不動行光 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月5日小烏丸 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月5日目次
【獅子王の歴史と概要】
獅子王(ししおう)は、平安時代に作られたとされる日本刀で、日本の重要文化財に指定されているよ(刀身と拵えの両方一括)
現在は東京都台東区にある東京国立博物館に所蔵されているんだ。
刀身自体に銘は切られておらず、獅子王を作った刀工は不明なんだ。
ただ平安時代の「大和伝」の特徴がみられることから、大和の刀工作の太刀ではないかと言われているの。
また「源平盛衰記」によると「獅子王丸」と呼ばれたとされているんだ。
この獅子王は鎌倉時代の軍記物語「平家物語」にも登場しており、優れた行いに対する褒章として与えられた刀剣として現在まで名を残しているの。
次に獅子王の来歴をまとめてみよう。
<源頼政>
獅子王は源頼政が朝廷より賜った刀だったんだ。
都を騒がせた鵺を仕留めた恩賞として天皇から源頼政に下賜されたものであると「平家物語」「源平盛衰記」には伝えられているよ。
<斎村政広>
源頼政から、頼政の子孫である但馬国竹田城城主・斎村政広へと受け継がれたよ。
斎村政広は関ケ原の戦いで当初は西軍に加担し、細川幽斎の居城・丹後田辺城を攻めたんだ。
しかし、石田三成が敗れると亀井茲矩の誘いを受けて徳川方に寝返って、亀井とともに西軍・宮部長房の居城である因幡鳥取城を攻めたよ。
関ケ原の戦い後、鳥取城を攻めた際に、城下を焼き払ったことが原因で、ひとり罪をかぶせられてしまうんだ。
徳川家康に切腹を命じられて、真教寺で自害させられ、獅子王は家康に没収されてしまうよ。
<土岐頼次>
その後、獅子王は徳川家康から源頼政の子孫である土岐頼次へと与えられたんだ。
頼次が徳川家康に拝謁した際に、頼次を土岐家の嫡流として認め、本領を安堵されて旗本になっているよ。
その時にこの「獅子王」を与えられたの。
<明治天皇>
土岐家に代々受け継がれていった獅子王は、明治時代皇室へと献上され、朝廷の手元へ戻ることになったんだ。
明治15年(1882年)6月19日、土岐頼近から東久世通禧を通じて明治天皇に献上されたの。
「明治天皇紀」の15年6月17日条に「高倉天皇より土岐家の始祖である源頼政に下賜されたと伝わる獅子王の刀を明治天皇に献上した」と記録されているよ。
<近代>
昭和22年(1947年)宮内省より国立博物館に移管。
昭和46年(1971年)6月22日に拵と一括で重要文化財に指定され、指定名称は刀身が「太刀 無銘」、拵が「黒漆太刀拵」。
拵に関しては刀身の附指定ではなくて、本指定になっているの。
現在は東京国立博物館に所蔵されているよ。
【獅子王の作風】
<刀身>
刃長二尺五寸五分(約77.3㎝)、反り九分(約2.7㎝)
形状は、鎬造の庵棟、鎬高く幅広く、腰反り高い、カマス切先で地刃、目釘穴は1個。
平安期大和物の特色が非常に強い、典型的太刀体配の太刀となっているよ。
重ね(刀身の厚み)は薄く、身幅が低い(刀身の幅が狭い)という特徴があり、同時代の太刀と比べて全体的に小振りになっているの。
源頼政が拝領した際の獅子王は、三尺五分五寸(102.5センチ)の大太刀であったとする資料もあり。
現状の刀身は摺り上げが行われ、作刀時からは大幅に研ぎ減っている状態であると解釈されているんだ。
ただ異説もあり、生ぶ茎で、摺り上げや研ぎ減りによる作刀後の体配の変化が見受けられないことや、後世に体配が変えられたとすると附随する拵えの製作年代との整合性が取れないことなどから、はじめから小太刀として作成されたものではないか?という考えもあるの。
<外装>
刀身と併せて外装として黒漆塗糸巻太刀様式の拵が現存。
通常見られる他の太刀拵と比べると、足金物の一の足と二の足の間隔が非常に大きく、石突と青金の間隔が狭いのが特徴なんだ。
これは他の拵には例を見ない独特の様式なの。
鞘、柄、大切羽付の木瓜形練革鍔と、山金製金具の全体に渡って黒漆を掛けた上から、鞘には黄地錦を巻いた上に紺色の糸で渡巻を施されているよ。
柄は現状では剥出しにした鮫皮に黒漆を掛けている黒漆掛出鮫柄なんだけど、往時には柄には鞘と同色の下地錦と柄巻が施されていたのではと考えられているんだ。
目貫は丸に三つ巴紋、金鍍金巴紋容彫りの銀製丸目貫を配しているよ。
これら刀身、外装に加えて橙色錦包の太刀緒も附属しているんだ。
「号 獅子王」の黒漆塗糸巻太刀の拵は、平安期に作られたものとしてはほぼ製作当初のままの外装を残しているの。
【獅子王の豆知識】
獅子王のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<獅子王の名前の由来とは?>
獅子王という名前は、鞘に獅子の螺鈿細工があったためと言われているよ。
ただし現在、獅子の細工がされた鞘は失われていて、黒漆糸巻太刀拵が附く。
拵は黒塗鮫柄で糸巻は欠落していて、鎌倉時代末期に製作されたと言われているよ。
<獅子王を朝廷から授けられた源頼政とはどんな人物?>
源頼政は羅生門の鬼退治、土蜘蛛退治など数々の妖退治で名をはせた源頼光の玄孫にあたる人物なんだ。
源頼政が近衛天皇から獅子王を授けられたのは長治元年(1104年)のこと。
その当時は、貴族が世を治める時代から、武士たちが徐々に台頭してきた混乱の時代に入っていたの。
源頼政もまた、数々の戦に身を投じており、「平治の乱」では同じ源氏一族でありながら、鎌倉幕府を開いた源頼朝を輩出する清和源氏と対立。
頼政は平清盛と手を組んで勝利を収めたんだ。
これだけの活躍をしながらも、戦の恩賞を十分に受けられず、頼政は長年不遇の時を過ごすことになるよ。
また、源頼政は戦での実力だけではなく、文武両道を体現した人物だったの。
60代で読んだ「人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな」は、たいそう評判になったんだ。
この歌は「大内山の山守が木陰から密かに月を見るように、私はそっと陰から我が君の姿を拝しています」という意味なの。
この歌によってついに源頼政は昇殿を果たすことになるよ。
昇殿とは天皇の日常の居所である清涼殿に上がることを意味するの。
その後も頼政は「のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな(三位の身分に昇進する手だてのない私は、いつまでも木の下で椎の実を拾うように四位の身分のまま世を過ごすことです)」と詠み、長年の忠義が認められる形で三位にまで昇進したんだ。
さらに頼政は「弓の達人」としても知られる勇猛な武人としても有名だったの。
弓の達人であったことから、鵺退治の適任者になったんだよ。
70歳を超えて源氏の最長老となった頼政は、以仁王の平氏打倒の宣旨に従って平氏と戦うことを決意。
そして宇治の平等院で自らの太刀を腹部に突き立てて自害したよ。
<なぜ源頼政は天皇から獅子王を授かったの?鵺退治のエピソードとは?>
晩年になって昇進を遂げた源頼政。
文武両道であった頼政は、鵺(ぬえ)退治の恩賞として天皇から獅子王を賜ることになるんだ。
この鵺退治のエピソードは、源頼政にまつわる逸話の中で最も有名。
「平家物語」の巻第四「鵺」にも書かれているんだ。
鵺退治が行われたのは、仁平3年(1153年)頃。
近衛天皇が夜な夜な何かにおびえながらうなされて、気を失ってしまうことがあったの。
この出来事に、高僧貴僧を招いて祈祷をするものの効果はなし。
近衛天皇がおびえるのは、決まって丑の刻(午前2時頃)。
その時刻になると京の東三条にある森の方から真っ黒な雲が立ち込めて、近衛天皇がいる御殿の上を覆ったそう。
そして正体不明の不気味な鳴き声が聞こえるようになったの。
近衛天皇はその鳴き声を耳にするたびに全身が震えてうなされるようになり、とうとう寝込んでしまったんだ。
公卿(公家の中で最高幹部)はこの事態に頭を悩ませ、堀川天皇の在位中も同じようなことがあったと思い出すよ。
堀川天皇のときには、征夷大将軍・源義家が、丑の刻に弓の弦を3度大きく鳴らし、大声で「陸奥守、源義家!」と名乗ると、たちまち邪気は祓われたの。
その後、堀川天皇が怯えることは亡くなったんだ…。
その前例にならって、近衛天皇にも同じことをすれば邪気が払えると考えた公卿は、弓の名人であった源頼政を適任者として選んだの。
命を受けた源頼政は、信頼する部下・猪早太だけを連れて2人で化け物がでるという御宿の警備にあたったんだ。
そうして丑の刻に黒い雲が御殿の上に流れてくるのをじっと待ち、雲の中に怪しい妖怪の姿を見つけると「南無八幡大菩薩」と弓の神様の名を唱えながら、ただちに弓を射て討ち取ったよ。
頼政が放った矢は見事に妖怪に命中。
この世のものとは思えない恐ろしい鳴き声とともに、大きな物体がどさっと地に落ちたんだ。
そこにすかさず猪早太が駆け寄って9回とどめを刺したよ。
弓で討ち取ったその姿を見ると、頭はサル、胴は虎、手足は犬、尾は蛇、鳴き声は鵺(スズメ目ツグミ科の鳥・トラツグミ)に似た不気味な妖怪だったの。
頼政は死んだ妖怪・鵺をバラバラにして、鵺の亡骸は笹の小舟に入れて鴨川へ流されることになったんだ。
この妖怪を退治してから、近衛天皇が夜な夜な怯えることもなくなったそう。
近衛天皇は頼政の活躍を評して、獅子王という名刀を頼政に下賜したよ。
<能の演目にもなっている鵺退治の逸話>
平家物語でも語られた鵺退治の逸話に関しては能の演目にもなっているんだよ。
この作者は室町時代の能役者で、現代まで継ぐ能楽の基礎を築いた世阿弥なんだ。
この能演目では、平家物語で射られて流された鵺と、旅先で鵺に出会ったある僧の物語が描かれているんだ。
ある僧は熊野参詣を終えて都に上る途中、摂津国芦屋(現在の兵庫県芦屋市)の海辺に近い御堂に泊まることなったの。
その海辺には人魂のようなものがでると住民の間では噂になっていたんだ。
その正体は、源頼政によって射止められた鵺の亡霊だったの。
悲しみ嘆く鵺は「自分は頼政に射られて死んだ鵺の亡霊です」とその僧に明かし、供養を乞いたの。
僧がそれに応えると、鵺はとても感謝をして、海へ消えていったんだ。
鵺退治の逸話が武勇伝となるだけではなく、鵺の切なく苦しい心の描写が素晴らしい演目なんだよ。
<京都に鵺ゆかりの場所がある?!>
京都市上京区の二条城の北西側、歩いてすぐのところにある二条児童公園は鵺退治の場所であったと言われているんだ。
平安時代、このあたり一帯は大極殿を正殿とする朝堂院、太政官など、当時の政治の中心となる建物のある官庁街だったの。
この二条児童公園周辺が、源頼政が射落とした鵺が落ちてきた場所なんだよ。
鵺を射た鏃(やじり)の血を洗って清めたとされる「鵺池」という池も古くはあったそう。
現在、鵺池はないものの、「鵺大明神」と祀る祠と鵺池の由来を記した碑が建てられているんだ。
<斎村政広の名誉回復を目的に獅子王の復元刀が作られた?>
源頼政から獅子王を受け継いだ斎村政広は、鳥取城攻めの際に城下町を焼き払った罪を被せられ、徳川家康から切腹を命じられたよね。
この斎村政広の名誉回復を目的に「赤松広秀を弔う実行委員会」が組織されて、クラウドファンディングで資金調達を行ったんだ。
当初、資金の目標額は300万円だったんだけど、それを大きく上回り381万円も集まったの。
その理由は、PCブラウザ・スマホアプリゲーム「刀剣乱舞」による人気があるよ。
獅子王をモデルとした刀剣男子のキャラクターが登場したことをきっかけに、刀剣女子のブームが後押ししたんだ。
復元刀の作成は兵庫県佐用町で活躍する刀工・高見國一氏によって行われたよ。
平成30年(2018年)4月には竹田城跡に奉納。
平成31年(2019年)4月29日に行われた「第40回頼政祭」では、兵庫県西脇市高松町にある長明寺で、源頼政の墓前に供えられたよ。
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