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2020年12月28日大包平 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月10日目次
【包丁藤四郎の歴史と概要】
包丁藤四郎(ほうちょうとうしろう)は鎌倉時代に作られた日本刀だよ。
実は包丁藤四郎には同名の刀が2つあるんだ。
1つは日本の重要美術品に認定されていて、愛知県名古屋市の徳川美術館に所蔵されている尾張徳川家伝来の包丁藤四郎だよ。
もう1つは、徳川将軍家伝来の包丁藤四郎で、こちらは明暦の大火で焼失してしまったんだ。
今回は、現存している尾張徳川家伝来の包丁藤四郎についてまとめてみよう。
包丁藤四郎は鎌倉時代の刀工である藤四郎吉光作の短刀なんだ。
藤四郎吉光は山城国粟田口派の刀工の中でも非常に著名な刀工の1人であり、特に短刀や剣の名手として知られているの。
この包丁藤四郎も、藤四郎吉光が得意とする短刀だよね。
次に包丁藤四郎の来歴についてまとめてみよう。
<足利将軍家>
敗死した後に鬼と化した楠正成を斬ったのが包丁藤四郎と言われているんだ。
そののち、足利家の所蔵となって、足利将軍家に伝わったと言われているよ。
<大谷吉継>
足利将軍家からその後、大谷吉継が所持。
関ケ原の戦いで討ち死にした後に、徳川家康の所持になるよ。
<徳川将軍家から尾張徳川家へ>
徳川将軍家へ一度入るものの、家康が死去した際に駿府御分物となるんだ。
駿府御分物とは遺産分与つまり形見分けの品であり、尾張藩初代藩主の徳川義直へ贈られたよ。
それ以降は尾張徳川家に伝来するよ。
尾張徳川家伝来の包丁藤四郎は、徳川8代将軍・徳川吉宗が本阿弥家に命じて編集された名刀目録である「享保名物帳」には記載されていないんだ。
しかし各大名家が所持する名刀に記念として銘を付けた御家名物として伝来した短刀になるよ。
<近代>
明治維新以降も尾張徳川家に伝来し続けた包丁藤四郎は尾張黎明会が所蔵。
昭和16年(1941年)9月24日には「短刀 銘 吉光(庖丁吉光)」の名称で重要美術品に指定されたよ。
現在は愛知県名古屋市にある徳川美術館で所蔵されているんだ。
尾張家史料などでは「包丁吉光」と表記されるものの、徳川美術館においては「包丁藤四郎」と記しているんだ。
【包丁藤四郎の作風】
刃長は7寸2分(約21.8㎝)で、造込は平造りで鎬筋が無く刀身の側面が1枚の面になっているよ。
棟は断面が屋根の形に見える「庵棟」で、刃文直線状の「直刃」に互の目が混じった小模様の刃文「小乱」交じり、刃縁はこまかに沸えが深く、小足入る。
鍛えは、板材の表面のような文様が細かく詰まった小板目が詰んでいて、平地部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくキラキラと輝いて見える地沸が付いているよ。
中心は少し磨上げ、もとの鑢目右手下がりで目釘孔は三個。
また裏元にはふくれ破れがあるの。
「吉光」と銘が入り、大振りに切るよ。
また包丁藤四郎には外装もあり、「蝋色塗短刀拵鞘」が付属しているんだ。
【包丁藤四郎の豆知識】
包丁藤四郎のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<包丁藤四郎の名前の由来とは?>
包丁藤四郎という名前はどうしてついたのかな?
包丁みたいな刀だったということなのかな?
包丁藤四郎は藤四郎吉光の短刀として身幅が標準的な体配でありながら、刃長は秋田藤四郎と同じく最も短い部類に属しているの。
そのため、形状が包丁のように見えるため「包丁藤四郎」という名前が付いたと言われているんだ。
やっぱり見た目が包丁に似ていたことから包丁藤四郎という名前がついたんだね。
<もう1つの包丁藤四郎は享保名物帳にも載っている>
包丁藤四郎は尾張徳川家伝来のものとは別に、徳川将軍家伝来のものもあるという話をしたよね。
ここではもう1つの包丁藤四郎で徳川将軍家伝来のものについてまとめてみよう。
こちらの包丁藤四郎も粟田口派の藤四郎吉光作の短刀。
「享保名物帳」焼失之部に所載されているんだ。
刃長は8寸6分(約26.1㎝)で平造り。
刃文は直刃で、帽子は沸え崩れ、尖り心に少し返る。
中心は少し区送りで、目釘孔は2個、「吉光」という二次銘が刻まれていたそう。
この包丁藤四郎は室町時代の刀剣書「能阿弥本銘尽」にも登場しているんだ。
包丁藤四郎は、「能阿弥本銘尽」にて怨霊に奪われ、怨霊の正体を知るきっかけになるものとして登場するよ。
次に来歴についてまとめてみよう。
・多賀豊後守高忠
江州多賀城主であった多賀豊後守高忠は、室町幕府の京都所司代として令名のあった人だったんだ。
そんな多賀豊後守高忠は、故実にも通じた文化人で包丁や料理法についても精通しており、ある時政敵から鶴を料理することを頼まれたの。
相手は多賀豊後守高忠に恥をかかせるために、鶴のお腹の中に鉄の箸を入れたんだ。
それを刺した多賀豊後守高忠は、腰にさしていた包丁藤四郎で見事に鶴を鉄箸ごと一刀両断して断ち切ったよ。
これを見ていた者たちは、高忠の腕前を賞賛し喝采、さらに刀の切れ味に驚嘆して、それ以後「包丁藤四郎」と名付けたとされているんだ。
・堺の町人から鳥飼宗慶
多賀高忠から堺の町人所持となった包丁藤四郎を、書道の大家として知られていた摂津の鳥飼宗慶が買取所持。
その子・与兵衛宗精に伝えたよ。
この時に、本阿弥光心が押形を取っているんだ。
・豊臣秀吉
与兵衛宗精の子である兵衛宗嘴から秀次へと献上されたよ。
天正16年(1588年)の「太閤御物刀絵図」石田本に記載されていることから、天正年間の早いうちに献上されたものだと言われているんだ。
秀吉のもとにあった包丁藤四郎は、本阿弥光徳が押形をとって、慶長16年(1611年)2月に埋忠寿斎が金具を作っているよ。
・上杉景勝
文禄3年(1594年)10月に豊臣秀吉が上杉景勝邸を訪れた際に景勝が包丁藤四郎を拝領。
この際に、包丁藤四郎とは別に藤四郎作の「三本寺吉光」も一緒に贈与されたと言われているよ。
景勝は秀吉に返礼として助秀の太刀、守家の刀、来国俊の短刀を送っているんだ。
・徳川秀忠から将軍家へ
その後、包丁藤四郎は徳川秀忠に献上されるよ。
秀忠は徳川家康にこの包丁藤四郎を贈り、さらに遺物として将軍秀忠にわたったよ。
・紀州徳川家から将軍家へ
秀忠の元に戻った包丁藤四郎を紀州頼宣に与えるものの、頼宣は再び徳川将軍家に献上。
将軍家は一之刀箱に納め、御腰物帳の6番目に記載される丁重ぶりだったの。
しかしこの包丁藤四郎は、明暦3年(1657年)の明暦の大火によって焼けてなくなってしまうよ。
<2つの包丁藤四郎は別物?同一のもの?>
尾張徳川家伝来の包丁藤四郎と徳川将軍家伝来の包丁藤四郎は、一部に同一説があったり、別物説があったりとはっきりしたことが分かっていなかったんだ。
どちらも確たる証拠がなかったのがはっきりしなかった理由と言われているよ。
ただ、尾張徳川家伝来の包丁藤四郎は、徳川将軍家伝来のものに比べると、1寸4分(約4.2㎝)短いんだ。
一見すると磨上げたためと見えるものの、銘字の位置からしてそれは否定できるの。
さらに焼き直しの形跡などが全く見られないことから、この2つの刀は別物であったんだろうと考えられているよ。
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