太郎太刀 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月14日日本号 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月18日
目次
【次郎太刀の歴史と概要】
次郎太刀(じろうたち)は南北朝時代(14世紀頃)に作られたとされている大太刀だよ。
次郎太刀は「太郎太刀」の兄弟刀とされていて、太郎太刀とともに現在は愛知県名古屋市にある熱田神宮が所蔵しているんだ。
鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した刀工・千代鶴国安によって作られたとされているの。
千代鶴国安の銘が切られた作刀は少なく、次郎太刀も無銘の日本刀なんだ。
次郎太刀は本阿弥家に次ぐ研師の名家として知られている木屋家によって朱銘で「千代鶴国安」と極められているよ。
次に次郎太刀の来歴をまとめてみよう。
<真柄隆基>
次郎太刀は、太郎太刀の使い手であった戦国武将・真柄直隆の子供・真柄隆基が用いたとされているんだ。
元々は、越前朝倉家の家臣であった真柄直隆と、子である真柄隆基の所有していた大太刀が二振り存在していたの。
この二振りは「真柄太刀」と呼ばれていて、天正4年(1576年)に山田吉久に奉納された刃長221.5㎝である大太刀の方を「太郎太刀」、刃長166.6㎝である大太刀を「次郎太刀」と呼んだそう。
元亀元年(1570年)に起こった織田信長・徳川家康連合軍と、浅井長政・朝倉義景軍が対立した姉川の戦いでは、真柄隆基はこの次郎太刀を用いて奮戦したと言われているんだ。
朝倉方として戦った真柄直隆と真柄隆基は、朝倉方の敗走を余儀なくされてしまうの。
そこで味方を逃がすための退路を確保するために、追手がこないように殿(軍の最後尾)を務め、直隆と太郎太刀と、隆基の次郎太刀で戦ったの。
しかし、その健闘むなしく、青木一重によって討ち取られてしまうんだ。
青木一重に討ちとられたという説の他に、向坂式部ら兄弟に討ち取られてしまった…という説もあり諸説あるよ。
この姉川の戦いは、朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍の間で行われたんだけど、徳川家康の家臣として参戦していた本多忠勝(のちの徳川四天王の1人である)が単騎で朝倉軍に向かい討ちをして突撃してきたんだ。
この本多忠勝の突撃を迎え撃ったのが、真柄隆基の父・真柄直隆と言われているよ。
豪傑として知られる真柄直隆と本多忠勝との一騎打ちで、直隆は敗北。
逆に本多忠勝はその勇名を馳せ、徳川四天王に上り詰めていったんだ。
<次郎太刀のその後>
真柄隆基が亡くなった後、次郎太刀が渡った経緯に関してはいないんだ。
ただ佩表側の刀身下半には「熱田大明神奉寄進御太刀信長御身内熊若夫婦之者也」、佩裏側の刀身下半には「元亀元年八月吉日」と銘が切られているの。
このことから、姉川の合戦直後に信長側の人間である「熊若夫婦」が熱田神宮に奉納したことが分かっているよ。
ただ夫婦連名で奉納したこの「熊若夫婦」がどのような人物であったか?については明らかになっていないんだ。
この熊若夫婦は勝者側の人物と言われているよ。
【次郎太刀の作風】
<刀身>
刀身全体の長さは244.6cmで、刃長は五尺五寸一分(166.6㎝)、反り九分二厘(2.8㎝)、茎の長さ二尺五寸七分(78㎝)
通常の打刀は柄と刃長の比率が1対4なのが一般的だけど、太郎太刀は1対3で、次郎太刀は1対2となっているよ。
次郎太刀の重量は約5kgで、軽量化された太郎太刀よりも重量なんだ。
大太刀は柄の手に握る部分が長い方が扱いやすいとされており、柄の手に握る部分が長い次郎太刀の方が扱いやすいため、手に持つと太郎太刀より軽く感じるとされているの。
また太郎太刀、次郎太刀とも実戦用に作られた大太刀であり、細かい傷や刃こぼれの跡が残っていることからも、実戦として使われていたことがよく分かるね。
造りは鎬造、庵棟、重ね厚く頑丈な造込み。
茎の長さは78cmと長めで、地鉄は流れごころのある板目で、刃文は互の目乱れ、丁子を交えて美しく、総体に匂口締まり小沸がつく。
鎬に棒樋を掻いていて、樋中に朱が施されているよ。
はばき元近くの鎬地の表裏には「熱田大明神奉寄進御太刀 信長御内熊若夫婦之者也 元亀元年八月吉日」と奉納時の切付銘があるよ。
<外装>
拵は、朱塗りの鞘に、浅黄木綿の糸を巻いた柄となっている野太刀拵。
金具は素銅地に金色絵を施した簡素なものであり、柄には熱田神宮の神紋をあしらった目貫が巻き込まれているよ。
太郎太刀と尾張国犬山の刀工・兼武が奉納した刃長約145cmの大太刀と同じ拵えとなっていんだ。
熱田神宮には1mを超えた大太刀が約10本奉納されているんだけど、真柄太刀二振り(太郎太刀、次郎太刀)と兼武奉納の大太刀のみが同じ拵えとなっているの。
これは熱田神社より三振の大太刀が、宝刀を代表する大太刀と見なしていたと考えられていてんだ。
熱田神宮文化研究員・福井款彦氏によると兼武が奉納した大太刀を「三郎太刀」と目されるともしているよ。
この三つの柄の下地には、共通して拵えを作った職人の同じ名前が記されているの。
次郎太刀の拵にも柄の縁下木地には「名古屋上畠町 柄基屋理左衛門」、「享保三年 戌極月吉日」と墨書されているんだ。
この墨書きからも享保3年(718年)に熱田神社の依頼により、祭礼の威儀物として作られた拵とみられているよ。
【次郎太刀の豆知識】
次郎太刀エピソードや豆知識をまとめてみるね。
<次郎太刀の作者・千代鶴国安とは?>
次郎太刀を作った千代鶴国安は、鎌倉時代末期~南北朝時代に活躍した刀工だよ。
千代鶴国安は、もともと来国安の門人で、京都で活躍していた山城国の来派の弟子となったの。
さらに千代鶴国安は、越前国を中心とした北陸地方に進出した刀工一派「越前千代鶴派」の祖であったと言われているんだ。
越前に打刃物の技術を伝えたのは、千代鶴国安であったと言われているよ。
越前千代鶴派は貞治頃から室町期まで続いたんだよ。
ちなみにこの次郎太刀は、応永頃の作刀とみられているんだ。
「明智軍記」によると、千代鶴の刀工が有國、兼則という刀工の相槌によって、二振りの大太刀を作ったと記されているの。
そこには七尺八寸の太刀を「太郎太刀」と号し、六尺五寸の太刀を「次郎太刀」と号したとされているんだ。
太郎太刀は従僕4名が担いでくるものを真柄直隆は軽々しく提げていたとされるよ。
また次郎太刀に関しても、所有者である真柄隆基が弓手の肩にかけて二陣(2番備えの軍勢)に続いたとされているんだ。
<次郎太刀に朱で研磨した旨を記した木屋家とは?>
次郎太刀には朱で木屋某が研磨した旨が記されているんだ。
これは次郎太郎を熱田神社に奉納する前に、木屋家で研磨を行って、この刀が無銘であったために「千代鶴国安」と極めをした朱銘を入れたと考えられているんだ。
室町時代以前の古い時代の研磨の記録はほとんど残っていないため、この朱銘で「千代鶴国安」と極められているのは資料的にもとても貴重なものだよ。
木屋家は本阿弥家と同じく室町時代から続く刀剣の鑑定と研磨を行う有名な家柄だったの。
姓はもともと沢田であったものの、将軍・源義光の頃から「木屋」と通称するようになったよ。
木屋家は尾張の住人で、木屋常堪は織田家その後豊臣家に抱えられ、京都に移住。
慶長14年5月22日死去と伝えられているため、次郎太刀の研磨を行った木屋は年代的に考えれば、木屋常堪と考えられているよ。
木屋家はその後、徳川家康に抱えられ、二百石二十人扶持を給され、江戸幕府のお抱え研師として長く続いたんだ。
木屋家に研磨にきた刀剣の押形を写し始めた押形集「木屋押形」も残されているの。
ちなみに寛政4年に木屋家からのれんわけして独立したい初代・加藤伊助の子孫は現在も商売を続けているんだ。
この加藤伊助の子孫は「日本橋木屋」の屋号で、東京都の日本橋の本店や全国のデパートで「木屋の包丁」など刃物類を中心に販売しているよ。
<次郎太刀を所持していた真柄隆基とは?>
次郎太刀の所有者である真柄隆基(まがらたかもと)は戦国時代の武将で、朝倉氏の家臣だよ。
真柄隆基は父・真柄直隆や叔父・真柄直澄と同じく猛将で、大太刀を振るう怪力無双の者だったとされているよ。
ちなみに父は身長200㎝、体重200kg以上あったと言われているの。
真柄隆基の豪傑ぶりに関するエピソードとして、足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷へ来た際に、義昭の御前で黒い卵形の大きな石を数十回空へ投げ飛ばしたという逸話があるよ。
石を数十回も投げるなんてすごいよね。
元亀元年(1570年)に起きた姉川の戦いでは、父・真柄直隆とともに奮戦するものの、父が討たれ死んでしまうんだ。
その知らせを聞いた真柄隆基は、父の最期を見届けようと引き返したものの、そこで徳川家の家臣であった青木一重に斬られて死亡したと言われているよ。
ただ、朝倉氏が滅亡した後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されているんだ。
そのことからも、真柄家一族が滅亡せず、その後も存続していたことが分かるよ。
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