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薬研藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

 

【薬研藤四郎の歴史と概要】

 

薬研藤四郎(やげんとうしろう)は鎌倉時代に作られた短刀で、「享保名物帳・焼失の部」にも記載されている名物なんだ。
薬研通吉光(やげんとおしよしみつ)と呼ばれることもあるの。
薬研藤四郎の作者は、鎌倉時代の山城国の粟田口派の刀工で、短刀の名手として知られていた藤四郎吉光だよ。

 

この薬研藤四郎は織田信長とともに本能寺の変で焼けてしまい、そのまま失われてしまったと言われており現存していない短刀なんだ。
ただ焼失原因に関してはいくつかの異説があるよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
現在は現存しない刀ですが名刀入りしてるんです。涙

次に薬研藤四郎の来歴についてまとめてみよう。

 

<足利将軍家>

薬研藤四郎は、元々足利義満の佩刀だったんだ。
1391年に起きた明徳の乱直後の成立とみられる「明徳記」では足利義満所持と伝えられているよ。
明徳記は畠山記よりも100年前の成立とされているの。

 

<畠山家>

「畠山記」では明応の政変時に起きた畠山政長による薬研藤四郎のエピソードと、名前の由来が伝えられているんだ。
この記述が正しいとすれば、畠山政長の時には畠山家に薬研藤四郎はあり、その後再び足利将軍家に戻ったのではないか?と考えられているよ。

 

<足利将軍家から松永久秀へ>

薬研藤四郎は足利将軍家の重宝となり、13代将軍・足利義輝を攻め殺した松永久秀が分捕り、所持したと言われているよ。

 

<織田信長>

松永久秀に奪われた薬研藤四郎は織田信長へ献上されたんだ。
信長へ献上されたのは元亀4年(1573年)1月10日とされていて、農州岐阜へ行ったときに織田信長に松永久秀が贈ったと言われているよ。
ちなみに松永久秀は薬研藤四郎を献上する際に、不動国行も献上しているそう。

 

天正8年(1580年)2月22日に天王寺屋こと津田宗及が京都に信長を訪ねた際、信長は薬研藤四郎を宗及に見せたそう。
信長はこの時、脇差を14口、腰物を8口みせたそうで、その中に薬研藤四郎も含まれていたんだよ。
それから2年後、本能寺の変で信長は討たれ死んでしまうけど、薬研藤四郎もまた信長とともに本能寺の変で焼け落ちたと言われているんだ。

 

<豊臣秀吉>

薬研藤四郎は本能寺の変で焼け落ちたという説以外にも豊臣秀吉が秘蔵していたという説もあるんだ。
この説では、織田信長から豊臣秀吉を経て、秀吉の息子・秀頼にわたって、その後慶長16年3月28日に二条城にて徳川家康に贈られたとされているよ。
ちなみに薬研藤四郎は「太閤御物刀絵図」にも記載があり、石田本はこの薬研藤四郎で始まっていて、埋忠本でも記載が確認できているんだ。

 

<徳川将軍家>

豊臣家に伝わった薬研藤四郎は「大坂夏の陣」で行方不明になるものの、河内国(現在の大阪府)の農家で発見され、発見した農民から本阿弥又三郎が入手したんだ。
それを金百両にて徳川幕府2代将軍・徳川秀頼に献上されたという説もあるんだ。

徳川将軍家が薬研藤四郎を所持したと言われているけれど、たしかな消息は不明なの。
ただ8代将軍・徳川吉宗が本阿弥家に命じて編集させた名刀目録の「享保名物帳」では焼失之部に薬研藤四郎が掲載されているよ。

 

現時点でも薬研藤四郎の所在は分かっておらず、現存していないんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
現存してて欲しかったね〜!!

 

【薬研藤四郎の作風】

 

<刀身>

薬研藤四郎は刃長8寸3分(25.1cm)、平造りで刃文は直刃で小板目肌、目釘孔は一個だよ。
全く飾り気のないシンプルなデザインの短刀だったの。
うぶ中心で「吉光」と二字の銘が刻まれているんだ。

切先の刃文は横の筋から切先に向けて小さな円を描いていて、「小丸に返る」と呼ばれるものとなっているよ。
現存していないため、詳しいことは良く分かっていないんだ。
ただ凛としたかっこよさがあったと言われているよ。

 

<外装>

薬研藤四郎には拵えがついていて、柄の頭と縁は同じ金でできているよ。
鞘の長さ1尺1寸5分(約34.8cm)で黒塗りになっていて、腰元は縄の模様が刻まれた金で巻かれているんだ。
髪を整えるために用いた笄(こうがい)は桃山時代以前の古後藤(後藤家)の作品となっているの。
胴は赤銅で、壺桐の紋があり、鐔の端である耳は金だったと言われているよ。

 

 

【薬研藤四郎の豆知識】

 

薬研藤四郎のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<薬研藤四郎の名前の由来とは?>

 

薬研藤四郎という名前の由来は、室町時代の所有者であった畠山政長の自害が関係しているの。
室町時代の守護大名・畠山政長は、明応9年(1500年)4月9日に起きた明応の政変で河内国渋川郡賀美郷(現在の大阪市平野区)にある河内正覚寺城を包囲されてしまうんだ。

 

畠山政長は我が子である畠山尚順を逃した後に、この薬研藤四郎を使って切腹しようと試みたよ。
しかし何度、切腹しようとしても腹に刀が刺さらず、政長は苛立って薬研藤四郎を投げつけたんだ。
するとその近くにあった薬研に表裏を貫いて突き刺さったそう。

薬研は頑丈な意思性なので、それをも貫くとはすごい切味を持った刀なんだ。
この出来事があってからこの刀は「薬研藤四郎」と呼ばれるようになったんだよ。

 

畠山政長の家来であった丹下備後守は自分の差料・信国で自分の膝を2度刺した後、その刀を政長に差し出したんだ。
結局、政長はその刀を使って腹を十文字に掻き切って果てたと言われているよ。

ちなみに薬研(やげん)とは薬を調合する時に使う鉄製の器具のことで、中に薬種を入れて細かくひく石で作られた器の名称なんだ。
当時は漢方薬などを造る際に、草・根・鉱物質を細かくするのに使われていたよ。
薬研は石製の他にも、鉄製、木製、陶製のものがあったの。

このような畠山政長のエピソードから、薬研藤四郎は「鉄の薬研を貫くほど切れ味が鋭いのに、主人の腹を切ることは出来ない、主思いの刀」という噂が公家や武士の間で広まり、評判になったそう。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
泣かせてくれるエピソードです〜!

<薬研藤四郎には複製がある>

2016年冬に刀鍛冶の水木良光が依頼を受けて、2017年夏には再現刀として薬研藤四郎の複製を作刀したんだ。
水木良光は、薬研藤四郎の絵図が描かれている「太閤御物刀絵図」から刀の長さや幅などを正確に割り出して、絵図通り作刀したんだよ。

 

刀剣界には「写し(うつし)」と呼ばれる技法が存在するの。
写しとは、ある日本刀の寸法などを手本として、それを忠実に再現すること。

 

<薬研藤四郎の所有者で名前の由来ともなった畠山政長とはどんな人物なの?>

畠山政長は室町時代後期から戦国時代前期に活躍した武将で守護大名でもあったんだ。
畠山政長といえば、お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こしたことで有名だよ。

 

畠山政長と畠山義就はいとこ関係で、父親が兄弟なんだよ。
義就の母親の身分が低い事もあって、当初畠山持国は弟の持富を後継者にしようとしていたの。
けれど気が変わり、持国は庶子である義就を後継者にしようと考えるようになったんだ。

持冨自身はこれに納得していたものの、家臣の一部にはこの人事に納得しない者もいて、反対派の家臣たちは持富の死後、持冨の子供である弥七郎や政長を推す事になるよ。
この畠山家の家督争いが、応仁の乱の引き金へと繋がっていくんだ。

 

<薬研徹しは薬研藤四郎と同じかもしれない?>

足利将軍家重代の粟田口吉光(藤四郎吉光)の短刀の中には「薬研徹し(やげんとおし)」というものがあるんだ。
山名氏清・満幸らが、明徳2年(1391年)12月に、京都に攻め入った時、室町幕府将軍・足利義満は篠作・二つ銘の太刀とともに、薬研徹しを佩いて出陣したと伝わっているよ。
刃長は不明なんだけど、中心の長さからみて薬研徹しは薬研藤四郎とほぼ同じで、もしかすると同物なのでは?とも言われているんだ。

刀剣レモン
刀剣レモン
薬研徹し(やげんとおし)と同一の刀なら!

 

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刀剣乱舞とは

刀剣男士と共に―いざ出陣!

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(公式サイトより引用)

 

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