篭手切江 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月22日小豆長光 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月24日目次
【謙信景光の歴史と概要】
謙信景光(けんしんかげみつ)は鎌倉時代に作られた短刀だよ。
日本の国宝にも指定されている謙信景光は、埼玉県さいたま市大宮区にある埼玉県立歴史と民族の博物館が所蔵しているんだ。
この謙信景光は、鎌倉時代に活躍した刀工・長船景光によって作られたよ。
謙信景光は、上杉謙信が常に帯刀していたとされる短刀なの。
上杉謙信と言えば、刀剣マニアとしても有名で、数多くの刀剣コレクションを誇っており、謙信景光もその1つだったの。
ちなみに上杉謙信は、謙信景光の作者である備前長船派の刀工・長船景光を高く評価していたと言われていて、景光の刀だけではなく、景光の子である兼光の刀剣も所有していたんだ。
次に謙信景光の来歴をまとめてみよう。
<大河内時基>
謙信景光は秩父出身の地頭・大河内時基が景光に作らせた短刀なの。
この時、大河内時基は別の御物太刀と一緒に謙信景光を作刀させたと言われているよ。
その後、大河内時基は秩父大菩薩を祭神妙見菩薩としている秩父神社へ奉納。
<上杉家>
いつの頃からか秩父神社から出て上杉家に伝わるようになるよ。
上杉家では謙信景光を戦後、岡山の愛刀家である岡野多郎松氏に譲渡されるまでずっと伝来していたんだ。
謙信が逝去した天正6年から数えてもなんと約370年も上杉家に所蔵していたんだよ。
ものすごい長い年月だよね。
ちなみに附指定されている小サ刀拵は、謙信の時代のものとされているんだ。
「上杉家刀剣台帳」乾一二の記載をみると、上杉謙信が姫鶴一文字の刀に添えて帯用した記録があるよ。
<近代>
戦後、上杉家から岡山の愛刀家・岡野多郎松氏が譲り受け、所持するよ。
山鳥毛一文字と同じタイミングで譲渡されたのではないか言われているんだ。
昭和27年(1952年)7月19日に重要文化財に指定され、昭和31年(1956年)6月28日に国宝指定。
昭和33年(1958年)「備山愛刀図譜」では10番目に記載されているよ。
平成5年(1993年)には岡野家から埼玉県の所有となり、現在は埼玉県立歴史と民族の博物館に所蔵されているんだ。
【謙信景光の作風】
<刀身>
刃長は28.3cm、反りは0.2cm弱、元幅は2.73cm。
造込は平造で、刀を背面から断面で見た際に屋根の形に見える「庵棟」
身幅はやや広く、寸延びとなり、切先部分の形状が張らず、先細りになっているよ。
この時期の短刀としては珍しく、わずかに反りがあるんだ。
景光の作刀としては反りがあるのは珍しいとされているよ。
地鉄は板材の表面のような文様のうち細かく詰まった小肌目によく詰み、乱映り立ち、地沸つき、棒映り立つ。
刃文は、景光が得意とした片落ち互の目を主調にして小丁子を交えて、小足・葉よく入り冴える。
匂口はやや締まりごごろに冴える。
彫物は指表に「秩父大菩薩」の神号が5文字、指裏には「大威徳明王」を表す梵字をそれぞれ彫っているよ。
茎は生ぶ、振袖形に反りがつき、鑢目は勝手下がりで、茎尻は栗尻となる。
目釘孔は2つで、銘は指表に「備州長船住景光」、裏に「元亨三年三月日」と切る。
謙信景光は刃の出来に優れた作刀であり、小龍景光と並んで長船景光の代表作の一口。
また国宝指定になった備前作の太刀は多いんだけど、短刀の国宝指定品は謙信景光と長重の二口のみなんだ。
そのことからも長船景光の技量の高さがよく分かるよね。
<外装>
外装は黒漆小さ刀拵(くろうるしちいさがたなこしらえ)で、謙信当時の作で室町時代後期に作られたとみられているよ。
鞘は黒漆塗で、日本刀の握る持ち手の柄は中ほどがくびれた立鼓形になっていて、黒漆鮫を着せて、上を紺糸で菱巻したものだよ。
鐔は小型の喰出鐔で赤銅魚々子地に秋草文を高彫り・色絵にして表しているよ。
通常、短刀拵は小柄、笄が付属しているのが一般的なんだけど、この外装には表裏に2点小柄があって、表の小柄は鐔と同様に仕立てた菊秋草図だよ。
裏の小柄は銀の波文地に金の枝菊文を高彫りにしているんだ。
また柄巻と下緒は後補である。
この拵は謙信没後の慶長年間に上杉家によって手を加えられた形跡が残っているんだ。
【謙信景光の豆知識】
謙信景光のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<謙信景光の名前の由来とは?>
謙信景光は上杉家が所蔵していた名物であり、上杉謙信がこの刀を佩刀していたことが号の由来となっているんだ。
上杉謙信は短刀である謙信景光を愛用し、常に佩用していたと伝えられているよ。
上杉家にとって上杉謙信は先祖であり、事実上の藩祖だから、謙信公を呼ぶ際には「不識庵様」や「不識院様」と呼ぶのが一般的なんだ。
そのため、上杉家がこの刀を「謙信景光」と付けたのであれば「不識庵景光」や「不識院景光」と名付けることになるだろう。
つまり上杉家が上杉謙信のことを「謙信」と呼び捨てにすることは、当時の常識的にありえないことなので「謙信景光」という号に関しては、上杉家の外で呼ばれていた名であったのでは?と言われているんだ。
または上杉家から出た後に付けられた比較的新しい号なのでは?と言われているよ。(昭和時代以降という推測もあり)
<上杉家御手選三十五腰にも記載された謙信景光>
謙信景光は上杉謙信の短刀で、一文字極めの無銘の刀とともに常に帯刀としていたと言われる由緒ある日本刀なんだ。
この謙信景光は後に、上杉御手選三十五腰の一振りにも数えられているの。
また謙信景光は「上杉家刀剣台帳」の「乾十二号」に記載されていて、そこでは「謙信景光」の刀号についての記述はみられないものの、「謙信公差料 乾第十一号一文字刀と御揃」と記されているの。
この記載からも謙信が常に用いていた「乾十一号一文字ノ御刀」こと姫鶴一文字の指添として用いられていたと分かるんだ。
上杉謙信は愛刀家としても知られているだけではなく、刀剣の優れた鑑定眼を持っていたと言われているの。
上杉家に伝わる「上杉家御手選三十五腰(うえすぎけおてえらびさんじゅうごよう)」は、米沢藩初代藩主である上杉景勝が特に気に入ったものを選抜した名刀リストのこと。
35腰のうち、上杉謙信の佩刀は28腰とされているんだ。
ただ元々の台帳が紛失してしまっているため、上杉家御手選三十五腰の内容に関しては確実なことは分かっていないの。
「上杉家刀剣台帳」で「三十五腰之内」と記載されている35振り中、26振りは上杉家御手選三十五腰に含まれているよ。
さらに近年の研究では、残りの9振りに関してはある程度推定されているんだ。
<刀身に彫られた「秩父大菩薩」は謙信景光だけではない?御物太刀にも同じ彫がある!>
謙信景光の刀身には「秩父大菩薩」の五文字が彫られているの。
刀身に施された「秩父大菩薩」の神号の文字の彫物は、他にも正中二年紀(1325年)のある景光・景政との合作の太刀(御物)にも見られるの。
その太刀は皇室御物として現存しているんだ。
御物太刀の銘文からは武蔵武士丹党大河原氏が新たな領地として移住した播磨国三方西(現在の兵庫県宍粟市)に景光・景政兄弟を招いて作刀させたことが分かるよ。
「謙信景光」も「秩父大菩薩」が彫られた太刀と一連のものとみられていて、この二振りは大河原氏の故郷にある秩父神社に大河原氏によって奉納されたものと言われているの。
「謙信景光」と御物太刀にみられる「秩父大菩薩」の神号の文字は同じなんだけど、梵字は謙信景光が「阿弥陀如来」、御物太刀は「毘沙門天」と違うんだ。
なぜ違うのか?についてはいまだに謎となっているよ。
その後、戦国時代のどさくさによってそれぞれ神社から散逸。
謙信景光は上杉謙信が所有することになったんだ。
<謙信景光を作った長船景光とは?>
謙信景光と作った長船景光は鎌倉時代の刀工・長船長光の子とされているよ。
長船景光は、備前国長船派の開祖として知られている長船光忠から3代目に当たる刀工なの。
父である長船長光が生み出した刃文「片落ち互の目」を、より洗練させて完成させた名手としても知られているんだ。
長船景光の作品は少なくはなく、太刀も名作が多いんだけど、長船物としては短刀の名品が多いんだ。
その中でも「謙信景光」は景光がもっとも得意とした片落互の目を焼いた典型であって、美しく澄んだ地肌に冴えわたる片落互の目を焼いた傑作と評されているよ。
太刀に関しては、父である長船長光ほどの豪壮さはないものの、品格ある太刀姿が印象的。
備前国長船派の中でも地鉄が一番美しいとされているよ。
また長船景光は、彫刻の名手で梵字や宗教的な彫り物を施した作品が見られるの。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
刀剣男士と共に―いざ出陣!
西暦2205年。歴史改変を目論む敵によって過去への攻撃が始まった。
歴史を守る使命を与えられた“審神者(さにわ)”は、
最強の付喪神“刀剣男士(とうけんだんし)”と共に過去へ飛ぶ――。▼刀剣乱舞-ONLINE-とは?
名だたる刀剣が戦士へと姿を変えた“刀剣男士”。
あなたは彼らを率いる“審神者”となり、歴史を守る戦いに出ます。
短刀、脇差、打刀、太刀、大太刀、薙刀、槍、剣の
計8種の個性豊かな刀剣男士を集めて育て、あなただけの部隊結成!
様々な合戦場を攻略していく、刀剣育成シミュレーションゲームです。(公式サイトより引用)
刀剣乱舞 関連サイト
当記事は著作権法第32条に基づき画像を引用しております。
著作権は権利者様側へ帰属しておりますので画像の転載・流用はご遠慮下さい。
また、権利者様側からの画像等の削除の依頼や警告は速やかに対処いたします。