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山姥切国広 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

【山姥切国広の歴史と概要】

 

山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)は安土桃山時代に作られた日本刀だよ。
日本の重要文化財に指定されていて、指定名称は「刀 銘九州日向住国広作 天正十八年庚弐月吉日平顕長(山姥切)」なんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
指定名称。。。とても覚えれません。てへへ。。

 

この山姥切国広は、安土桃山時代の山城国(現在の京都府)堀川の刀工で、新刀の祖とも呼ばれた名工・堀川国広が作った打刀。
実はこの山姥切国広は、「山姥切長着」と呼ばれる刀を写して作った模倣刀なんだ。

国広が山伏として諸国を放浪していた時に、下野国(現在の栃木県)の足利城主であった長尾顕長の依頼を受けて、天正18年(1590年)に山姥切長義を写したよ。
この山姥切国広は堀川国広の最高傑作とも言われており、優れた刀を模造して作られた写しでありながら、魅力に富んだ名刀なんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
写しでもすごい出来で名刀なんだよ!!

次に山姥切国広の来歴をまとめてみよう。

 

<長尾顕長>

足利城主であった長尾顕長が、足利を訪れていた刀工・堀川国広に依頼。
顕長所有の備前長船派・山姥切長義の刀を写して打ったよ。
出来が素晴らしく「山姥切国広」と呼ばれるようになったんだ。

 

<石原甚左衛門>

小田原落城後、長尾顕長は領地を没収されてしまい、刀は北条家遺臣・石原甚左衛門の手に渡ったよ。

 

<渥美平八郎>

その後、関ケ原の戦いの際には、石原甚左衛門は井伊家の陣に加わり参戦。
井伊家の渥美平八郎が刀を折ってしまい困っていたのを見て、石原甚左衛門は渥美平八郎に山姥切国広を与えたんだ。

ちなみに石原甚五左衛門家は400石。
渥美平八郎家は正法念流未来記兵法憲法を学び、子孫師範役となって代々平八郎を名乗って三百石を領したよ。

 

<明治維新後は転々とする>

明治維新後は、山姥切国広は転々とすることになるよ。
渥美家から彦根長曽根の北村醤油屋に質に入れ流してしまうことに…。
質に入った山姥切国広を、旧藩士・三居某が買い取り秘蔵するようになったんだ。

 

<井伊家>

大正9年(1920年)、国宝審査員である杉原祥造が押し型を取っているんだ。
この時山姥切国広は、井伊家にあったよ。

 

<その後>

井伊家に伝わっていた山姥切国広は関東大震災で焼失したとされてきて、長らく行方不明になっていたんだ。
しかし昭和35年(1960年)にひょっこり出現。

実は関東大震災に遭う前に、井伊家から井伊家の家臣に下賜されていたの。
昭和35年(1960年)、旧臣の子孫がお金に困ったために、旧主家である井伊家へ買取方を願い出たそう。
井伊家から本間氏に相談が来たことで、山姥切国広の所存が判明することになるの。
この事実は、当時の刀剣界に大激震が走るほどの大きな事件だったんだよ。

 

山姥切国広は名古屋の愛刀家・高橋経美氏が買い取るよ。
さらにそれを日本相撲協会映画部の伊勢寅彦に譲ったんだ。
伊勢寅彦氏は、国広を多く収集していたコレクターでもあるんだよ。

 

山姥切国広が見つかって2年後の昭和37年(1962年)に重要文化財に指定。
1966年刊行の「日本の美術 Vol.6 刀剣」佐藤寒山編でも伊勢寅彦氏が所蔵しており、現在は個人所蔵となっているんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
おいくらで買い取ったんだろうね!

 

【山姥切国広の作風】

 

 

<刀姿>

全長89.99cm、刃長70.6cm、茎長19.39cm。
元幅3.33cmに先幅2.97cmと身幅が広く先幅張り、鋒長7.73㎝と大鋒。
反りは2.82㎝の先反の強い堂々たる姿である。

刀剣の形状は刀身の中程に鎬筋を作り、横手筋を付けて峰部分を形成した「鎬造り」で鎬低く鎬幅狭く、重ねは薄い。
刀身の背の部分である棟の形状は刀身の背の部分が三角形のように尖っている「庵棟」になっているよ。

表裏には刀身に彫られた樋が、茎の先まで続けて彫られているんだ。
姿は豪壮で、激しい乱刃を焼いた優作と言われているよ

 

<地鉄・刃文>

鍛え肌の模様である地鉄は、木材の板目のように見える「板目」で、杢(年輪のような模様)交じり総体に流れごころに肌立ち。
ザングリとして地景(地鉄に現れる線状に黒く光る模様)交じり、地沸よくつき、飛焼(焼刃が刃縁から離れ、地中に変則的な形で現れたもの)が入り、棟焼頻りにかかる。

ザングリとは、国広など堀川派の地鉄のことを表す表現で、板目肌に杢目や柾目が交じってよく練れ、地沸や地景などが盛んに入り、鍛えが粗雑でないのにざらついて模様がよく見えるもののことを言うよ。
まとまりをもっていて、柔らかみがあるのが特徴なんだ。

 

刃文は、ったりと寄せる波のようにゆるやかな曲線を描く刃文である「のたれ調」に箱がかり互の目交り大乱となり、足・葉繁く、匂口締りごころに沸つき、砂流しかかる。
帽子は、乱れ込み、表裏とも飛焼かかり、先掃きかけて返り、沸つく。
彫物は、表裏に帽子を掻通す。

茎は、生ぶで先は栗尻、鑢目は筋違で、あまり立てず、目釘孔が一個。
表目釘穴の下に細鏨で「九州日向住国広作」、裏に「天正十八年庚弐月吉日平顕長」と銘が刻まれているよ。

 

 

【山姥切国広の豆知識】

 

山姥切国広のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<山姥切国広の名前の由来とは?>

山姥切国広という名前の由来は2つあるんだ。

それぞれまとめてみよう。

・山姥切長義の名前からついた説

山姥切国広は、山姥切長義を模写した刀だよ。
そのため、名前も山姥切長義から取って「山姥切国広」と呼ばれるようになったんだ。

 

・山姥を斬った説

小田原征伐後、小田原が落城し、長尾顕長は領地を没収されてしまい、刀は北条家の遺臣であった石原甚五左衛門の手に渡ったそう。
石原甚五左衛門が安住の地を求めて、信州の地へ向かう途中で妊娠中の妻が産気づいてしまうんだ。

そこで石原甚五左衛門は薬を探しに行くために、山中にあったあばら屋の老婆に妻を任せて、あばら屋を後にしたの。
戻って来てみると、あばら家の老婆は妻が産み落とした赤ん坊をむさぼり食べていたそう。

その姿を見て驚くとともに、怒り心頭に発した石原甚五左衛門は、山姥切国広で老婆を斬りつけたんだ。
すると、老婆は斬られながら虚空へ消えて行ったという伝説が残っているよ。

この怪談話が元となって「山姥切国広」と呼ばれるようになったと言われているよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
山姥切り!!怪談が元になっていたらいいのにね!

 

<山姥切国広は山姥切長義の写しだけどあんまり似てない?!>

山姥切国広は、南北朝時代の備前長船長義が作った「山姥切長義」の写しとして作られたんだ。

山姥切国広と山姥切長義は、峰の形状と樋先の位置関係などは正確に模写されているけれど、反りを含めた全体の姿形と茎仕立てはあまり似ていないの。

当時の刀工が持つ写しについての意識と、現代の復元模造に対する意識の違いがよく表れているんだ。
当時の写しは現代の復元模造とは違い、忠実な部分まで再現していないことがよく分かるね。

 

昭和時代の刀剣研究家・本間順治は「単なる模作ではなく、地刃の働きと、すすどしさは長義をさらに強調していて、放胆の味さえ加わって長義の作中にあっても出色のもの云い得よう。」と評価しているんだ。

 

ちなみに模写刀と元となった刀と、模写した刀がどちらも重要文化財にされている唯一の事例なんだよ。

山姥切国広は昭和37年(1962年)6月21日に重要文化財に指定、山姥切国広の元となった山姥切長義はそれより前の昭和24年(1949年)2月18日に重要文化財指定を受けているんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
模して作ったけど似ていない。。もはや別物の刀のようだけど、凄い出来が良かったんだろね!

 

<山姥切国広を作った刀工・堀川国広とは?>

山姥切国広は日向国(現在の宮崎県)で伊藤氏に仕えていた刀工・堀川国広だよ。
堀川国広は伊藤氏が滅亡すると諸国放浪を行っていて、下野国(現在の栃木県)の足利城主であった長尾顕長の依頼を受けて、山姥切長義を写したよ。

堀川国広は「新刀の祖」と呼ばれるほどの名工であり、数多くの弟子も輩出しているんだ。

この足利滞在中に作刀した「山姥切国広」に関しては、堀川国広の天正打といわれる刀の中でも一番の傑作としても名高いよ。
ちなみに山姥切国広は、下野国足利において鍛刀したものと推測されているんだ。

長尾顕長の命を受けて山姥切長義の写しをつくることになった堀川国広は、山姥切国広を打つのと並行して、山姥切長義をより実用的にするために短く鍛え直したと言われているよ。
天正18年(1590年)2月に写し「山姥切国広」を鍛刀して、5月3日に本歌・山姥切長義に磨き上げを行い、磨上銘を切っているんだ。
磨上げについては元来、大磨上無銘だったものに切付銘のみを行ったという説もあるよ。

 

<山姥切国広を作らせた武将・長尾顕長とは?>

刀工・堀川国広に命じて山姥切国広を作らせた長尾顕長は、足利城主だったんだ。
長尾顕長が北条氏直から拝領した備前長船長義作「山姥切」の写しを、堀川国広に依頼して出来上がった打刀が「山姥切国広」になるの。

ちなみに長尾顕長が北条氏直から山姥切長義を拝領したのは天正14年(1586年)のことだよ。

長尾顕長は由良成繁の3男として生まれ、長尾当長の娘を正室にしたので長尾家の養子となり、「長尾」と名乗るようになったんだ。
最初は兄とともに織田家の滝川一益に仕えていたものの、天正11年(1583年)には北条氏直に仕えることになるよ。

天正18年(1590年)の小田原征伐では北条方として戦い、北条氏の敗北後、長尾顕長は所領のすべてを失ってしまい、生涯浪人の身となるんだ。
長尾顕長の子である長尾宣景は徳川家の家臣である土井利勝に家老職として仕えていたよ。

 

 

<刀剣乱舞で大人気となった山姥切国広>

平成27年(2015年)に公開されたPCブラウザ、スマホアプリゲーム「刀剣乱舞」で山姥切国広をモデルにしたキャラクターが登場。
それをきっかけに山姥切国広は注目を集めるようになるんだ。

平成29年(2017年)3月に行われた足利市立美術館での公開展示では、山姥切国広を約20年ぶりに見ることができるとあって期間中の来場者数は累計37,800人にもなったそう。

来場者の8割以上は10~30代の若い女性ファンだったんだよ。
いかに刀剣乱舞人気がすごいかがよく分かるよね。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
8割が女性ファンだなんて!刀剣界で!!凄いことですよ!

 

<本歌と写しの関係である山姥切長義と山姥切国広>

山姥切国広は山姥切長義(本作長義)の写しだよね。
では山姥切長義はどのような日本刀なんだろう。

山姥切長義についてまとめてみよう。

山姥切長義は本作長義とも呼ばれていて、南北朝時代に作られた打刀だよ。
日本の重要文化財に指定されていて、愛知県名古屋市にある徳川美術館が所蔵しているんだ。

 

この山姥切長義は南北朝時代の備前長船派の刀工・長義の代表作なの。
長義本人の手による銘は磨き上げしたことで残っていないんだけど、62文字からなる長文の切り付け銘は残っているよ。
この銘は天正18年(1590年)に刀工・堀川国広が刻んだものなんだ。

 

山姥切長義の作者である刀工・長義は、備前長船派の長光・景光・兼光の主流派とは違う別系統で、従来の備前風の作風を基本として、相州風の作風も加味した相伝備前を生み出した刀工なんだ。
山姥切長義は、相伝備前の典型的な作品であり、身幅が広くて豪壮な姿をしているよ。
この山姥切長義は、北条氏直から長尾顕長へ、臣従儀礼の一環として贈られたもので、長尾家と小田原北条家との関係が日本刀の銘文で裏付けされているの。

 

山姥切長義(本歌)と山姥切国広(写し)は峰の形状や樋先の位置関係などは正確に模写されているものの、反りを含めた全体の姿形と茎仕立てはあまり似ていないんだ。

ただ、本作をねらったことが明らかな相似形と、両方の銘にある「天正十八年」「顕長」からこの2つの刀が本歌と写しの関係であることは、大前提で語られているの。
堀川国広の「慶長打(堀川打)」と呼ばれる相州伝に学んだ作風は、山姥切長義を写したことが契機となったのでは?とも言われているよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
写しで模したと言われようとも、実際の刀ですからね!そりゃ、同じ同じのは出来ませんよ!!
刀剣レモン
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むしろ、完全なる同じじゃなくて良かったのかもしれませんね!

 

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(公式サイトより引用)

 

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