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数珠丸恒次 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

【数珠丸恒次の歴史と概要】

 

数珠丸恒次は平安時代~鎌倉時代に作られたとされる日本刀だよ。

日本の重要文化財にも指定されていて、現在は兵庫県尼崎市にある本興寺に所蔵されているんだ。

かの有名な「天下五剣」の1つに数えられている名物の1つなんだよ。
数珠丸恒次は日蓮聖人と法華経総本山身延山久遠寺の守り刀で、数珠を巻き付けて使っていたよ。

 

数珠丸恒次の作者は青江恒次で平安時代末期から鎌倉時代前期に作られたとされているよ。
青江恒次は備中(岡山)生まれの刀工で、備中は古くからよい鉄が採取される場所だったため、刀作りに適していたと言われているの。

青江恒次の一族「青江派」は、刀工集団を形成していて、数々の名工、名刀を輩出してきてことでも有名。
青江恒次は、青江一族の創始者・青江守次の3兄弟の次男として生まれたんだ。

ちなみに青江守次は、戦国武将・上杉謙信の愛刀であった「般若太刀」を作成した刀工として知られているよ。
青江恒次ら3兄弟はそろって優秀な刀工で、3人ともが天皇の元で刀を作る職人「御番鍛冶」を務めていたんだ。

 

数珠丸恒次は元々、日蓮が所持していた守り刀で、日蓮が甲州身延山へ入山した際に、護身用として信者から贈られたものだったの。
その刀身の美しさに魅せられた日蓮は、柄に数珠を巻いて破邪顕正(邪なものを打ち破って正しい考えを示すという意味)の太刀として愛用していたんだ。

 

次に数珠丸恒次の所有者の流れをまとめてみよう。

<鎌倉時代前期>
備中の刀工・青江恒次によって作られる

 

<鎌倉時代>
甲斐の国南部を治めていた波木井実長の手にわたり、1274年に波木井実長から日蓮にわたる。
その後は、日蓮が身延山久遠寺保管したんだ。

 

<戦国時代(天正10年)>
天正10年には織田信長による武田家総攻撃の戦火を免れる。

 

<江戸時代初期>
本阿弥光甫によって、拵(こしらえ)が作られ、紀州(和歌山)徳川家にわたる。
8代将軍・徳川吉宗の命令によって作られた名刀リスト「享保名物書」にも数珠丸恒次の記載はあったものの、その後紛失。

 

<大正時代>
1920年頃、ある家族の競売から刀剣研究家でありコレクターでもあった杉原祥造が数珠丸恒次を発見。
海外流出を防ぐ目的もあり、数珠丸恒次を購入。
その後、身延山久遠寺への返却を打診するものの失敗、自宅付近の日蓮宗のお寺「本興寺」へ寄進。

 

<現在>
1950年(昭和25年)には、重要文化財へ指定される。
法華宗本門流大本山で兵庫県尼崎市にある本興寺にて保管。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
平安鎌倉時代からよくぞ無事に残っていてくれました♪

 

本興寺 ( 尼崎市)開山堂(重要文化財) CC from wikipedia

 

 

【数珠丸恒次の作風】

 

数珠丸恒次は天下五剣の中でも「、「三日月宗近」(みかづきむねちか)や「大典太光世」(おおでんたみつよ)と違って、その切れ味を示すような伝承はないんだ。
それは、数珠丸恒次が長い間、仏道において伝わってきた刀であることも関係しているよ。

数珠丸恒次は刀長さ83.7~83.9㎝、反り3.0㎝、元幅3.1㎝、先幅1.8㎝。
元幅の広さに対して、先幅が狭くなっているの。
元幅と先幅に差があることを、日本刀用語では「踏ん張りがある姿」と言っているんだよ。

 

刀身の手元で鍔に接する部分に嵌める金具「鎺・鈨(はばき)」に近い部分は反りが強い反面で、切先に近い部分はほぼまっすぐになっているんだ。
さらに切先の形状は、長さが短く小さめの「小切先」という形状をしているよ。

 

<数珠丸恒次の造り>

数珠丸恒次の造りは多くの日本刀で見られる「鎬造り(しのぎづくり)」と「庵棟(いおりむね)」だよ。

鎬造りとは、平地と鎬地を小高い稜線で区切るの造りのことで、本造りと呼ばれることも。
庵棟は、刀身を断面上で見た場合に、棟の形が三角形に見える造りのことだよ。

 

<数珠丸恒次の刃文>

数珠丸恒次の刃文は直刃(すぐは)調で最も基本的です。
直線的な刃で切先まですっと伸びた線は凛とした美しさを感じることができるよ。
また、数珠丸恒次ではところどころに波のような刃文「丁子(ちょうじ)」よりもさらに細かい「小丁子(こちょうじ)」を見ることもできるの。

 

刃文と平地の境界部分の「刃縁(はぶち)」から刃先に向かっては、小さく短い線状の模様が差し込んでいて「小足」と呼ばれているよ。
「帽子」と呼ばれる切先の刃文は、「小丸帽子」と呼ばれていて、刃文が切先で小さくUターンしているの。

 

<数珠丸恒次の地鉄と映り>

鋼を鍛えることによって生まれた肌模様のことを「地鉄(じがね)」と呼ぶよ。
数珠丸恒次の地鉄は「小板目(こいため)」という模様。

板の木目のように見える「板目肌」よりもさらに細かく、小さな模様のことを「小板目」と呼ぶよ。

 

また、数珠丸恒次の映りは「乱映り(みだれうつり)」で、影の曲線が不規則になっているのが特徴なの。
この映りとは平地に光を当てた時に、刃文と鎬の間に見える白い影のような模様のことを言うよ。

 

<数珠丸恒次の茎>

数珠丸恒次の茎は、作刀当初の形をそのまま残していて、「生ぶ茎(うぶなかご)」と呼ばれているよ。
この生ぶ茎とは、茎尻より切り縮めて刀身全体を短くする「磨上げ(すりあげ)」を行っていない茎のことなんだ。

茎の末端形状は、栗の実のお尻のように丸みを帯びていることから「栗尻(くりじり)」と呼ばれているよ。
茎に開けられた目釘穴は1つで、下部の棟寄りの部分に、作者である青江恒次の「恒次」の二字銘が切られているの。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
仏道と関連する名刀なので殺傷能力などは特に煌びやかでなくてよいのです。

 

【数珠丸恒次の豆知識】

 

「天下五剣」の1つであり、非常に有名な日本刀の1つである数珠丸恒次。

ここでは数珠丸恒次に関するエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<日蓮の所持した刀としての伝説>

数珠丸恒次といえば日蓮が所持していた日本刀として有名だよね。
日蓮は鎌倉時代の仏教である日蓮宗(法華宗)を開いた僧侶だよ。
ここでは日蓮と数珠丸恒次についてのエピソードをまとめてみよう。

 

日蓮 PD from wikipedia

 

・数珠丸恒次と日蓮の出会いはいつ?

日蓮と数珠丸恒次の出会いは、1274年のこと。
僧侶であった日蓮は、自ら仏教を世の中に広めようと甲斐の国にある身延山にいたの。
実は、日蓮は身延山に来る前に、幕府により佐渡に島流しにされていたんだ。

日蓮は自らが信じている法華宗以外の宗教を認めず、鎌倉幕府に対して「国が乱れているのは浄土宗のせい、法華宗を認めない幕府のせいだ」と批判を繰り返していたの。
幕府はそんな日蓮を手に負えなくなり、佐渡への島流しの刑に処したんだ。
3年ほどで佐渡から出てきた日蓮は、法華宗の熱烈な信者であった波木井実長の招きによって、身延山へやってきたよ。

この波木井実長は身延付近を治めていて、身延山を布教の本拠地としようとしていた日蓮をサポートしたの。
身延山はその当時、未開の山で、山賊なども存在していたそう。

そんな場所に踏み入ろうとする日蓮を見て、波木井実長が護身用として数珠丸恒次を贈ったと言われているよ。
日蓮の没後、数珠丸恒次は日蓮の「三遺品」のひとつに数えられたことからも、偉大な僧であった日蓮を偲ぶ品として、尊ばれたことがよく分かるね。

 

・日蓮宗総本山「身延山久遠寺」の草庵を築けたのは数珠丸恒次のおかげ?!

日蓮は無事に身延山に久遠寺の原型となる草庵(仮小屋)を築くことに成功したんだ。
日蓮は、草庵ができたことで、刀の役目は終わった…と波木井実長に返却しようとするんだけど、実長は受け取らなったそう。
それでは…ということで日蓮は、数珠丸恒次を守り刀として久遠寺に安置したんだよ。

 

<数珠丸恒次の名前の由来は?>

数珠丸恒次という名前はなぜ付いたんだろう?
実は、日蓮は護身用に身に着けていた数珠丸恒次に、自らの数珠を刀の柄に巻き付けていたんだ。

このことから「数珠丸恒次」という名前がついたんだよ。
また数珠丸恒次には日蓮が身延山に登山中に、数珠丸恒次を杖代わりにすると不思議と転ばなかったという逸話も残っているんだ。

 

<織田信長の甲州征伐から戦火を逃れた数珠丸恒次>

戦国時代であった天正10年、天か統一をめざす戦国大名・織田信長は甲斐の国を本拠地としていた武田家を滅亡させるために総攻撃を開始し、乗り込んできたんだ。
織田信長軍の攻撃によって、甲斐の国は大打撃を受けて、たくさんの神社や寺が被害を受けて、焼失してしまったの。

そんな中、数珠丸恒次を保管していた身延山久遠寺の付近を当時治めていた領主・穴山梅雪は、自社の主君である武田家を裏切って、敵軍である織田信長についたんだ。
そのため、穴山梅雪が当時治めていた領地だけは、織田信長軍による総攻撃を受けることはなくて、戦火から免れたんだよ。
久遠寺も無事だったため、数珠丸恒次が被害を受けることもなかったんだ。

 

<行方不明になった数珠丸恒次>

日蓮がなくなった後、その遺品である「袈裟」「中啓」「数珠丸恒次」は三遺品として称され、久遠寺で厳重に保管されたんだ。
しかし、いつの間にか寺から消えてしまうの…

消えた理由、その時期には「紀州徳川家に伝わったが1645年頃に行方不明となった」説や「1736年頃に久遠寺から盗まれた」説など諸説あるため、はっきりしたことは分かっていないんだ。

 

<数珠丸恒次を探し出した杉原祥造>

大正9年、長い間その行方が分かっていなかった数珠丸恒次を探し出したのは、刀剣研究家・杉原祥造なんだ。

杉原祥造は、明治16年(1883年)に兵庫県尼崎市で生まれ歯科医を目指していたものの、19歳の頃から刀剣研究に没頭。
30代の頃には國學院大學で刀剣の講義を毎月行うなどの刀剣研究家としての活動を行っていたよ。

また杉原祥造は、刀剣の学術的研究やその成果の発表、愛刀趣味を国民へ普及させることなどを目的に「杉原日本刀学研究所」を設立。
その年に、華族の競売品の中から数珠丸恒次を偶然発見したんだ。

杉原祥造は私財を投げうって数珠丸恒次を買い取ると、新聞社を通じて大々的に報じたそう。
なんと、数珠丸恒次は約200年間もの間、行方が分かっていなかったんだ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
本当に見つかって良かったです〜!!

 

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(公式サイトより引用)

 

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