小豆長光 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月24日静形薙刀 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月27日
目次
【日向正宗の歴史と概要】
日向正宗(ひゅうがまさむね)は鎌倉時代に作られたとされる短刀だよ。
日本の国宝にも指定されている日向正宗は、別名「大垣正宗」とも呼ばれているんだ。
現在は、東京都中央区日本橋室町にある三井記念美術館に所蔵されているよ。
日向正宗の作者は、鎌倉時代に活躍した刀工・正宗。
正宗は相模国(現在の神奈川県)鎌倉で活動していた刀工で、正宗の弟子には国宝・亀甲貞宗などを作刀した貞宗がいるよ。
貞宗は正宗の実子であるとい説もあるんだ。
次に日向正宗の来歴をまとめてみよう。
<堅田広澄>
元々は江州堅田2万石の領主であった堅田広澄が日向正宗を所持していたんだ。
堅田広澄が所持していた時には日向正宗ではなく、「堅田正宗」と呼ばれていたよ。
この堅田広澄は豊臣秀吉に仕えており、堅田で2万石を領したんだ。
関ケ原の戦いでは西軍につき、没落。
<豊臣秀吉から石田三成へ>
豊臣秀吉の家臣であった堅田広澄から秀吉へ贈られた日向正宗は、その後豊臣秀吉の重臣であり、五奉行の1人でもある石田三成に下賜されたと言われているよ。
<福原長堯>
石田三成は妹婿であった大垣城城主の福原長堯に日向正宗を与えたよ。
<水野勝成>
福原長堯は関ヶ原の役で、大垣城の主将だったものの、関ヶ原の敗戦を聞き、味方に裏切り続出。
寄せ手の水野勝成から「父・忠重を殺した加賀井重望の子が城中にいる。そいつを渡してくれたら、長堯の生命を保証する」と申し入れされたんだ。
その言葉を信じた福原長堯は開城し、出家し、伊勢の朝熊山に退いたよ。
しかし、その約束は守られることなく、福原長堯は自殺を迫られたんだ。
この戦いで分捕られた福原長堯の堅田正宗は勝成の手に入ったの。
水野勝成が所持するようになってから、日向守であった勝成にちなんで「日向正宗」と呼ばれるようになったんだ。
またこの日向正宗は、大垣城攻めでの分捕り品だったため、「大垣正宗」と呼ばれることもあるよ。
<紀州徳川家>
水野勝成の手に渡った日向正宗は紀州徳川家の始祖である徳川頼宣のもとへ渡ったんだ。
享保名物帳によると借金のカタとして書かれているんだけど、その詳細はよく分かっていないの。
徳川頼宣は日向正宗を承応2年(1652年)12月、実子である光貞に与えたよ。
紀州家では水野日向守勝成の官銘に因み、日向正宗と呼ぶことになったの。
元禄11年(1698年)5月には本阿弥三郎兵衛に鑑定に出され、享保4年(1719年)に本阿弥家から問い合わせを行っていたことを、本阿弥長識が名物帳写本に注記しているよ。
それ以後、紀州徳川家に長く伝来したよ。
<近代>
明治維新以降も紀州徳川家で伝来し続けていた日向正宗は昭和2年(1927年)、紀州徳川家の売り立てにだされ、2,768円で三井家に落札されたよ。
三井男爵家に入った日向正宗は、昭和10年(1935年)8月3日に重要美術品に指定。この時は三井高公男爵所持。
さらに昭和16年(1941年)7月3日に、三井高公男爵所持で旧国宝に認定、昭和27年(1952年)11月22日に新国宝に指定。
昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では三井八郎右衛門氏所持しているよ。
現在は三井家の所蔵品を管理している三井文庫の所有で三井記念美術館に保管されているの。
【日向正宗の作風】
刃長は24.7cm、元幅2.2cm、茎長9.4cm。
造りは平造、三ツ棟。ややふくらが枯れ、反りは無反りもしくは、わずかに内反りとなる。
鍛えは、小板目肌がよく詰み、地沸厚くつき、地景入り、湯走りかかる。
刃文は大模様で、互の目乱れに小湾れ交じり、沸よくつき、箱形や耳形の刃文がまじる。
荒めの沸が輝き、刃中に金筋、砂流し、湯走り、稲妻しきりに入る。
帽子(切先の刃文)は乱れ込んで小丸に先掃きかけ、長く焼き下げる。
指裏には、護摩箸が彫られているが、これは本阿弥光徳の好みで彫り加えられたものとされているよ。
茎は生ぶ、鑢目は勝手下がりで、茎尻は浅い剣形となり、無銘。
黒漆塗葵唐草文刻鞘小サ刀拵が附帯しているよ。
日向正宗は強い鍛え、沸の強い刃、覇気に満ちた作風など相州正宗の作域を存分に示した正宗の典型作なんだ。
無銘極めながら、正宗作の短刀では随一の評価を受けていて、彼の代表作と言えるよ。
【日向正宗の豆知識】
日向正宗のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<日向正宗の名前の由来とは?>
享保名物帳にも所載されている名物「日向正宗」という名前は、この短刀の所持者であった水野勝成の官職名が「日向守(ひゅうがのかみ)」であったことが由来しているんだ。
水野勝成は日向正宗の所持者の1人であり、初代備後福山藩主でもあったの。
関ケ原の戦いの中で勃発した大垣城の戦いでは、水野勝成は徳川方の東軍に属しており、西軍に付き従っていた大垣城主・福原長堯から奪い取って所持していたよ。
<日向正宗は別名「大垣正宗」というの?>
日向正宗は所持者によってその時々で呼び名が異なっていたんだ。
元々は近江堅田に二万石を領していた堅田広澄が所持していたので「堅田正宗」と呼ばれていたの。
その後、日向正宗は堅田広澄から石田三成へ贈られ、三成から妹婿の福原長堯へ贈られたんだ。
福原長堯は、関ケ原の戦いで大垣城の守備大将を担当しており、福原長堯が属していた西軍が敗戦したという知らせが大垣城に届くと、そこにいた味方が相次いで離脱。
城を攻めていて東軍の水野勝成(日向正宗の名前の由来となった人物)は、勝成の父・忠重を殺した加賀井重望の子供を引き渡すことを条件に、福原長堯の助命を提案したんだ。
福原長堯はその条件に同意し、大垣城を開城。
その際に、この日向正宗が水野勝成の手に渡ったことから「日向正宗」ではなく「大垣正宗」と呼ばれることもあるんだ。
ちなみに日向正宗を水野勝成に奪い取られた福原長堯はその後出家をして伊勢朝熊山の僧侶として過ごすことになるよ。
勝成は約束通り、福原長堯の助命を徳川家康に願い出るものの、福原長堯が東軍の他の武将から恨みを買っていたため、自害を強要されてしまうんだ。
<号の由来となった水野勝成とはどんな人物だった?>
日向正宗という名前の由来となったこの刀の所持者である水野勝成は通称「鬼日向」と呼ばれた豪将だったの。
水野日向守勝成は、徳川家康の従兄弟にあたり、二代将軍・徳川秀忠の乳兄弟なんだ。
勝成は刈谷城主・水野忠重(徳川家康の母・伝通院の弟にあたる)の長男として生まれ、若い頃はかなりの乱暴者で父・忠重に勘当されてしまうの。
慶長5年に父忠重の暗殺によって、水野家の跡を継ぎ、三河刈谷城主となるよ。
関ケ原の戦いで行われた大垣城攻めで水野勝成は武勲を立て「日向守」に任官。
大坂の役では茶臼山を落として、真田隊を壊滅。大阪城へ一番旗を立てるなどの武勲を立てたんだ。
また寛永15年に起こった島原の乱では、75歳という年齢にも関わらず九州以外の大名の中では唯一の参陣を請われたの。
その勇猛ぶりから勝成は「鬼日向」という呼び名だったんだよ。
元和元年に大坂の役での功績をたたえられて、三河刈谷藩主から大和郡山藩主になり、元和5年には福島正則の改易後に備前福山藩主として転封。
備前福山で善政を敷き、人々からは名君と慕われたんだ。
<型破りな武将・水野勝成のエピソードとは?>
水野勝成は藩主の息子に生まれながらも腕一本を頼りに諸国を放浪し戦いに明け暮れ、家康の側近になった後も先頭で戦い続けた武将・水野勝成。
エネルギーに満ち溢れた水野勝成には驚くべきエピソードがたくさんあるんだ。
ここでは水野勝成のエピソードについてまとめてみよう。
・16歳で15の首級をあげる
水野勝成にとって初陣となった高天神城攻めでは、16歳という若さで15の首級を挙げているの。
この数には主君であった織田信長も驚き、信長から感状に加えて、永楽銭の旗印ももらっているんだ。
・19歳で首級300をつるす
1582年に起きた天正壬午の乱で、水野勝成は味方の鳥居元忠と揉め、「もう命令は受けない」と言い捨てて敵に突撃。
北条勢1万に対して、少ない手勢で攻め込み、首級300を道につるしたよ。
それを見た敵陣は完全に戦意を喪失してしまったと言われているんだ。
・兜を着用せずに出陣
1584年の小牧・長久手の戦いでは、結膜炎の目が痛いからという理由で、安全のために身に着ける兜を着用せずに鉢巻だけで出陣。
一番首を取って戻ってきたそう。
・明智光秀の官名だった日向守を喜んで受ける
慶長6年(1601年)、水野勝成は従五位下に叙任されて「日向守」になるよ。
この日向守は主君・織田信長を裏切った明智光秀の官名だったため、誰もが避けていたんだ。
しかし勝成はそのことを全く気にすることなく喜んで受けたんだよ。
・52歳でも一番乗りを果たす
水野勝成は52歳になっても、まだまだ意気盛んであったそう。
夏の陣においては、大和方面の先鋒大将(軍の最高責任者)を任されながら一番乗りを果たしたことで徳川家康に怒られたと言われているよ。
・75歳、親子3世代で参戦
寛永15年(1638年)の島原の乱では、水野勝成は75歳という高齢ながらも参戦。
約6,000人の兵を従えて、嫡男・水野勝俊、孫の水野勝貞と親子3世代で戦ったと言われているよ。
・87歳で鉄砲を的に命中させる
水野勝成は87歳の時に、離れた的に鉄砲を命中させたそう。
当時の平均寿命は50歳前後であり、この年で鉄砲を命中させることができるとは本当に驚きだよね。
・家臣や世話になった人には寛容な性格だった
関ケ原の戦い後、敗れた西軍の大将・石田三成、小西行長らが大坂や堺に引き回された時に、水野勝成は自ら用意しておいた編み笠を被せてあげたそう。
実は、水野勝成は放浪時代に小西行長に世話になっており、その恩があったのでこのような行動をしたと言われているよ。
また他にも水野勝成の優しさが垣間見られるエピソードがあるよ。
福山藩主となった水野勝成は、その当時凋落していた三村親成を家老に迎えているんだ。
この三村親成も小西行長と同様に放浪時代にお世話になった人物であり、そのことを忘れていなかった勝成は三村親成を家老にしたんだよ。
<日向正宗の作者である正宗とは?>
日向正宗を制作した正宗は、五箇伝の1つである相州伝を確立したことでも知られる刀工。
相模国(現在の神奈川県)で鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍しており、名刀を鍛える刀工として広く周知されていて、日本刀の歴史の中でも最も有名な刀工なんだよ。
その当時から、正宗の腕前は高く評価されていて、正宗作の刀は大名たちに大金で購入され、家宝とされていたの。
名物が非常に多く、郷義弘、粟田口吉光と並び天下名物と呼ばれているよ。
正宗の出生に関しては諸説あり、相州伝を興した新藤五国光の息子もしくは門人と伝わる藤三郎行光の子として鎌倉に生まれたと言われているんだ。
父・行光が属した新藤五一派は相州伝という新たな流派を興したんだけど、開祖である国光はもともと山城伝を学んでいたこともあり、その作風には山城伝の名残りも残っているの。
行光に学んだ正宗の作も、相州伝と山城伝の影響を受けているんだけど、その後全国を行脚して、あらゆる流派の技巧を学びながら独自の技術を確立。
相州伝を完成させたと言われているんだ。
この正宗は相州伝を練り上げただけではなく、数多くの弟子を持っていたことでも知られているの。
特に正宗十哲と呼ばれる10人の門徒は有名で、この正宗十哲は正宗の弟子の中でも技巧に優れていて名工になったんだ。
正宗十哲は、師である正宗に習って全国に散らばっていったよ。
正宗の作で特筆すべき点としては地鉄の美しさと沸出来の仕上がり具合。
銘を切る作品はとても少なく、銘が切られているものの中には偽物も多く出回ったそう。
太刀姿は長寸で反りは浅く、身幅は広く、平肉の少ない姿。
刃文は沸出来に、大乱れ、互の目乱、湾乱、直刃丁字乱、馬の歯乱れなどが見られるよ。
また短刀の姿は、身幅が広く中間反りの姿が特徴。
刃文は太刀の刃文と同様に、一層極まったものが見られるんだ。
地鉄も太刀と同じく地景が入り、潤いのある様子になっているよ。
この日向正宗では地鉄が冴えて、地沸が厚くつき、刃中には砂流しがかかって金筋が入る覇気に満ちた相州伝における正宗の作風が存分に表されているよ。
正宗作の短刀の中でも随一の出来栄えであると高く評価されている名刀なんだ。
この短刀の差表にみられる護摩箸の彫物に関しては、刀剣鑑定を行っていた本阿弥家の9代当主・本阿弥光徳の好みで、後から加えられたと考えられているよ。
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