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骨喰藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

【骨喰藤四郎の歴史と概要】

 

骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)は、鎌倉時代に作られたと言われている日本刀で、薙刀直しの脇差だよ。

日本の重要文化財にも指定されている骨喰藤四郎は、現在は京都市の豊国神社が所蔵していて、京都国立博物館に寄託しているんだ。

伝承によって、同じ名前の刀が複数存在する可能性があると言われているんだけれど、今回ご紹介する「骨喰藤四郎」は鎌倉時代に作られた骨喰藤四郎について解説していくね。

 

骨喰藤四郎は本阿弥家の鑑定によると、鎌倉時代に活躍した刀工・粟田口則国あるいは、国吉の子とされる藤四郎吉光によって作られた日本刀なの。
藤四郎吉光は、山城国粟田口派の刀工の中でも最も著名な1人であり、特に短刀や剣の作刀に長けており、名手として知られていたよ。

そんな短刀や剣の名手であった藤四郎吉光が作った薙刀として「骨喰藤四郎」は非常に貴重な存在なんだ。
短刀・剣以外の吉光の作刀は非常に現存しているものが少なく、薙刀直しの脇差である骨喰藤四郎や、鯰尾藤四郎の他、太刀の一期一振などわずかしかないの。

 

次に骨喰藤四郎の来歴についてまとめてみよう。

 

<大友家以前>

鎌倉時代に源頼朝から九州の大友家初代・大友能直が拝領した物と言われているが、藤四郎吉光が作ったというものであれば時代背景が合わないとされているよ。
この由来に関しては、豊後森藩の藩医木付春碩による「豊陽志」(1721年)に記載されているんだけど、これは江戸時代初期~中期にかけて成立した資料のため信憑性は低いんだ。

 

<大友家から足利将軍家へ、そして再び大友家へ>

骨喰藤四郎について最も詳しく伝えているのは軍記「大友興廃記」(1635年)で、それによると南北朝時代の幕開けとなる建武3年(1336年)に足利尊氏が九州へ落ち延びた際に、大友家当主・大友氏時が重大の宝刀である骨喰藤四郎を、足利尊氏へ加勢する誓いの証として贈ったと言われているの。

この逸話に関しては、「大友興廃記」の写本の他にも、元禄時代に出版された「筑紫軍記」にも再録されたことで、広く世に知られるようになったよ。
また「享保名物帳」にも同じような由緒が記載されているんだ。

 

足利幕府の衰退期には、骨喰藤四郎は「鬼丸国綱」、「大典太光世」などと並んで、尊氏以降、足利将軍家の重要な宝物として代々伝えられていたものの、永禄8年(1565年)に13代将軍・足利義輝が三好三人衆によって暗殺された「永禄の変」が起こった時に奪われてしまい、松永久秀の手にわたったとされているんだ。

それを聞きつけた大友宗麟が、「大友家こそ元の持ち主である」と主張して、松永久秀から買い戻したとされているよ。
この時、永禄8年(1565年)で、毛利兵部少輔鎮実を使者として送って、3,000両相当の謝礼を渡したと言われているの。

 

<豊臣家>

骨喰藤四郎は大友宗麟からその子供・大友義統へ継承されたものの、藤四郎吉光の名刀を集めていた豊臣秀吉が骨喰藤四郎を求め、松井友閑と千利休の仲介によって献上されたんだ。
それ以降は豊臣家の所有となったよ。

天正13年(1585年)9月27日付で、豊臣秀吉は大友義統宛てに、秀吉が骨喰藤四郎を受け取ったことに対する感謝の謝礼の書状が残っているの。
また、大友家は骨喰藤四郎以外にも豊臣家に対しては、大友家の名物として玉澗の青楓絵、小壺茄子、新田肩衝なども献上しているんだよ。

秀吉が大友家から骨喰藤四郎を召し上げたときにはすでに薙刀から大脇差に磨りあげられていたそう。

 

<徳川家>

豊臣家で一之箱に収められて大切に扱われていた骨喰藤四郎だったけど、慶長20年(1615年)に起こった大坂夏の陣によって、大坂城が炎上、落城に巻き込まれることに。

焼けた大坂城の堀から、なんと無傷の状態で見つけ出されたと言われているよ。

その後、骨喰藤四郎を発見した町人が、骨喰藤四郎を本阿弥光室に届け出て、光室から徳川秀忠に献上されたんだ。
徳川秀忠に献上されて以降は、骨喰藤四郎は徳川将軍家の所有となるよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
小ネタのエピソード!

ここで1つエピソード!
実は、本阿弥光室は秀忠に献上する前に、徳川家康に献上したんだよ。
家康は大いに喜んだものの、家康の差料にするには、骨喰藤四郎は長くて重かったため、家康は本阿弥光室を伏見城にいる秀忠のところへ遣わせたんだ。
伏見城にいた秀忠は、本阿弥光室が献上した骨喰藤四郎をたいそう喜んで白銀を1,000枚与えたと記されているよ。

その後、明暦3年(1657年)に発生した、明暦の大火で被災した骨喰藤四郎は焼刃となって、3代目越前康継によって焼き直されたよ。

ただ、豊臣家を出てから、徳川将軍家に入り明暦の大火に巻き込まれるまでの逸話に関しては、「日本刀大百科事典」が載せるだけでも8つ程度あるため、それぞれ諸説は異なっているんだ。8代将軍・徳川吉宗の命令で編集された「享保名物帳」にも骨喰藤四郎の記述はのこっており、その後、骨喰藤四郎は紀州徳川家に下賜されるよ。

 

<近現代>

紀州徳川家の手元にわたった骨喰藤四郎は明治維新時までは紀州徳川家に伝来し続けたの。
しかし、明治2年(1869年)7月に徳川宗家へ返還されたよ。

さらに徳川家当主・徳川家達は明治22年(1889年)3月に金100円を添えて、骨喰藤四郎を財団法人豊国会へ寄付したんだ。

この財団法人豊国会とは、明治31年(1898年)に豊臣秀吉没後300年になることを記念して、豊臣恩顧の旧大名家の華族が中心となり京都市での「豊太閤三百年祭」を計画していた集まりなんだよ。
豊国会の所有となった骨喰藤四郎は、豊太閤三百年祭の期間中には帝国京都博物館で展示されたんだ。

この豊太閤三百年祭が終わり、豊国会が解散すると、祭りのために整備された阿弥陀が峰の豊国廟の土地や建物や、骨喰藤四郎などすべてのものを豊国神社に交付し、管理を任せることになったんだ。
大正時代末期には正式に骨喰藤四郎は豊国神社所有となったよ。

また大正14年(1925年)4月24日には旧国宝に指定され、昭和25年(1950年)の文化財保護法施工後は、重要文化財に指定されているよ。

 

骨喰藤四郎:指裏と彫物 PD from wikipedia

 

 

【骨喰藤四郎の作風】

 

骨喰藤四郎は全長71.2㎝、刃長58.7㎝、茎長15.3㎝、刀身の反り1.42㎝、元幅3.46㎝、先幅2.37㎝、元重0.92㎝、先重0.10㎝、重量726.5g。元々は1尺9寸5分(約59.1cm)あったものを、、越前康継の焼き直しにより、大きさが変わったんだ。

彫物は指表に倶利伽羅剣に絡みつく龍が描かれているんだ。
指表に彫られた倶利伽羅剣の柄は「三鈷杵」の形となっているの。

この「三鈷杵」というのは古代インドの武器のことで、転じてに密教の儀式で使われる法具となったものだよ。また、剣に絡みつく龍は不動明王の化身であるといわれているよ。

 

指裏には不動明王像の上に毘沙門天をあらわす種子が彫られているんだ。
不動明王と毘沙門天の組み合わせは比叡山の横川で生み出されたものであり、刀の所有者を観音菩薩に見立てて不動明王と毘沙門天による守護が得られるようにという願いを込めたものとされているの。

骨喰藤四の中心は薙刀を脇差に直した際に切除されてしまっているんんだけど、残った中心の長さから見て、もともと無銘だったと言われているんだよ。
色々な意味があるんだね。

刀剣レモン
刀剣レモン
不動明王と毘沙門天の御加護を受けている薙刀直しの刀剣なんて素敵です♪

 

【骨喰藤四郎の豆知識】

 

骨喰藤四郎のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<骨喰藤四郎の名前の由来とは?>

骨喰藤四郎は大友氏から足利尊氏に献上された時には、すでにこの名前がついていたと言われているよ。
骨喰藤四郎の名前の由来は、「対面して斬る真似をするだけでも、骨まで砕かれる絵ほどのすさまじい斬れ味である」という意味なんだ。

ただ骨喰藤四郎の名前の由来に関しては諸説あるよ。「享保名物帳」第2類では先ほどの由来が記載されているんだ。

 

他にも徳川将軍家の刀剣台帳の写本によると、「骨を縫い綴ったような痛みを感じるから」と記されていたり、福永酔剣の個人所蔵である「享保名物帳」の享保八年の異本によると、骨喰藤四郎で斬られた場合は骨にしみるように感じるからその名前が付いたと記されていたりするよ。

 

また、豊臣秀吉と対面して実際に骨喰藤四郎を見せられたイエズス会のジョアン・ロドリゲスは、「軽く振っただけで、根元から斬られた大根のように骨を切るので、骨を丸嚥みにする刀という意味である」と「日本教会史」で述べているよ。

どのエピソードも、骨喰藤四郎が凄まじい斬れ味を持っていたことがよく分かるよね。
骨喰藤四郎の呼び方については、古い書物では「骨喰」と記載されているものの、やがて「骨喰吉光」になり、現在では「骨喰藤四郎」へと変わっているよ。

刀剣レモン
刀剣レモン
どの由来も凄まじい切れ味を物語っているね!

 

<骨喰藤四郎は秀吉が最も愛した刀剣だった?>

豊臣秀吉は刀を使った戦は好まなかったものの、愛刀家として知られていたよ。
なんと、秀吉は175口もの名刀を所持しており、その中でも骨喰藤四郎の作者である「藤四郎吉光」は、最も愛した刀工であったと言われているんだ。

元々、骨喰藤四郎は薙刀だったものを磨りあげて短くして、太刀に作り替えたものなの。
秀吉はこの骨喰藤四郎を、大坂城の蔵においていた一之箱に大事に収めていたそう。

しかし大坂夏の陣によって大阪城が落城してしまうと、骨喰藤四郎も焼け身になってしまうんだ。
そのため、骨喰藤四郎は再度焼き入れされたため、その当時の斬れ味は幻のものになったと言われているよ。

しかし、骨喰藤四郎は直接体に触れなくてもそのパワーを発揮するほどの斬れ味があったとされる逸話を持っているよ。
また、刀身の美しさも抜群で、龍の刀身彫にも目を奪われてしまうね。

刀剣レモン
刀剣レモン
大坂の陣で焼けたという話や無傷で見つかったという話、、、どちらもあるんですな〜

 

<鯰尾藤四郎を焼き直した越前康継>

大坂夏の陣で大坂城が落城して、焼刃となってしまった鯰尾藤四郎を焼き直したのは越前康継だよ。
越前康継は大坂城落城の際に、焼失した多くの名物刀剣を焼き直しているんだ。

その折に、多くの名物刀剣を模作して忠実な写しを1振もしくは複数振を製作しているよ。
鯰尾藤四郎も写しの1振が現存していて、銘文は表に「吉光なまつをなんはんかね(吉光 鯰尾 南蛮鉄よしみつ なまずお なんばんがね)」裏に「越前国康継 本多飛騨守所持内」とあるんだ。
この「南蛮鉄」とは、舶来の鉄で刀剣を鍛える際に、和鉄に交ぜて鍛えたんだよ。

刀剣レモン
刀剣レモン
名匠が焼き直ししてくれて良かった〜!!

 

<骨喰藤四郎は写しが多い>

非常に高名な名物であった骨喰藤四郎には、いくつかの写しが作られているんだ。
ここでは骨喰藤四郎の写しについてまとめてみよう。

 

・骨喰み(吉光)写し

豊臣秀吉が所有する骨喰藤四郎を見た池田勝入斎恒興は、金房兵衛尉政次に頼み込んで「骨喰み(吉光)写し」と呼ばれる刀を作らせたと言われているの。

この写しの銘は「南都住藤原金房兵衛尉政次」で、、裏の真の倶利迦羅の彫物も骨喰藤四郎に類似していたんだ。
池田勝入斎恒興はこの骨喰藤四郎の写しを、加藤左馬助嘉明に贈り、その後は雲州松江城主・松平氏が所有することになったそう。

 

・骨喰吉光模(康継写し)

骨喰吉光模は、初代・越前康継が作った写しで、1655年に起こった明暦の大火で焼刃になる前に写されたものなんだ。

骨喰吉光模は非常に忠実&正確に写されていて、骨喰藤四郎本来の姿がよく分かるつくりになっているよ。

越前康継によって写された骨喰藤四郎に関しては、現在東京国立博物館が収蔵しているよ。

刃の茎表には「(葵紋)以南蛮鉄於武州江戸越前康継」、裏には「骨喰吉光模」と銘が切られているの。
刃長は一尺九寸二分強、姿は薙刀造、三ッ棟、反浅く姿はよい。
鍛えは板目肌よく約み、棟寄り特に柾がかり総体は地沸よくつき冴える。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
名匠が写しを作るほど素晴らしい名刀だったんだろうね〜
刀剣レモン
刀剣レモン
骨喰の名の下に、他に負けない切れ味だったんでしょう!

 

 

 

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(公式サイトより引用)

 

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