堀川国広 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年3月4日蜂須賀虎徹 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年3月4日
目次
<打刀と脇差って何が違うの?>
土方歳三は打刀の和泉守兼定と、脇差の堀川国広を愛刀としていたんだ。
日本刀にはいくつかの種類があって、江戸時代になると武士は打刀と脇差という大小二振りの刀剣を腰に差すのが一般的だったの。
そのため打刀と脇差は、二振りセットで作られて売られることが多くなったよ。
江戸時代は戦国時代に比べると平和な社会だったよね。
そのため実用性はもちろんなんだけどそれだけではなくて、対になるように二振りに装備を凝らしたものなど、芸術性の高い刀剣も多く作られるようになったんだ。
優れた刀剣に対しては資産価値も高かったため、日本刀は単なる武器ではなく高価なものもたくさんあったんだよ。
打刀は大刀、脇差は小刀とも呼ばれたんだ。
大小二振りの刀を差すことが認められていたのは当時武士だけだったため、町人は武士のことを「二本差し」と呼ぶこともあったそう。
ちなみに短刀は武士以外の身分でも持つことができたんだよ。
次に打刀と脇差の違いについてまとめてみよう。
かっこよすぎですぅ〜!!!
・打刀
打刀(うちがたな)は時代劇などでもよく見かける、武士が斬りあう時に使用する最もポピュラーな長い日本刀のこと。
長い刀には「太刀」もあるんだけど、太刀は主に馬上合戦用の刀剣で、打刀よりも最も古い時代によく使われていた刀なんだ。
打刀は地上で使用することを想定して作られている日本刀であり、太刀に比べると短く、反りが浅くなっているが特徴。
太刀は片手で扱うのが前提なんだけど、江戸時代中期以降の打刀に関しては両手で扱うのが前提となっているため、太刀に比べて重量感があるの。
幕末に実戦でよく使われていた刀は、主に打刀であったと言われているよ。
打刀が隆盛するのは室町時代後期以降のことで、日本全国で覇権争いが激化する時代背景とともに、大量の打刀が作られるようになったんだ。
それまでの打刀は平造が主流なんだけど、室町時代後期以降は打刀も太刀と同じく鎬造が主流となっていくよ。
また太刀の茎を磨り上げて打刀に直して使うこともあったそう。
これは戦国時代の覇者である織田信長や豊臣秀吉が率先して行っていたんだよ。
長すぎる打刀の帯刀を幕府が禁じたために、江戸時代に入ってからも磨り上げが盛んにおこなわれていたんだ。
ちなみに太刀と打刀の見分け方は、体に対して銘を外側にして帯刀した時に、刃が下を向いているのが太刀で、刃が上を向いているのが打刀なんだ。
展示会などで刀を飾る際は、太刀は刃が上向き、打刀は刃が下向きになるように置かれるよ。
・脇差
脇差(わきざし)は約30㎝以上60㎝以下の刀剣のことをいうよ。
脇差と一言でいってもそれぞれ長さには大きな違いがあり、堀川国広の脇差は約59㎝であったことから、かなり大振りな脇差であったと言われているの。
また形に関しても作られた時代によって、流行りすたりがあったそう。
脇差には短刀のように短いものもあれば、堀川国広のようにかなり長い打刀のようなものまであったんだ。
例えば南北朝時代や室町時代の脇差は1尺(約30㎝)より少し長い平造で、形状は短刀に近かったそう。
江戸時代に入ると、脇差は2尺(約60㎝)に近い鎬造で、打刀に近い形状だったんだ。
江戸時代には特に脇差の名品が数多く生まれたの。
武士は公の場に出る時に、打刀と脇差を差すことを認められていたんだ。
これが許されたのは武士だけだったの。
ただ脇差に関しては武士以外の身分も者も持つことを許されていたため、江戸時代にはたくさんの脇差が作られ出回っていたそう。
また武士よりも財力がある豪商が、刀工のスポンサーになることもあったんだ。
そのため、脇差の名品は今でも多く残っているよ。