鳴狐 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年12月9日剣豪として数々の戦いで大活躍した新選組・二番隊隊長の永倉新八はどんな人物だった?
2020年12月9日
目次
【一期一振の歴史と概要】
一期一振(いちごひとふり)は、鎌倉時代中期に作られた日本刀で、皇室の私有財産にあたる「御物」で宮内庁侍従職が管理しているんだ。
また、一期一振は享保名物帳焼失之部にも記載されている名物でもあるよ。
鎌倉時代中期の山城国で活躍した刀工・粟田口吉光作の一期一振は、秀吉の手にわたる以前の伝来には3つの説があるんだ。
それぞれまとめてみよう。
<朝倉家に伝来した説>
一期一振は、戦国期に越前の朝倉家に伝来し、重宝となっていたと言われているの。
ただそれ以上は不明となっているよ。
<堺説>
堺から本阿弥祐徳が銀30枚で購入したものを、豊臣秀吉が金10枚で取り上げたとされているよ。
その金の中には釈迦の像が鋳潰されずにそのまま残っていたため、その像は京都仏光寺に寄進したそう。
<毛利家説>
天正18年(1590年)に、豊臣秀吉が聚楽の毛利邸に臨んだ際に、一期一振が目にとどまったそう。
しつこく秀吉が毛利氏に所望したため、やむなく毛利輝元から赤銅の金具と総銅の紋のついた拵とともに秀吉に献上されたと言われているよ。
続いて、秀吉以降の一期一振の来歴についてまとめてみよう。
<豊臣秀吉>
豊臣家に入った一期一振は、目貫(めぬき)と笄(こうがい、結髪用具)に関して、後藤祐乗が制作したものに取り換えた上で一之箱に納めて秘蔵したそう。
ちなみに目貫は牽牛織姫の図、笄は九曜の紋入りだったんだ。
<豊臣秀頼>
豊臣秀吉から豊臣秀頼に受け継がれた一期一振は、大坂の陣で焼失してしまうんだ。
大坂落城で焼けてしまった一期一振は焼き直させた時、2尺8寸3分(約85.8cm)あったものを、2尺2寸8分(約69.1cm)に磨りあげたの。
「吉光」の銘は茎に額銘にしたと「享保名物帳」にも記載されているよ。
<徳川将軍家>
焼身の状態で発見された一期一振は、徳川家のお抱え鍛冶であった「越前康継(えちぜんやすつぐ)」に命じて再刃させたことで、現在の形となったの。
元和元年(1615年)5月7日、戦における戦利品としてこの刀は徳川家康の元に送られたそう。
家康はこの一期一振にたいそう喜んで、「これは豊臣秀頼が明石掃部にくれていたそうだ。分捕りの様子を知りたい」と伝えたんだよ。
<尾張徳川家>
徳川家康が亡くなった後、一期一振は形見分けで終わり徳川家に譲られたんだ。
尾張家での受け取りは元和4年(1618年)11月1日までだよ。
<皇室>
文久3年(1863年)1月29日、尾張藩15代藩主・権大納言徳川茂徳から孝明天皇へ献上されたんだ。
それ以降は、皇室御物として取り扱われ、歴代の天皇が相続したんだ。
御由緒物の刀剣のほとんどは、宮中祭祀などで役割を担っていたの。
一期一振も、明治42年(1909年)に公爵・伊藤博邦から献上された相州行光の太刀とともに、毎年10月17日に実施される宮中での神嘗祭の際に使用されることとされているよ。
上皇明仁の相続の際には、御由緒物として相続税法第12条第1項第1号に規定する相続税の非課税財産として整理されたんだ。
【一期一振の作風】
一期一振は刃長68.78cm、反り2.58㎝、茎反わずか、元幅3.18㎝、先幅2.36㎝、元重0.76㎝、先重0.67㎝、茎長17.27㎝、切先長3.48㎝。
造込は、鎬造りであり、平地と鎬地を区切る稜線が刀身にあるの。
棟は庵棟で刀を背面から断面で見た際に屋根の形に見える棟になるんだ。
切先は先幅が大きいものの長さが短い「猪首切先」で、鍛えは板材の表面のような分様のうち細かく詰まった「小板目」をしているよ。
刃文は直刃で、直刃の中に刃と地鉄の境目に互の目が混じっている「小乱」で、丸い墓石が連続したように規則的な丸みを帯びた刃文「互の目」が交わり、小足が入る。
茎は大磨上、茎尻は栗の様にカーブがかり、目釘穴は1つでその下に「吉光」と切られた額銘が佩表に入るよ。
額銘になる「吉光」は、粟田口(藤喜朗)吉光のことだよ。
麿上は、小柄な秀吉が体格に合わせて麿上げたとされているの。
一期一振は刃長が2尺8寸3分(約86㎝)あったものを、2尺2寸7分(68.78cm)に磨上げたよ。
その後、一期一振は明暦の大火によって焼身となるものの、徳川家は越前康継に打ち直させたんだ。
【一期一振の豆知識】
一期一振のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<一期一振の名前の由来>
一期一振という名前はちょっと変わっているよね。
この名前の由来は、一期一振の作者である粟田口吉光の作風から来ているんだよ。
粟田口吉光は、短刀や脇差など、刃長の短い刀剣を得意としていたんだ。
そのため、粟田口吉光が生涯で唯一制作した太刀と言われるのが「一期一振」なんだよ。
「生涯で一度きりの太刀」という意味で「一期一振」という名前が付いたと言われているんだ。
実際には粟田口吉光は数本の太刀は作っているそう。
ただ、その中でも傑作は一期一振に他ならないとして、この名が付いたともいわれていて、特別な1本として存在していたんだよ。
<一期一振の作者・粟田口吉光とは?>
粟田口吉光(あわだぐちよしみつ)は鎌倉時代中期に京都で活躍した名工。
30歳を過ぎてから、粟田口派の粟田口国吉に入門して、刀工の技術を学んだそう。
粟田口吉光は通称「藤四郎(とうしろう)」と言い、「一期一振」の他にも「厚藤四郎(あつとうしろう」)や「後藤藤四郎(ごとうとうしろう)」などの名刀を多く制作しているよ。
どちらも国宝や重要文化財に指定されているんだ。
粟田口吉光は「正宗(まさむね)」「郷義弘(ごうよしひろ)」とともに天下三作とも呼ばれていたの。
短刀や脇差などの刀剣を得意としていたのが粟田口吉光の特徴。
なぜ粟田口吉光が短刀にこだわったのか?についてはその理由ははっきりしていないんだ。
ただ一説によると、粟田口吉光は片腕が不自由だったために、大振りの刀の制作に関しては困難だったのでは?とも言われているよ。
<天下三作を愛した豊臣秀吉>
一期一振は豊臣秀吉の愛刀としても知られているよね。
豊臣秀吉は刀を使った直接的な戦は好まなかったものの、無類の名刀コレクターだったんだ。
刀剣の鑑定書と言われる「折紙」の発行を開始したのも豊臣秀吉であったと言われているんだよ。
日本刀の鍛刀技術は1000年以上もの間、刀工たちによって受け継がれてきたの。
戦いのための武器である日本刀が芸術の域にまで高まったのは、刀と向き合い続けた刀工たちのおかげといっても過言ではないよ。
刀工の一族は日本全土に点在していて、青江派、長船派、三条派などそれぞれ刀工集団として刀剣の制作を行っていたんだ。
秀吉は古今東西、日本全国の様々な地域の名刀を集めていて、その中でも「正宗(まさむね)」「郷義弘(ごうよしひろ)」「粟田口吉光(あわだぐちよしみつ)」の刀工たちが制作した日本刀をこよなく愛して、「天下三作」と呼んでいたんだ。
ちなみに正宗は、鎌倉時代末期に相模で活躍した刀工で、その正宗を師としたともいわれているのが郷義弘だよ。
天下三作の刀は、豊臣秀吉が愛でる以前からあらゆる階級の人々に好まれていたんだけど、豊臣秀吉がたいそう気に入ったことから、その価値がさらに高まり、現在もなお賞賛されているんだ。
秀吉の側近であった本阿弥光徳(ほんあみこうとく)は刀剣の管理を任されており、本阿弥光徳が残した資料によると、正宗と義光だけで秀吉は十数振以上の刀剣を保持していたとされているの。
他の戦国大名がみれば、どの日本刀も喉から手が出るほど欲しい名刀ばかりだったと言われているんだよ。
その中でも特に秀吉が気に入っていたのが「一期一振」なんだ。
秀吉は名刀中の名刀しか入れていない「一之箱(いちのはこ)」に一期一振を納められていたそう。
ちなみに「豊臣家御腰物帳」には豊臣家が所有した名刀が一之箱から七之箱までに分けられて記載されているの。
7つもある中で一番の箱に入っていることからも、どれだけ気に入っていたかが良く分かるよね。
さらに一期一振は骨喰藤四郎に次いで二番目に記載されているんだよ。
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