蜂須賀虎徹 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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2021年3月9日目次
【浦島虎徹の歴史と概要】
浦島虎徹(うらしまこてつ)は、江戸時代に作られたとされる日本刀だよ。
江戸時代に活躍した長曽祢興里(虎徹)が作った脇差である浦島虎徹は虎徹の比較的初期段階の作品で、歴史的、文化的な価値がとても高いとされているよ!
虎徹の作刀の大半は浦島虎徹のように脇差なんだけど、その理由は諸説あるんだ。
老中である井上正就が長脇差で殺害されたことから長脇差がその当時流行していたという説や、明暦の大火による被災で多くの刀剣が失われていたために脇差を数多く作ったという説などがあるよ。
浦島虎徹が作刀されたのは万冶3年(1660年)頃のことで、万冶年間は長曽祢興里(虎徹)が「虎徹銘」を切り始めた頃の初期作になるんだ。
そのため、浦島虎徹には「虎徹銘」は入っていないの。
その彫物から名高く、初期作として虎徹研究上の資料的にも貴重と言われている浦島虎徹。
当初の経歴は不詳なんだけれど、藩政時代には、因幡国鳥取藩主である池田家に伝来したよ。
また昭和46年12月6日審査において、昭和名物にも指定されたんだ。
【浦島虎徹の作風】
刃長は一尺一寸四分(約34.5㎝)、銘は「長曾祢奥里 万治三年十二月日 同作彫之」
刃長に関しては明治期には一尺一寸四分あったが磨り減っており現在は一尺一寸二分となっているの。
体配は平造、庵棟、重ね薄く、反り僅かにつく。
地鉄は、板目肌、処々流れて地沸よくつく。
刃文は、小のたれに互の目交じり、僅かに小足入り、匂口締まりごころに小沸つき冴える。
帽子は、直ぐに小丸となる。
彫物は、表に若竹を担ぎ、腰簑をつけ、藁沓をはいた浦島太郎が岩上に立っている図が彫られているよ。
指裏に草の倶利伽羅龍と蓮華台が彫られているんだ。
茎は、生ぶ中心、先刃上入山形、鑢目筋違、目釘孔は三つ、
表中央に細鏨に「おくさと」五字銘、同じく裏に二行の年紀、下に「同作彫之」とある。
【浦島虎徹の豆知識】
浦島虎徹のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<浦島虎徹の名前の由来とは?>
浦島虎徹という名前は、刀身の指表の彫り物に、浦島太郎が彫られていることから名付けられたんだ。
指表に若竹を担ぎ、腰簑をつけ、藁沓をはいた浦島太郎が岩上に立っている図となっているよ。
浦島の図は、装剣具の図柄としてもよく用いられていたそう。
浦島太郎の物語に関しては、すでに日本書紀にみられ、万葉集でも歌われ、謡曲でひろまったんだ。
浦島太郎が釣り糸を垂れている図や玉手箱を開けた図が描かれたものもあるの。
<彫られている釣り人は本当に浦島太郎?>
浦島虎徹の名前の由来となった指表に彫られている姿は、「若竹を担ぎ、腰蓑と藁沓をはいている人物が岩上に立っている姿」なんだ。
この釣り人が、浦島太郎とみなされたために、浦島太郎と呼ばれるようになったんだけど、誰が名付けたか、なぜ釣り人から浦島太郎が連想されたのか?については詳細は不明なの。
浦島太郎に登場する亀や、玉手箱などの小物も彫られておらず、この彫り物が浦島太郎なのかについては異論が出ているんだよ。
一般的にいうと、現代においては釣り人=浦島太郎のイメージにはならないよね。
ただ江戸期においては、腰蓑を付けた釣り人=浦島太郎というイメージが一般的であったのかもしれないんだ。
虎徹研究の第一人者である杉原祥造氏の「長曽弥虎徹の研究」では、「長曽弥虎徹の研究」所載の押形は大藪久雄氏より頂戴したものだが、大藪氏はこれを明治34年(1901年)の刀剣会の際に、日置兼次刀匠が持参されたのを写したものだとしているんだ。
さらに杉原氏は、彫り物の人物が持っているものは釣り竿には見えず、藁ぐつを履いているのみならず特徴的な亀も描かれていない、ただ押形を採集した大藪氏が「浦島太郎だ」と断言したために、従来通り浦島太郎ということにすると言っているんだ。
さらに「昭和名物帳」においても踏襲されていて「浦島らしくない所もあるが、従来の呼称に従い云々」と書かれているの。
また、浦島虎徹に彫られたと人物の姿は、浦島太郎ではなく、中国三国時代の孟宗(もうそう)ではないか?という説もあるんだよ。
この孟宗は母親の孝行を怠らなかったという逸話で広く知られているよね。
<虎徹の彫り物は珍しいものが多い?!>
虎徹の作刀には、虎徹にしかない彫り物がよく見かけられるんだけど、浦島虎徹もまさにその1つなんだ。
虎徹の彫り物を研究した虎徹研究によると、越前彫の特色として、まずその題材において竜、倶利伽羅、剣、梵字、不動、その他の諸仏等古典的なるもの、梅、松、竹、葵等を図案化した新題材があるの。
虎徹作の小田籠手からも、いかに頭脳明晰、且つ緻密であったかがよく分かると言われているんだ。
虎徹は性緻密にして、繊細な彫法をもってすべてのものを表現しているんだよ。
また、虎徹の彫刻は繊細にして、形よく表現したものが多いのも特徴なの。
<浦島虎徹は虎徹初期の作品>
浦島虎徹は、虎徹の初期作の脇差になるんだ。
虎徹の初期作の中でも「興」の字が「奥」に似ていることから、通称「おくさ」と銘を呼ばれる時期の作になるんだ。
銘文や他に類を見ない浦島太郎の彫など、虎徹の研究上貴重な資料となる作刀なんだよ。
長曽弥興里(虎徹)は、初期作においては興里の「興」の字を略体化して「奥」に似た字を切っているの。
これは明暦2年頃~寛文元年までにみられ「オク里銘」、通称「おくさ」と呼ばれているんだ。
長曽弥興里(虎徹)の銘字の変遷は、初期の明暦2年頃から寛文元年までは「奧里」(オク里銘)、寛文2年8月からは「興里」(オキ里銘)になるんだ。
コテツは古鉄と添えるものは万治元年紀ものなど初期作の一部に限られていて、寛文元年8月以降は「虎徹」がみられるようになり、寛文4年8月より「乕徹」に変遷するよ。
ただし、寛文11年、延宝2・3年のものの中には「虎入道」と銘するものもあるの。
<浦島虎徹を所有した稲葉国鳥取藩主・池田家とは?>
因幡国鳥取藩藩主の池田家は、関ヶ原の戦いの後に池田恒興の三男・池田長吉(池田輝政の弟)が6万石で入封したのに始まるんだ。
元和元年(1615年)、嗣子である長幸の代に備中松山藩に転封となるものの、代わりに池田輝政の嫡孫である池田光政が32万石を与えられて入封するよ。
さらに寛永9年(1632年)に、備前国岡山藩主・池田忠雄が死ぬと、その子である池田光仲は幼年を理由に鳥取藩へ移封され、代わりに池田光政が備前岡山藩主となったんだ。
それ以降は、池田氏の分家筋が因幡伯耆32万石を治めたよ。
ただし藩祖となる池田忠雄は輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた(家康の外孫にあたるの)ことから岡山の池田宗家から独立した国持大名とされたの。
外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられていたよ。
<浦島虎徹の復元刀が人気を集めている!>
浦島虎徹は鳥取藩主・池田家に伝来し、現在は個人所蔵となっているんだ。
そのため、実際の浦島虎徹を見ることは難しいの。
しかし鳥取県にある渡辺美術館には「平成の浦島虎徹」として復元刀の浦島虎徹を見ることができるんだよ。
この復元刀は、平成29年(2017年)1月に、観光の新たな名物を作る鳥取県の補助事業を活用して作成されたんだ。
浦島虎徹が鳥取県にゆかりの深い刀であること、2015年に公開されたPCブラウザ、スマホアプリゲームの「刀剣乱舞」で浦島虎徹をモデルとしたキャラクターが登場したことによって、浦島虎徹が人気が出たことなどがきっかけとなって復元刀が製作されたそう。
鳥取市内にあるデザイン会社が制作した押形を基に、鳥取市在住の刀匠・金崎秀壽氏によって作刀されたの。
また復元刀には鳥取県の銑鉄が使用されているんだよ。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
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