愛染国俊 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年1月24日蜻蛉切 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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【千子村正の歴史と概要】
千子村正(せんごむらまさ)は村正(むらまさ)とも呼ばれており、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工で、千子派の祖、およびその名称、その作になる日本刀の名だよ。
室町時代から江戸時代初期にかけて活躍した千子村正は、史上最も有名な刀工名の1つ。
千子村正の作は武器としての日本刀の代名詞で、斬味凄絶無比と名高く、天下人など戦国時代の武将から至上の業物つまりは実戦刀として愛用されたんだ。
精強で知られる三河武士を中心として、初代将軍・徳川家康や、関白・豊臣秀次ら天下人も使っていたんだよ。
また徳川家の人間の死、負傷にかかわった凶器がことごとく、千子村正作の刀剣だったため「妖刀村正」と人々から恐れられ、広く周知されるようになったんだ。
また千子村正は刀剣美術としても、南北朝後の室町、戦国時代を代表する巨匠だったよ。
その作風は覇気を放つ鋭いもので芸術品として千子村正を賞美する人は非常に多いんだ。
江戸時代以降は、徳川家の妖刀伝説の風評被害を受けるものの、倒幕の象徴として西郷隆盛らの志士に愛用されたことでも有名なの。
さらに、千子村正は歌舞伎や浮世絵など創作物の題材としても人気があり、たくさんの傑作が誕生したんだよ。
千子村正派は伊勢国で誕生したの。
伊勢国には「天照大御神」を祀る伊勢神宮がある国だったこともあり、戦国時代になるまでは、戦争のないとても平和な土地だったんだ。
そのため当然武士もおらず、必然的に刀鍛冶もほとんどいなかったそう
しかし、戦国時代になり、各国の領地争いが発生。
伊勢国にも刀鍛冶が必要とされるようになったことで、最初の一派ができそれが「千子村正一派」だったんだ。
次に千子村正一派の系譜をまとめてみよう。
千子村正から数代にわたり、同名の村正が続いたよ。
何代にわたったか?について諸説あり、3代という説と7代という説があるんだ。
初代・千子村正は村正派の開祖とされており、別名「千五村正」だよ。
出生の際、千子村正の母親が桑名にある矢田走井山に祀られている千手観音にお祈りをして村正を産んだんだ。
そのことから、自身を「千手観音の申し子である」として「千子」の姓を名乗ったと言われているよ。
応永年間(1394年~1428年)~嘉吉頃にかけて活躍。
父は美濃関鍛冶の赤坂左兵衛兼村で、師である平安城長吉は山城の名工だったよ。
初代・千子村正の現存する最も古い年紀は文亀頃。
それ以後に名跡の継承がみられて、2代目が永正~天文頃、3代目が天正頃に活躍したと言われているんだ。
さらに4代目以降の千子村正は、徳川家の忌避する村正の名を改めて、千子と名乗るようになるよ。
千子と名乗った千子村正は、名匠として有名であった正宗の弟子であったとされているんだ。
また千子村正派には代々の村正のほかにも、正重や正真などの有名な刀工がたくさんいるよ。
特に正真は、天下三名槍の1つである「蜻蛉切」の作者としても知られている名高い刀工なんだ。
【千子村正の作風】
千子村正の特徴としては、太刀や打刀よりも脇差や短刀が多いんだ。
室町時代末期に流行した「美濃伝」の作風と、隣の国の「末相州伝」の作風の影響を受けているの。
さらに山城伝や島田派の技も取り入れていると言われているよ。
美濃国の刀をベースに、複数の流派を取り入れた独特の仕様になっているんだ。
この独創性は、武士よりも商人の力が強かった自由貿易港・桑名の気風と立地を活かしたものになっているよ。
柄をおさめている部分の刀身「茎」が「タナゴ腹」という個性的な姿になっているのが特徴。
独自の作域に達した千子村正は、刃文を表裏そろえる村正刃(千子刃)などの様式を広めていったんだ。
太刀や打刀の姿は、反りが浅く、身幅や重ねはともに頃合いの姿。厚みは少なく、先反りが付き、切先は長く伸びているよ。
地鉄は、板目肌が刃に向かうにつれて、柾目肌が交じり、刃文は箱乱・のたれ刃・三本杉のいずれかを基調としているんだ。
短刀の姿はやや長寸で先反り気味。相州伝風の身幅が広く、重ねの薄い姿で厚みはなし。
鋭利さを感じさせる切先の物と、小振りで重ねの厚い姿の物があるよ。
また刃文はゆるやかな乱刃か直刃で、焼刃が刃先に寄り、そのまま刃先に抜けていく「駆け出し刃」になっているんだ。
また千子村正は「妖しい魅力のある刀」として知られており、力強さと鋭さが魅力なの。
その覇気のせいで妖刀伝説が発生したのでは?とも言われているよ。
一見して鋭さがすぐに感じられるこの千子村正の刀で斬ってみたい!と思うのは武士であれば当然とも言われているんだ。
【千子村正の豆知識】
千子村正のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<千子村正の妖刀伝説>
刀工が必要とされる戦乱の中心地から離れていた伊勢国の刀工一派であった千子村正。
千子村正が広く有名になった理由が妖刀伝説だよ。
伝承によると千子村正の刀は徳川家代々に祟り刀をなしたとして、忌避されたことで有名になったんだ。
ここでは徳川家にまつわる千子村正による祟りをまとめてみよう。
・徳川家康の祖父・松平清康
徳川家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)が家臣の謀反によって討ち取られた際に千子村正が使用されたんだ。
天文4年(1535年)の尾張侵攻中に、陣中で阿部弥七郎正豊は「父の阿部定吉が織田方に内応している」という噂を聞いて、疑心暗鬼に陥っていたの。
その夜間、陣中の騒ぎを聞きつけた阿部弥七郎は「父が清康に成敗された」と勘違いし、背後から松平清康を斬りつけ殺したと言われているよ。
なお阿部弥七郎は家臣・植村新六郎によってすぐに討たれたんだ。
主君を失ってしまった松平家はそのまま撤退し、勢力を弱めることとなるよ。
この出来事は「守山崩れ」と言われているんだ。
また別の説では夜陣で馬が暴れているのに気づいた松平清康が「外へ出すな」と大声で呼びまわったそう。
それを聞いた家臣の阿部弥七郎が寝ぼけたまま、その声敵と勘違いして清康を斬りつけってしまったという。
・徳川家康の父・広忠
天文18年(1549年)家康の父である広忠は、城中で乱心した近臣・岩松八弥に殺害されてしまうんだ。
その時に千子村正の脇差が使われたと言われているよ。
広忠を殺した岩松はすぐに成敗されたんだけど、岩松を成敗したのは清康の時と同じ植村新六郎であったそう。
・家康の嫡男・信康
天正7年(1579年)、家康の長男・信康と築山殿が武田方への密通を疑われるんだ。
謀反を疑われた家康の嫡男・信康は信長からの要求によって死罪となるの。
9月15日に二俣城において切腹したんだけど、その時、介錯に使われたのが千子村正だったと言われているよ。
介錯を命ぜられたのは服部半蔵正成で、半蔵が「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って涙を流して、介錯できなかったんだ。
それを聞いた家康が「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできぬのか」と半蔵を高く評価したという逸話が残っているよ。
・家康が何度も怪我をした
家康自身も駿河今川方で人質として暮らしていた時に、千子村正の短刀でケガをしたことがあるそう。
さらに関ヶ原の戦いの時、信長の甥である織田長孝が大谷吉継隊に属していた敵将の戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。
家康がその槍の検分をしていた際、家臣が鞘を払う際に取り落としてしまい家康は指を切ってしまったという。
その際の日本刀もまた千子村正作だったんだ。
村正作と聞いた家康は、すぐに不機嫌になり席を立ってしまうと、長孝はその槍を折ってしまったというエピソードが残っているよ。
以上が千子村正が徳川家に祟る妖刀として一般的に広く認知されたと推測される理由なんだ。
4代にわたってこのような凶事が重なると徳川家に祟る刀ではないのか?という話が出ても不思議ではないよね。
ただ徳川家の拠点であった三河と伊勢は距離的に近いため、それだけ千子村正の刀がその地方一帯に流通していたのでは?とも考えられるよ。
<徳川家に敵対していた立場の者が妖刀村正の刀を保持していた?>
千子村正が徳川家に災いをもたらしたという妖刀伝説は江戸時代には一般に広まっていたそう。
その伝承を裏付けるように、徳川家に敵対していた立場の者がこぞってこの妖刀伝説のあった千子村正を所持していたんだ。
ここでは千子村正の刀を所持していたとされる者たちをまとめてみよう。
・由井正雪
慶安4年(1651年)に幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪は、千子村正を所持していたそう。
・長崎奉公・竹中重義
長崎奉行・竹中重義に疑いがあり、幕府によって屋敷が捜索。
捜索によって金銀財宝と、所持を厳しく禁止されていたとみられる村正作の刀を24口も所蔵していたことが分かったの。
寛永11年(1634年)2月22日に、重義は嫡子・源三郎と共に切腹され、その一族は隠岐に流罪を命じられたと言われているよ。
・真田幸村
秀頼擁する大坂城へ入城した真田幸村は紀州九度山に流されて、徳川家打倒を誓っていたんだ。
その真田幸村は村正を所持していたと「名将言行録」に書かれているよ。
・倒幕派の志士たち
幕末になると、西郷隆盛など倒幕派の志士たちが、千子村正を競って求めたそう。
そのため、市場にはたくさんの「千子村正の偽物」が出回るようになったんだ。
・有栖川宮熾仁親王
戊辰戦争時に、東征大総督の職を志願した有栖川宮熾仁親王が千子村正作の脇差を佩用したそう。
さらに、江戸城開城の際にも千子村正作の脇差を佩用したと伝わっているよ。
<本当は妖刀説はない?!>
徳川家に敵対していた立場の者が妖刀村正の刀を保持していたという説をご紹介したんだけど、現代においては妖刀村正伝説はほぼ否定されているんだ。
愛知県名古屋市にある徳川美術館は尾張徳川家の家宝を多く収蔵しているんだけど、徳川家が千子村正を嫌ったというのは後世の創作であるとしているよ。
尾張徳川家に家康から尾張義直に形見分けとして与えられた御物の一覧「駿府御分物御道具帳」には、二振りの村正が記載されているんだ。
2つのうち1つは明治期に手放されてしまい、行方がわからないけれど、残り一振りは「銘村正」として所蔵されているよ。
また徳川四天王の1人である本多忠勝の愛槍の「蜻蛉切」もまた千子村正作のものなんだ。
本当に徳川家の祟りであると忌避されていれば、両家とも改易されているだろうから江戸中期以降は徳川家自体もそこまで深く考えていなかったのでは?と推測されているよ。
また、もともと伊勢桑名で発展した村正派はその後三河に移っているんだ。
村正派は三河でとても有名な刀工であり、腕も確かであったため多くの武将が村正の刀を愛用したよ。
そのため、三河など東海地方で活躍した徳川家も、村正の刀を入手しやすいかったと考えられているんだ。
徳川家中で多く村正作の刀を用いていたために、凶器となる可能性が高まったと考えるのが普通だよね。
<千子村正は妖刀伝説で有名になったわけではない?>
千子村正と言えば妖刀伝説によって広く人々に知られるようになった刀工というイメージが強いよね。
講談や怪談、時代劇などで妖刀として扱われてきた千子村正は、特に江戸期には徳川家に祟る刀として歌舞伎や浪曲などの演目で広く用いられてきたんだ。
現代でも時代劇やゲーム、漫画などで千子村正を取り上げた題材はとても多いよ。
実際、刀剣に興味がない人でもその名を聞いたことがあるという人も多いはず。
その知名度は、正宗や虎徹と並ぶほどと言われているんだ。
実は千子村正は、江戸時代に生じた妖刀伝説のみによって有名になったというわけではないの。
実際には、戦国時代にはすでに当代最高の刀工名跡としての名声を確立していたと言われているんだよ。
特に大永・天文の時代に活躍した村正は「藤原朝臣村正」を称していたの。
この「朝臣」という名乗り方から、村正が五位の位階を得ていたことが分かるんだ。
五位相当の官職を持つ刀工は他にも、右京亮勝光や陸奥守大道などがいるんだけど、右京亮勝光は将軍・足利義尚から、陸奥守大道は織田信長から庇護を受けていたの。
当時の天下を握る武士と繋がりがあったから、官職を持っていたと言われているよ。
一方、村正は商業都市の桑名に澄ながら貴族に列せられた官職を持っていたのは、当時、他とは別格の存在であったことがよく分かるよね。
つまり、江戸時代の妖刀伝説の前から千子村正は、正宗らと比較されるほどの名高き存在であったんだ。
<歌舞伎、浮世絵、創作でブームとなった千子村正>
千子村正の妖刀伝説は文化的貢献を果たしており、妖刀伝説によって歌舞伎、浮世絵、創作で様々なブームをもたらしたよ。
ここでは妖刀村正を題材とした作品をまとめてみよう。
・八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)
1860年、二代目黙阿弥作の「八幡祭小望月賑」は妖刀村正を舞台装置として使った作品。
悲恋や悲劇を演出して、初期の黙阿弥を代表する傑作と言われているんだ。
・浮世絵「英名二十八衆句」
1866~1867年頃、浮世絵師の落合芳幾は、月岡芳年と無惨絵の傑作「英名二十八衆句」を発表したよ。
この絵は1720年頃に佐野次郎左衛門が吉原の遊女であった八橋を刺殺した事件の歌舞伎化が再燃していたのを受けて、佐野次郎左衛門と妖刀村正を結びつけて描いたものなんだ。
・歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」
明治維新後の1888年、三代目河竹新七が、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」を発表。
妖刀村正と佐野次郎左衛門の百人斬り伝説をテーマにした作品だよ。
初代市川左團次らの熱演によって、「明治期世話物の代表作」と言われるほど絶賛された歌舞伎作品になったんだ。
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