浦島虎徹 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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新撰組八番隊組長・藤堂平助はなぜ新撰組を離脱したの?御陵衛士を作った伊東甲子太郎との関係とは?
2021年3月10日
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新撰組八番隊組長・藤堂平助は旗本5,000石の藤堂家出身?新撰組四天王の1人と呼ばれた藤堂平助とは?

最期の地となった油小路(本光寺前)

 

新撰組の八番隊組長と言えば藤堂平助(とうどうへいすけ)だよね。

近藤勇らとともに上洛した同郷の仲間である藤堂平助は、途中で新撰組から離脱し、油小路の変で新撰組に討たれて亡くなるんだ。
ここでは八番隊組長・藤堂平助についてまとめてみよう。

 

 

【藤堂平助はどんな人物だった?】

 

藤堂平助は日本の幕末時代に活躍した武士、剣客、砲術家であり、新撰組八番隊組長も務めたんだ。
平助というのは通常であり、諱は宜虎(よしとら)といい、正式な姓名は藤堂平助宜虎と言うよ。

 

藤堂平助は天保15年(1844年)武蔵国に誕生した後、江戸で育ったんだ。
平助の出自に関しては諸説あるものの、旗本5,000石の藤堂家出身であったとされる説が有力視されているの。

伊勢国の津藩主・藤堂高猷(とうどうたかゆき)のご落胤と言われているんだ。
ご落胤とは身分や地位のある男が正妻でない女にひそかに産ませた子のこと。

つまり、ご落胤説が本当であれば、藤堂平助はかつて豊臣秀吉や徳川家康の元で活躍した戦国武将・藤堂高虎の子孫ということになるの。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
戦国武将・藤堂高虎の子孫だとすると凄い繋がりですね!!

【藤堂平助の佩刀・上総介兼重とは?】

 

藤堂平助は伊勢津藩主の藤堂高猷のご落胤説がささやかれているんだ。
このご落胤説には信憑性があって、その証拠となるのが藤堂平助の佩刀なの。

実は、藤堂平助が拝領していた刀は、平侍が持つことができないような業物であったことからも、ご落胤説が支持されているんだよ。

 

藤堂平助の佩刀は上総介兼重と銘討たれた長刀なの。

兼重は藤堂藩のお抱え刀工であり、池田屋事件の後修理に出された刀の記録においは、藤堂の刀は上出来作で、一介の素浪人が持てるような安い刀ではなかったんだ。

しかし、池田屋事件でこの刀はボロボロになってしまい、修復不可能な状態になったそう。

藤堂平助のご落胤説は、新撰組の内外でも有名で、薩摩藩士の記録にもそのことが伝えられているんだよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
池田屋事件の壮絶さを物語っていますな。。。

 

【新撰組への入隊、「魁先生」と呼ばれた藤堂平助】

 

藤堂平助は北辰一刀流の開祖である千葉周作の道場・玄武館の門弟となり、北辰一刀流目録を10代半ばで取得。

その後、北辰一刀流の伊藤大蔵の伊藤道場にも出入りしており、天然理心流・近藤勇の道場である試衛館にも入門。
そこで代稽古などを任されるようになっていき、試衛館の近藤勇や電子、門下生らと浪士組に参加して京都へ上洛したんだ。

 

また藤堂平助は勇猛果敢な男であり、市中見回りの任務などでは常に先頭を歩いていたの。
また戦闘の際には、危険を顧みずに敵に真っ先に飛び込んでいたそう。

その行動からついたあだ名は「魁(さきがけ)先生」だったんだよ。

 

さらに藤堂平助はその度胸だけではなく、剣の腕前も相当なものだったんだ。
新撰組結成以前から、近藤勇や土方歳三、沖田総司など試衛館生え抜きの同志であり、剣術の腕前を買われた藤堂平助は斎藤一とともに最年少の幹部の1人に抜擢されたんだ。

新撰組の在隊中には、年少者でありながら副長助勤や新撰組八番隊組長など新撰組にとって重要な役職を歴任したんだよ。
若いながら重要な役割を歴任している藤堂平助がよほどの実力者であったことはよく分かるよね。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
魁(さきがけ)先生!!いけー!!

 

【新撰組の四天王とも称されていた?】

 

近藤勇、土方歳三、沖田総司らとともに試衛館生え抜きの新撰組結成メンバーである藤堂平助は、その度胸の良さから「魁先生」と呼ばれるだけではなく、剣の腕前も相当なものだったんだ。

優れた剣士が多いことで知られている新撰組メンバーの中でも屈指の腕前だったと言われている藤堂平助は、沖田総司、永倉新八、斎藤一とともに「新撰組四天王」とも称されているんだ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
藤堂平助、沖田総司、永倉新八、斎藤一の「新撰組四天王」!めっちゃかっこいいぞよ!!

 

【池田屋事件での大活躍】

 

新撰組の活躍の中でも特に有名なのが元治元年(1864年)に起きた池田屋事件だよね。
池田屋事件では長州藩・土佐藩の尊攘派の浪士たち20数名の敵陣に対して、当初わずか4名で乗り込んだうちの1人が藤堂平助だったんだ。

藤堂平助は、近藤勇、沖田総司、永倉新八らとともに突入部隊として戦っており、1階中庭付近を持ち場として奮戦したの。
この戦いで藤堂平助の刀はぼろぼろになり、鍔元には修復できないほどのひびが入ったと言われているよ。

 

ちなみに藤堂平助は、池田屋事件で重傷を負っているの。
夏の夜の激闘で熱気がこもった建物内で、暑さに油断した藤堂平助は、鉢金をとったところ打ち落され、額を切りつけられてしまうんだ。

この鉢金とは、ハチマキに似た金属製の防具のことなんだよ。
額から流れ出る血が目に入って戦闘不能となった藤堂平助は戦場を離脱。
額を割られる深手を負った藤堂平助は昏睡状態に陥るなど、一時は生死をさまようほどの重傷だったの。

この池田屋事件の功績が認められた藤堂平助は、幕府から近藤勇、土方歳三らに続く20両の褒賞金が与えられたよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
この時に額に傷が出来たんかな!!

 

新撰組レモン
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生きてて良かったぜよ♪(20両の大金ゲットだぜよ♪)