切という名前は、ある戦場で本多忠勝が槍を立てて休んでいたところに、どこからともなく蜻蛉が飛んできたそう。
その蜻蛉が槍の穂先にぶつかってしまい、その瞬間に真っ二つになってしまったんだ。
このことが由来となって「蜻蛉切」と言われるようになったんだよ。
ちょっと先端に止まっただけの蜻蛉が真っ二つになるなんて相当な斬れ味であることがよく分かるね。
敵将からすれば、蜻蛉切は恐ろしい槍であったことは間違いないよ。
・忠勝は槍を振ると蜻蛉をも切り落とすと言われていた説
また別の説としては、本多忠勝が槍の名手であったため、槍を振ると蜻蛉を切り落とすと周囲から言われていたんだ。
そのため、忠勝が愛用している槍を「蜻蛉切」と呼ぶようになった…という説もあるの。
・日本の別称である蜻蛉から名付けた説
蜻蛉切を手に本多忠勝は多くの合戦に臨んだんだ。
本多忠勝は徳川四天王の1人として様々な武勲を立てたよ。
彼なしでは徳川家康の天下平定は語れない…と言っても過言ではないんだ。
一説によると、家康は忠勝に「そなたのこの槍で日本を手に入れたのだから、名を日本切にしたらどうか」と言ったそう。
これを聞いて忠勝や家康に対して「日本では恐れ多いので、日本の別称である蜻蛉から取って蜻蛉切と名付けます」と伝えたんだ。
古くは、トンボのことを古語で「あきつ」と呼んでおり、日本列島の形がトンボの交尾の形に似ていることから日本には秋津島(あきつしま)という別称もあったんだよ。
<蜻蛉切は天下三大槍の1つ>
蜻蛉切は「日本号」「御手杵」と並んで天下三名槍の1つに数えられている名物だよ。
江戸時代に西の「日本号」、東の「御手杵」と呼ばれていたものに、後から蜻蛉切が加わったと言われているよ。
蜻蛉切は天下三大槍にふさわしく、非情に槍の長さが長いのが特徴。
当時、通常の槍の長さは一丈半(約4.5m)程度であったのに対して、蜻蛉切は二丈(約6m)もあったんだ。
とても長いよね。
蜻蛉切の所有者であった本多忠勝は歳を重ねるごとに、槍の柄を短くして使っていたと言われているよ。
6mの槍を操るには相当な体力がいりそうだから、歳を取って体力面で衰えてきたらそんな長い槍はなかなか使いこなせないよね。
<蜻蛉切を所有していた徳川四天王の1人、本多忠勝とは?>
徳川家康の側近の中でも、数多くの功績を立てたことで知られている本多忠勝。
家康配下髄一の勇将と称され、通称「平八郎」でも広く知られているよ。
忠勝は生涯57回戦場に出て、1回もかすり傷すら負わなかったという逸話が残るほどの猛将だったんだ。
また、彼の愛用する蜻蛉切も多くの戦で忠勝の武器として活躍したよ。
本多忠勝は家康の安祥譜代の本多氏の一族・本田忠高の長男として生まれ、幼い頃から家康に仕えていたんだ。
永禄3年に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣。
忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどにも参戦したよ。
三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、忠勝は浄土真宗から浄土宗へと改宗し家康側に残ったんだ。
姉川の戦いで朝倉軍との一騎打ちで名をはせた忠勝は、合戦における活躍で敵味方を問わず称賛されたよ。
元亀3年(1572年)遠江国の二俣城を巡り、武田信玄と徳川家康が戦った一言坂の戦いでは、武田軍からの追撃を食い止めるため忠勝が殿を務めて家康本隊を逃がす大役を果たした
の。
徳川軍の敵軍であった武田軍の小杉左近は、本多忠勝の武勇を見て「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」という狂歌を残しているんだ。
また主君である家康からも「まことに我が家の良将なり」と激賞されたんだ。
数多くの合戦で功績を残した忠勝だけど、とりわけ名を上げたのが天正12年に起きた「小牧・長久手の戦い」だよ。
単騎で豊臣秀吉の大軍の前に立ちはだかった忠勝は、川に乗り入れて悠々と馬の口を洗わせたんだ。
この豪快&大胆なふるまいや活躍を見た敵将・豊臣秀吉は忠勝のことを「東国一の勇士」と賞賛したそう。
本多忠勝は、酒井忠次、榊原康政、井伊直政らとともに天正17年(1589年)徳川家康の関東移封後、家康配下の大名として貢献。
徳川四天王と呼ばれるようになったんだ。
本多忠勝は戦闘での活躍がクローズアップされがちなんだけど、桑名藩の藩政を確立するための政務も数多くこなしたよ。
町割りの断行、宿場の整備などを行って、城郭の修繕を図り、桑名藩創設の名君として仰がれているんだ。
<本多忠勝が身に着けていた武具とは?>
本多忠勝の武器といえば「蜻蛉切」の槍が有名だけど、実は鎧や兜も特徴的なものだったんだ。
ここでは本多忠勝が身に着けていた武具についてまとめてみよう。
・鎧「黒糸威胴丸具足」
本多忠勝が身に着けていた鎧は「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」というよ。
この黒糸威胴丸具足は比較的軽かったそう。
蜻蛉切が長くて重かったから、鎧は動きやすさを重視したんだね。
殺傷能力を高くして、攻撃重視を貫いた本多忠勝は、先手必勝で攻撃は最大の防御と考えていたんだ。
また本多忠勝は肩から数珠をかけていたのが特徴だったよ。
この数珠は戦った相手や自分が討ち取った相手を弔うためのものだったそう。
・兜「鹿角脇立兜」
本多忠勝と言えば非常に特徴的な兜を使用していたんだ。
それが「鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)」だよ。
見た目のインパクトが強いこの兜は、和紙を貼り合わせて、黒漆で塗り固めた脇立は、鹿の大きな角を使用しているの。
忠勝の兜は圧倒的な存在感があり、尚且つ、近づきにくい印象を相手に与えるんだ。
なぜ忠勝は特徴的な兜を使っていたんだろう?その理由の1つが鹿のように家康を生涯守ろうと決めた忠勝の強い思いがあったんだ。
桶狭間の合戦で主君・徳川家康とともに三河に戻ろうとしていた際、雨で川が増水し、通れなくなってしまったよ。
織田家が迫ってくるかもしれない…という状況の中で、一匹の鹿が突然現れ、家康と忠勝を浅瀬まで導いてくれたそう。
そのおかげで無事に三河に戻ることができたよ。
忠勝はこの出来事を経験して、この鹿のように家康を生涯守ると決心。
鹿の角を使った兜を作ったと言われているんだ。
鹿によって助けを得たことに、運命的なものを感じたのかもしれないね。
<蜻蛉切を作った正真とは?>
蜻蛉切の作者は、刀工・正真(まさざね)だよ。
三河文殊派の刀工と言われているけれど、同時期に大和文殊派にも同じ名の刀工がいたそう。
両者の銘振りが似ていることから同人であるという説もあるんだ。
村正の一門であった正真の刀は持ち手部分である茎が魚のたなごのお腹のような形をした「たなご腹」という形をしているのが特徴。
刃文は全体にまっすぐしている直刃で、手元に近い部分はうねる腰乱のスタイルになっているよ。
切れ味のよさを誇る村正の系譜であることから、蜻蛉切の切れ味も相当なものなんだ。
<蜻蛉切と同名の槍があった?!>
江戸時代の記録によると、本多家にはもう1つ蜻蛉切と呼ばれる槍があったと言われているんだ。
形は直穂で違うものの、同じ模様が彫られていて、作者も同じ正真だったそう。
刃長1尺4寸(42.4㎝)、茎1尺8寸(54㎝)、幅3.6㎝、厚み1㎝。
もう1つの蜻蛉切の消息は全く不明となっているよ。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
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