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博多藤四郎 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介

【博多藤四郎の歴史と概要】

 

博多藤四郎(はかたとうしろう)は、鎌倉時代に作られた短刀であり、日本の重要文化財に指定されているよ。
現在は文化庁収蔵の日本刀なんだ。

博多藤四郎の作者は短刀や剣を数多く作った著名な刀工・藤四郎吉光。
博多藤四郎も藤四郎吉光が得意とする短刀なんだけど、吉光作の短刀の中で博多藤四郎は標準的な体配をしているよ。
わずかに内反りになっているのが特徴なんだ。

 

京都国立博物館主任研究員・末兼俊彦によると、博多藤四郎は腰元に小互の目の刃文を焼くという藤四郎吉光の手癖が分かりやすく表れていると評価しており、その点が見どころであると言っているよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
この博多藤四郎も刀工・藤四郎吉光の作なんだね〜!

次に博多藤四郎の来歴についてまとめてみよう。

 

<黒田忠之から小笠原忠真へ>

博多藤四郎を所持していた筑前福岡藩2代藩主・黒田忠之は、豊後小倉藩主であった小笠原忠真へ博多藤四郎を贈答。
正保4年(1647年)に黒田忠行の嫡男・光之が、正室に小笠原忠真の長女・市松姫(宝光院)を迎えており、この婚礼の際に小笠原忠真は光之に、婿引出として「鄙田青江」を贈ったんだ。
その返礼として黒田忠之が「博多藤四郎」を贈ったとされているよ。

 

<代々小笠原家へ伝来された>

博多藤四郎を贈られた小笠原忠真は、郷義弘の太刀とともに惜しげもなく陣刀据えとしたんだ。
8代将軍・徳川吉宗が本阿弥家に命じて編集させた名刀目録である「享保名物帳」の写本には、第1類・第2類の2系統があり、このうち本阿弥家から吉宗に献じた本の写しである第1塁には博多藤四郎に関する記載はないものの、第2類の「名物追記」には博多藤四郎に関する記述が残っているよ。

 

博多藤四郎はその後も、小笠原家の重宝として伝来し続け、昭和6年(1931年)12月14日に、小笠原長幹伯爵名義で国宝保存法による旧国宝に指定されたの。
さらに、、1977年には福岡市の稲員稔の所蔵が確認されており、2000年時点では福岡県の別の個人蔵となっていたんだ。
2016年に、文化庁買い上げとなり、現在は文化庁収蔵となっているよ。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
現在は文化庁が保管しているんだ。

 

【博多藤四郎の作風】

 

<刀身>

刃長8寸1分5厘弱(24.6㎝)、元幅は2.35cm、反りは内反り。

平造、庵棟、反りはほとんどなく、先の方はわずかに内側に俯しているよ。
地肌は全体に均質な小杢目であり、元と先にやや大肌の板目が交じっているんだ。
指表(さしおもて)は刀身の手元の部分にとめる金具である?元と上半、指裏(さしうら)は下半と先にやや大模様な板材の表面のような文様が交わるよ。

 

全体的に平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見える「地沸」がつき、かすかに棒映通る(地に?元から上へ向かって白く棒状にあらわれる映りがある)。
刃文は、広直刃で、区上の処に2、3個小豆状の互の目まじる。
物打ち辺は刃細くなり、帽子の刃は掃きかけ、先尖って少し返る。
彫物は、表は護摩箸、裏は腰樋に添樋の名残があり、共に区下で掻流している。
茎は、中心生ぶ、先栗尻、鑢目勝手下がり、目釘孔一個。
吉光の二字銘があるよ。

 

<外装>

博多藤四郎の拵として、小柄、笄(こうがい)、目貫など後藤徳乗が作成した三所物である「十三匹獅子三所物」が付属しているんだ。
これらは重要美術品にも認定されているよ。
ちなみに徳乗在銘の三所物はこれまでに2例しか確認されていないため、とても貴重なものとされているんだ。
小柄(こづか)とは、刀に付属する小刀のことで、笄(こうがい)は結髪用具、目貫は目釘穴を隠すための装飾品のことだよ。

 

 

【博多藤四郎の豆知識】

 

博多藤四郎のエピソードや豆知識をまとめてみるね。

 

<博多藤四郎の名前の由来とは?>

博多藤四郎の名前の由来は、筑前福岡藩2代藩主であった黒田忠之が博多藤四郎を所持していたことによるよ。
福岡の隣にある博多から出たため「博多藤四郎」という異名が付いたと推測されているんだ。

黒田忠之は、参勤交代の時に小倉表の海上で、豊前小倉初代藩主である小笠原忠真に贈ったためと言われているの。
博多藤四郎を贈った経緯については明らかにはなっていないものの、忠之の嫡男・光之が、忠真の長女・市松姫を正室に迎えるにあたって、忠真から光之へ青江派の太刀が贈られたそう。
その返礼として、博多藤四郎が贈られたものと推測されているよ。

 

博多藤四郎を贈られた小笠原忠真はたいそう喜び、郷義弘の太刀とともに博多藤四郎を陣刀にしたんだ。

本阿弥光室が「郷義弘は七千貫、博多藤四郎は五千貫という高価な名刀、それを陣刀になさるのは珍しいこと」と言うと、忠真は「大坂の夏の陣で、父と兄は討死、自分は深手を負う、という体験をした。武士は最期が大事だから、最後のため名刀でも陣刀にするのだ」と答えたと言い伝えられているよ。
それ以後、博多藤四郎は小笠原家に伝来して、昭和6年に国宝に認定されたんだ。

 

<博多藤四郎を所持していた黒田忠之とは?>

博多藤四郎を所持していた筑前福岡藩2代藩主・黒田忠之は、江戸時代前期の大名であり、江戸三大御家騒動の1つとして有名な「黒田騒動」の原因を作った人物としても記録に残っているよ。
福岡藩初代藩主・黒田長政の嫡男であり、父・長政とともに将軍・徳川家康に拝謁しているんだ。

 

黒田忠之は生まれながらの大藩御曹司で、祖父や父とは違い、性格も奔放でわがままであったと言われているよ。
外見は華美で派手なものを好む傾向があり、藩の財力でご禁制の大型船舶「鳳凰丸」などを建造したり、自らの側近集団を組織し、倉八正俊、郡慶成らを重用したりしたんだ。
その一方で領内主要6拠点の支城であった筑前六端城の城主を始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとったよ。

 

<黒田家と小笠原家の関係とは?>

博多藤四郎は、1647年に福岡藩2代目藩主・黒田忠之が、長子でのちの3代目藩主・光之の正室に、小倉藩初代藩主・小笠原忠真の長女・市松姫を迎えた際、返礼品として忠真に贈った品なんだ。
黒田家と小笠原家の婚姻は、両家の存続と発展を図るためには、必要な策だったと言われているんだ。

 

黒田忠之は黒田官兵衛の孫にあたり、小笠原忠真は細川家が肥後熊本藩に移った後に、小倉藩を任された立場なの。
15万石の大名で、九州のお目付け役の譜代大名として、徳川家からの信頼も厚かったとそう。

 

親戚関係になったのは、黒田家が外様大名、小笠原家が譜代大名だったことにあるよ。
黒田家は幕府との太いパイプができていて、小笠原家として黒田家と婚姻関係を結ぶことで、外様大名との関係をよくすることができるんだ。
一方、黒田家にとっても小笠原家は、九州で島津、細川につぐ大名だったため、関係を築くことは重要だったの。

 

両家が支え合って、御家が途絶えずに続くことで、藩政は安定。
特に代替わりの際には、トラブルが起こりやすいんだけど、幕府とのパイプがしっかりとあれば円滑に進むよう根回しや助言もできるんだ。
藩政が長期的に安定すれば、無用の混乱もなく領民の生活の安定にもつながるよ。

刀剣レモン
刀剣レモン
家と家を取り持つ役割も担った刀だったんだね!

 

<婚姻の返礼として刀を贈る意味とは?>

戦国時代とは違い、めだった戦乱がなくなった江戸時代には、刀は工芸品や贈り物としての価値が高まっていたよ。

手柄を立てる機会が少なくなった江戸時代には、両家が親戚となって結びつきを強めて、それぞれの家を残そうとするようになるんだ。
そういう意味で、婚姻と刀の贈答というのは、泰平の世を表す象徴的なエピソードであるとも言われているよ。

 

刀剣レモン
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この刀にも知られざるいろいろな婚姻エピソードが詰まっているのかもしれないね♪

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刀剣男士と共に―いざ出陣!

西暦2205年。歴史改変を目論む敵によって過去への攻撃が始まった。
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(公式サイトより引用)

 

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