鶯丸 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日蛍丸- 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日
目次
【明石国行の歴史と概要】
明石国行(あかしくにゆき)は鎌倉時代に作られたとされる日本刀だよ。
日本の国宝に指定された太刀で現在は東京都墨田区にある刀剣博物館が所蔵しているんだ。
明石国行を打ったのは、鎌倉時代後期に山城国の鍛冶集団・来派の実質的な祖であった刀工・来国行(らいくにゆき)だよ。
来派は、山城国粟田口派から派生する形で誕生して、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて隆盛したんだ。
次に明石国行の来歴をまとめてみよう。
<明石松平家に伝来>
明石国行の来歴には不明な点が多いため、どのような経緯で明石松平家に伝来したのかは分かっていないんだ。
俗説としては鎌倉時代の北条家御内人であった長崎為基が所持していた国行作の大太刀「面影」が磨り上げで太刀になって、その後足利義明や池田輝政を経て明石松平家に伝来したという説があるよ。
しかし、実際には明石国行には磨り上りの痕跡が見当たらないためこれは誤りであると考えられているんだ。
<近代>
明治維新以降も明石国行は明石松平家に伝来し、昭和12年(1937年)5月25日に子爵・松平直頴の所有名義で重要文化財(当時の国宝保存法に基づく旧国宝)に指定されたの。
昭和15年(1940年)「紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会」へ出展され、その後明石松平家を出て、出版社・株式会社ぎょうせいの中興の祖・藤沢乙安氏蔵となったんだ。
藤沢乙安氏は著名な刀剣コレクターとして有名で藤沢氏のコレクションに加えられたの。
昭和28年(1953年)3月31日には、国宝に指定。
藤沢乙安氏の死後、現在は「公益財団法人日本美術刀剣保存協会」が所蔵しているよ。
東京都墨田区にある「刀剣博物館」に収蔵されているんだ。
【明石国行の作風】
刃長76.5㎝、反り3.1㎝、元幅3.03㎝、中反りが深く、刀の先端部分である切先はやや寸が詰まって猪首(いくび)となっているのが特徴。
身幅が広く造られていて、重ねも厚め。
鎬造りで屋根の形に見える庵棟で、腰反りは高く踏ん張りあり、腰元には「三鈷柄剣」の浮彫があって、目釘孔下の峰、棟寄りには、二字銘が記されているよ。
刀身表裏に樋を掻き、棒樋内には「三鈷柄剣」と彫りこんである明石国行は表裏に同じ彫り物がある珍しいデザインなんだって。
「三鈷柄剣」とはインド密教で使用される祭神具のひとつで、不動明王を示すものとされているの。
この「三鈷柄剣」が彫り込まれた意図ははっきりとは分かっていないものの、煩悩を祓う仏剣をイメージしている説や不動明王の憤怒と破邪の表出をイメージしている説などがあるよ。
明石国行は三日月宗近や童子切安綱などの平安太刀に比べるとより力強い姿、形をしているんだ。
刃文は直調に小互の目と子丁子を交えた小乱れ刃で、足葉入り金筋かかり小沸つく。
地鉄は小板目がわずかに肌立って細かい地沸がつき「来映り」と言われる淡い沸映りが現れているんだ。
全体的に地鉄は沸できらきらした潤いがあるよ。
佩表には「国行」の二字銘を切る。
ハバキには越前松田家(徳川家)の家紋である「丸に葵紋」があるよ。
徳川家康は徳川家以外がこの家紋を使うことを禁止していたものの、明石藩の越前松平家はこの丸に葵紋を使うことを許されていたんだ。
明石国行が作られた時代は、貴族から武士の世に変わる中で刀が武器として広く使われるようになった時代だよね。
その時代背景を反映しているように、明石国行はその姿に優雅さと豪壮さをあわせもっている非常に優れた刀だよ。
【明石国行の豆知識】
明石国行のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<明石国行を作った来国行とは?>
明石国行を作成した刀工・来国行は山城国の鍛冶集団である来派(らいは)の実質的な祖であったとされているよ。
この来派は、鎌倉時代に活躍した山城国粟田口派から派生する形で誕生。
鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて隆盛した一派で、祖である国吉の作刀は存在しないため、来国行が実質的な祖になっているんだ。
その年代については、子と伝える二字国俊の弘安元年紀の作が存在するため、正元(1259年)・文応(1260年)頃が最盛期とされているよ。
鎌倉時代中期、モンゴル帝国によって行われた日本侵略(=蒙古襲来)をきっかけにして、これまで以上に戦の場で使いやすい刀の需要が高まったの。
そこで、来派はより実戦向きの刀を造るために鎬地(しのぎじ)に樋を入れて刀の軽量化を図ったんだ。
さらに質の違う鉄を場所によって使い分ける作刀にすることで、切れ味が鋭くて折れにくい刀を作ったよ。
明石国行も来派の太刀らしく軽量で、切れ味のよい刀剣の1つ。
しかし明石国行は刀身の状態が非常に良くて、傷もないことから、実際に戦場で使われてはいないのでは?という説が有力視されているよ。
来国行の作刀はほとんどが太刀で、その中でも明石国行は白眉であり、身幅が広く当初の姿をよく残しているんだ。
国行の短刀の遺例は、寸延びて僅かに反りのついた島津家伝来のもの一口だけとなっているよ。
来国行の作風は、粟田口国安や綾小路定利の風貌に則った感があって、一段と刃幅を広く取っており、新味を加えたものと言われているの。
刃取りは下半殊に腰の出入りのある乱れを見せ、上へは広直刃調に足を深く入れたものが多く見られ、大概のものには棟焼が見られるんだ。
直刃調の穏やかな刃取りで、棟焼を見せるところに異色ぶりがあって、これは二字国俊、来国俊、来国光、来国次などにも受け継がれているよ。
また細身の手以外には棒樋を掻くものが多いの特徴の1つ。
帽子の焼きは直ぐに小丸に返る温和しいものが通例なんだけど、横手の下辺りから金筋や砂流しが強くかかり、刃中に覇気を見せるものもあるよ。
来国行の太刀姿は、陰陽両様があるとされていて、陰の造込みの細身・小鋒の優しい姿のものや、陽の造込みの身幅広く豪壮で猪首鋒になったものがあるの。
そのほか、身幅ほぼ尋常の手のものなどもあるよ。
<明石国行の名前の由来とは?>
明石国行という名前の由来は、播磨国藩主であった明石松平家に代々、明石国行が伝わっていたことに由来するよ。
この明石松平家は越前分家になるんだ。
播磨国(現在の兵庫県南西部)の明石藩松平家は、結城秀康の6男で大野藩主直良の子・松平直明が天和2年(1682)に越前国大野より6万石で播州明石に転封されたのにはじまり、松平氏が幕末まで在封するんだ。
松平直明の父・松平直良は、徳川家康の次男・結城秀康の六男になるため、直明は家康の曾孫にあたるよ。
8代藩主に、11代将軍家斉の子である斉宣が就任し、このとき2万石が加増され、8万石となったんだ。
さらに将軍家の親族となったため、江戸城中での伺候席も「大廊下下」へ格上げになったよ。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
刀剣男士と共に―いざ出陣!
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