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毛利藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

 

【毛利藤四郎の歴史と概要】

 

毛利藤四郎(もうりとうしろう)は享保名物帳に所載されている短刀だよ。
鎌倉時代・山城国(現在の京都府)で活躍した刀工・粟田口吉光作で、現在は東京都台東区にある東京国立博物館が所蔵しているよ。

 

次に毛利藤四郎の来歴をまとめてみよう。

 

<毛利家>

永禄6年(1563年)9月に毛利隆元が亡くなると、毛利元就の孫である輝元が11歳で家督を継いだんだ。
毛利元就は三男・小早川隆景に、毛利輝元の補佐をするように明治、毛利重代の藤四郎吉光の短刀を贈ったよ。
この時、毛利元就が輝元に贈った刀剣が毛利藤四郎かどうか?については不明だよ。

 

<徳川家康>

毛利藤四郎は毛利輝元から徳川家康に献上されたよ。

 

<池田家>

その後、関ケ原の戦いの際には播磨国姫路城主の池田輝政が毛利藤四郎を拝領。

途中の経緯については詳しくは分かっていないんだよ。
元禄5年(1692年)6月10日、本阿弥光常が輝政の曾孫である池田綱政邸でこれを拝見しているんだ。

享保名物帳に記載される「松平大炊頭殿」とは、備前岡山藩3代藩主・池田継政のことだよ。
池田継政以降は確実に池田家に伝来しているんだ。

 

<近代>

明治維新後の明治24年(1891年)11月に毛利藤四郎は明治天皇に献上されたよ。
明治天皇が侯爵池田家に行幸された際に、侯爵・池田章政氏より名物「浮田志津」とともに毛利藤四郎が献上されたんだ。

その後、終戦後は国の所有となり、昭和22年(1947年)宮内省より東京国立博物館に所蔵されるようになるんだ。

 

 

 

【毛利藤四郎の作風】

 

刃長は八寸七分五厘(約26.5cm)元幅2.32㎝。で平造り、真の棟で、反りは内反り。
差し裏に護摩箸、裏に腰樋と添え樋をかく。
地鉄は板材の表面のような文様の板目肌に地沸つき、刃紋は沸え出来の直刃に、足や二重刃まりじ、金筋走る。

鋩子は小丸で、中心はうぶ、目釘孔は二個。
指表の目釘穴のすぐ下に「吉光」と二字銘が切られているよ。

ただ「吉」の上部は後孔のため欠いているんだ。
はばきは金無垢二重台付で「吉光うめたた寿斎」と針銘のある在銘となっているんだ。

 

享保名物帳にも記載されている毛利藤四郎は、「毛利藤四郎 在銘長八寸七分半 無代 松平大炊頭殿 毛利輝元の所持表護摩箸裏樋并極有之」と記載されているよ。
松平大炊頭殿というのは、毛利藤四郎のことだよ。

 

 

【毛利藤四郎の豆知識】

 

毛利藤四郎のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

 

<毛利藤四郎の名前の由来とは?>

 

毛利藤四郎という名前は、毛利輝元の愛刀であったことからこう呼ばれるようになったんだ。

毛利輝元は安芸国(現在の広島県)の大名で、「関ケ原の戦い」で西軍の総大将として担ぎ上げられ、徳川家康率いる東軍に敗北してしまうの。
毛利藤四郎はその頃に毛利輝元から徳川家康に献上されたと言われているよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
徳川家康を経て、姫路城主だった池田輝政、その後に最終的に明治天皇の元に献上されたんだね

 

<名前の由来にもなった毛利輝元とは?>

 

毛利輝元は毛利隆元の嫡男で、毛利元就の孫にあたるんだ。

輝元は幼くして西国最大の勢力を誇った毛利家の当主となり祖父・元就や叔父・吉川元春、小早川隆景などから指導を受けて育つよ。
11歳で父・隆元が亡くなると、そのまま家督を継承。
月山富田城攻めで初陣を飾った輝元は、尼子家を滅ぼすなど毛利家の新当主として順調なスタートを切ったんだ。

 

しかし織田家との抗争が激しくなると、徐々に劣勢になってしまうものの、信長死後は豊臣秀吉の天か統一事業に協力する姿勢をとったよ。
輝元は安芸、周防、石見の120万石の所領を得たんだ。
豊臣政権時には五大老の1人としてその重責を担い、戦国生え抜きの大名として徳川家康に対抗できるほどの力を持っていたの。

 

しかし関ケ原の戦いで徳川家に敗れると、毛利輝元は大坂城を退去し、その後は出家。
出家後も家督を嫡男・秀就に譲るものの、しばらくは毛利家の実権を握っていたと言われているんだ。

 

ちなみに毛利輝元は愛刀家としても知られていたんだ。

刀剣鑑定を家業としている本阿弥光徳に「刀絵図」一巻の書写を依頼して送ってもるほど熱心な刀剣コレクターであったんだよ。

彼が所持していた名刀は

・毛利藤四郎
・一期一振吉光
・新身国行
・宗瑞正宗
・阿部藤四郎

などがあるよ。

毛利家での伝来に関してはよく分かっていない部分が多いものの、歴史学者・小和田泰経は、毛利藤四郎は毛利家重代の家宝であったのでは?と指摘しているんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
毛利藤四郎のほかにも素晴らしい刀をコレクションしていたんですな〜!!

 

<毛利藤四郎の作者、藤四郎吉光とは?>

 

毛利藤四郎の作者は鎌倉時代中期に山城国(現在の京都府)で活躍した藤四郎吉光(粟田口吉光)だよ。
藤四郎吉光は、粟田口則国または国吉の子とされていて、山城国粟田口派の中で最も顕著な刀工だよ。

吉光は短刀や剣の名手として知られているんだ。

この毛利藤四郎は吉光作の短刀としては、長さ、元幅ともに標準的で内反りとなっているよ。
樋の構造や刃文、地鉄などが他の吉光作の短刀に共通していることから、吉光の典型作として非常に重要なんだ。

 

藤四郎吉光の作品は、将軍家や諸大名の必需品ともうたわれていて、多くの武士に需要があったの。
吉光の作刀は名物の数が最も多くて、享保名物帳には約40もの日本刀が掲載されているよ。

 

また藤四郎吉光が作刀したものはほとんどが短刀で、格式の高い作風と表現されることもあり。
筍反り(たけのこぞり)の物が多く、平肉が豊かで重ねが厚い姿が特徴。

刃文は沸本位の中直刃を基調とし、特徴的な「小互の目」が見られるよ。
地鉄は潤いがあり、小杢目肌や梨子地肌が見られるんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
藤四郎吉光の短刀は名刀揃い♪

 

<毛利藤四郎が収録されていた享保名物帳とは?>

 

毛利藤四郎は享保名物帳にも記されていた著名なものなんだ。
享保名物帳とは、江戸時代の享保4年(1719年)に、徳川幕府8代将軍・徳川吉宗」の命によって制作された名物の日本刀一覧だよ。

この享保名物帳を調査・編纂したのが本阿弥家13代の本阿弥光忠(ほんあみこうちゅう)
本阿弥家は当時から日本刀の鑑定一族として名をはせており、数々の名物を調査、編纂して幕府へ提出したんだ。

この享保名物帳は日本刀鑑定の権威として力を持っていた本阿弥家が伝来や出自を保証したので、江戸時代の武士達にとっては名刀の指針となったんだよ。
つまり、この享保名物帳に収載された日本刀に対する評価は絶大であったということなんだ。

 

当時の享保名物帳の原本が現存していないため、正式な名称は分からないんだけど、編纂時の元号であった「享保」を冠し、「享保名物帳」と呼ばれるようになったそう。
この享保名物帳は、上巻、中巻、下巻の3部構成。

約250振の名刀が掲載されていて、毛利藤四郎の作者である藤四郎国吉の作刀は天下三作として、享保名物帳・上巻に掲載されていたんだ。

 

天下三作とは、名物三作とも呼ばれていて、享保名物帳に「天下の3名工」として記載されている3人の刀工のこと。

その三人とは毛利藤四郎の作者である藤四郎吉光(粟田口吉光)、五郎入道正宗、郷義弘なんだ。

この上巻には天下三作115振が掲載されていて、数の多さから、彼らが他の刀工とは別格の扱いを受けていたことが分かるよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
名だたる刀工がいる中、天下三作(名物三作)として登録されているのが藤四郎吉光(粟田口吉光)、五郎入道正宗、郷義弘!
刀剣レモン
刀剣レモン
毛利藤四郎の刀工である藤四郎吉光(粟田口吉光)がいかにすごいか分かりますな

 

 

 

 

刀剣乱舞キャラ紹介

 

 

 

 

刀剣乱舞とは

刀剣男士と共に―いざ出陣!

西暦2205年。歴史改変を目論む敵によって過去への攻撃が始まった。
歴史を守る使命を与えられた“審神者(さにわ)”は、
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名だたる刀剣が戦士へと姿を変えた“刀剣男士”。
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(公式サイトより引用)

 

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