水心子正秀 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月17日松井江 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月18日
目次
【源清麿の歴史と概要】
源清麿(みなもときよまろ)は江戸時代後期に活躍した刀工で、水心子正秀、大慶直胤と並んで江戸三作と称された名工としても知られているよ。
波乱万丈な人生を送った天才刀工・源清麿は、新々刀期の中でも特に人気が高いんだ。
また腕前に関しても群を抜いていて、幕末の刀工中でも随一の人気を誇るよ。
これほどまでに源清麿が人気なのは、破滅的であるとさえ言われる数奇な人生、駄物を残さない不器用なまでの職人気質、時代を超越した抜群の技量など、源清麿自身の人となりに魅力を感じる人が多いんだ。
初銘は「正行」、次に「秀寿」となり、師匠である旗本兵学者・窪田清音より「清」の一文字をもらって「清磨」となったの。
また、源清麿の兄も刀工・山浦真雄として知られているんだ。
源清麿の略歴について詳しくまとめてみよう。
源清麿は江戸時代後期の文化10年(1813年)、小諸藩赤岩村(現在の長野県東御市)の郷士(農村に居住する武士、半能半士の者)であった山浦昌友の次男として誕生。
本名は、山浦内蔵助環と言うよ。
17歳のときに兄で刀工の山浦真雄(やまうらまさお)とともに、上田藩のお抱え刀工・河村寿隆に師事して刀工の技を学び、備前伝を取得。
山浦内蔵助環は初銘を「一貫斎正行」と切ると、師である河村寿隆から、「自分より勝る」と言われ「秀寿」の銘を贈られたんだ。
ただ「秀寿」の銘に関しては天保5年(1834年)に1度使っただけだったんだよ。
23歳のとき一念発起して、刀工よりも武士を志して真田幸貫の斡旋で江戸に上り、江戸幕府の軍学者で剣術家でもある旗本・窪田清音に入門したんだ。
窪田清音は、山浦内蔵助環が武士以上に刀工として才能があることを見抜いて、山浦内蔵助環の大成を願って、清音の屋敷内に鍛冶場を設けて「旗本から名刀を借り受け、研究せよ」と下命したんだ。
山浦内蔵助環はその助言にしたがって修行し、実践本位に作刀された古の名刀を直に吟味しつつ、それに近い日本刀の作刀を始めたんだ。
またこの頃、「正行」と銘を切り作刀に専念したよ。
この「名刀から直に学ぶ」という経験があったからこそ、源清麿は独自の立ち位置を確保し、名工としての地位を確立していったと言われているんだ。
天保13年(1842年)、清音の尽力によって1人3両掛け100振りの刀剣講「武器講一百之一」を依頼されるものの、一振り目を完成させたところで出府。
その年の暮れには、長州藩(現在の山口県萩市)の家老・村田清風の誘いで駐槌(滞在してし作刀すること)し、天保15年(1844年)に小諸に帰郷。
さらに弘化2年(1845年)には江戸四ツ谷に移住したよ。
弘化3年(1846年)には、師である窪田清音の一字を貰い、「源清麿」に改名。
江戸に戻り、重要美術品に認定されている「(表)為窪田清音君 山浦環源清麿製(裏)弘化丙午年八月日」の銘がある2尺6寸の豪刀を恩人である清音に贈っているよ。
源清麿は四谷北伊賀町(現在の新宿区三栄町の一部)に定住したことから「四ツ谷正宗」と持てはやされ、自他共に認める天才刀工となっていくの。
四谷に自身の鍛刀場を開設した源清麿は、相州伝と備前伝を融合させた独自の作風を確立させていくよ。
これによって源清麿は南北朝時代~鎌倉時代に活躍した名工・正宗の再来との呼び声が高くなるんだ。
しかし、深川の芸者と駆け落ちしたり、尊皇攘夷運動に参加したりとその後も波乱の人生を送ったんだ。
最後は酒の飲みすぎでアルコール依存症になり、思うように鍛刀できなくなったことを悲観して、嘉永7年(1854年)に割腹自殺をしてしまうの。
42歳という若さだったよ。
次に源清麿の代表作をまとめてみよう。
<源清麿の代表作>
源清麿の代表作として知られているのは、重要美術品に認定されている四口、特別重要刀剣指定の大小(号一期一腰)など。
その中でも源清麿の恩人である窪田清音のために作ったと言われている一口と、静嘉堂文庫美術館所蔵の一口に関しては知名度が高いんだ。
いくつかまとめてみよう。
・刀 銘 山浦環正行天宝十年八月日武器講-百之一
この刀は武器講の販売用として作られた最初の一振り。
南北朝時代の長巻直しに範を取ったもので、刃文は互の目乱れに沸の縞模様が長く走った傑作なんだ。
重要美術品にもなっているよ。
・太刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製/弘化丙午年八月日
山浦内蔵助環が改名して「源清麿」と銘を切った最初の作品。
師である窪田清音が提案した武器講がいやになって長州に逃亡した山浦環が、師・窪田清音にお詫びをするために作刀したと伝えられているのがこの日本刀だよ。
「弘化丙午年」とは弘化3年(1846年)のことで、武器講を行った天保13年(1842年)の4年後に作刀されたんだ。
この刀は堂々とした太刀姿で、刃文は小湾れに互の目交じり、匂深く沸付き、切先は中延びごころなり。
帽子は乱れこんで掃けかかって、秀逸。
【源清麿の作風】
源清麿の作風は、江戸に出てからは「相州伝」に絞って鍛刀を行ない、特に晩年からは左文字を理想としていて、沸本位の大互の目乱または互の目丁子を焼いたよ。
地鉄は柾目肌で豪壮なのに重ねは厚くなく、品格ある姿をしているんだ。
また平地に白髪筋と呼ばれる銀筋が現れるのも源清麿の特徴。
清麿の作品の魅力として、地鉄の面白さと、刀文の躍動感を言う人が多いよ。
【源清麿の豆知識】
源清麿のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<源清麿は愛刀家の憧れ的存在>
源清麿に関する略歴はとても詳しく分かっているんだ。
これほど生涯の略歴が詳細に分かっている刀工は珍しいと言われているよ。
通常、刀工は単なる職人なので、大名家のお抱え鍛冶であっても資料が少ないのが現状なの。
しかし、市井の一刀工である源清麿に関しての資料は非常に多く、詳細に研究されている点からも、源清麿という刀工がいかに人々に愛されている存在であるかを物語っているよね。
<生涯に何度も改銘をした源清麿>
源清麿の本名は、山浦内蔵助環で、その銘を度々変えているんだ。
初銘は「一貫斎正行」と切り、以後「秀寿」、「環」、「正行」などと改銘しているの。
最終的には弘化三年秋から「正行」から「清麿」へと改名。
清麿は亡くなるまで改銘しなかったんだよ。
<源清麿の日本刀は武器講という販売システムで売られていた?>
源清麿の腕前が世に広く知れ渡るようになると天保10年(1839年)には、窪田清音は「武器講」と呼ばれる日本刀の販売システムを考案したんだ。
このシステムは、源清麿が1振を3両(現在の貨幣価値で約39万円)で作り、窪田清音の門下生達に売るという仕組みになっていたの。
依頼があれば源清麿の学びにもなり、門人は大量生産品ではない特注の日本刀を安価で買えるというシステムだったんだ。
窪田清音の門人は旗本(お金持ち)の子息が多かったため、この刀は安いとすぐに評判となったそう。
すぐに100振もの依頼が殺到するんだけど、山浦内蔵助環はすべて作刀し終えないうちに、長州藩(現在の山口県)藩士の重鎮・村田清風の招聘に応じ、萩(現在の山口県萩市)へ赴いてしまったの。
1振3両は当時としても破格の安さであっとと言われていて、手を抜けない性格の山浦内蔵助環はやりきれなかったのか1度逃亡して、師である窪田清音を大激怒させたという
逸話も残っているんだ。
<なぜ源清麿は萩へ出奔したの?その背景には諸説ある>
源清麿の長州藩行きは、通説では、源清麿が窪田静音のもとを出奔(逃げ出して行方不明になること)したと説明されているんだ。
長州萩で2年間を過ごした後、江戸に戻って師・窪田清音に罪を詫びたということが長い間、定説となっているの。
しかし源清麿の生誕200年企画の頃から、清音を裏切り出奔し、詫びを入れるために戻ってきたという定説が否定されるようになってきているんだ。
その根拠をまとめてみよう。
・窪田清音が源清麿を屋敷から出したという説
源清麿が江戸から消え長州藩に行ったのは、御納戸頭の職位にあった窪田清音が天保の改革の原案作成をめぐり羽倉簡堂と論争を起こし、御役御免となって間もない時期であったとされているんだ。
そのため、窪田家の収入が激減してしまい、経済的事情が大きく影響していたのでは?と言われているよ。
経済的に厳しかったため、源清麿を窪田屋敷から出したのでは?という説なんだ。
・長州藩に招かれた説
村田清風記念館で発見された文書の中から、源清麿が村田清風や他の長州藩士に当てた花押、黒印が入った自筆の炭や鋼代金などの受取状が発見されたんだ。、
家老格の重臣が刀を買うくらいだから、逃避行で長州藩に行ったとは考えにくく、二年ほどの滞在だったことから、一から自分の鍛冶場を開いたとも思えないの。
源清麿は萩在住の刀工の誰かに鍛冶場を借りたはずと推測されており、長州藩に招かれたのでは?と見られているよ。
また、村田清風の蔵刀控帳には「江戸より召し下され」とあって、源清麿を名工として特別に招いたことが分かるんだ。
・村田清風から一時期に招かれて萩で作刀していた説
長州藩は天保11年(1840年)から着手した藩政改革の一環として、武術や武器製作技術の向上のために、他の藩から剣槍術師を積極的に招聘していたんだ。
源清麿は窪田清音を通じて藩改革の中心人物であった村田清風から一時的に招かれて、萩で作刀していたのでは?と言われているよ。
<近藤勇の愛刀は源清麿作であった可能性がある?>
新撰組の局長として知られている近藤勇の愛刀と言えば、虎徹が有名だよね。
しかし実は、近藤勇の愛刀は虎徹ではなく、源清麿だったのでは?という説があるんだ。
近藤勇に日本刀を売った刀屋が「近藤勇に源清麿を虎徹と偽って売った」と親族に告白していたと言われているの。
この話が本当であれば、近藤勇の愛刀は源清麿であったことになるよね。
近藤勇は池田屋事件で手紙に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」と書いている通り、激闘したのに刀は折れずに無事だったんだ。
沖田総司など他の剣士の刀は修復不可能なほど折れていたのに、全く折れずに無事だった近藤勇の刀は優れていることがよく分かるよね。
天才として称されていた源清麿の作刀であったこそ激しい戦いでも折れなかったのでは?と言われているよ。
この噂によってより一層、源清麿の人気を高めるきっかけになったんだ。
<源清麿の気になるエピソード>
源清麿には様々なエピソードが残っているんだ。
それらをまとめてみよう。
・美男子であった
源清麿はなかなかの美男子であったと言われているよ。
・18歳で結婚するものの妻子を捨てる
源清麿は8歳のときに旧家・長岡家の婿養子になり長男をもうけたんだ。
しかし、19歳のときに妻子を捨て家出をしてしまうよ。
・源清麿は左利きだった?
源清麿は左利きだったためにヤスリ目の傾きが逆になっているんだ。
・剣術の腕前も相当なものだった?
刀工として名高い源清麿だけど、剣術の腕前も非常に高かったそう。
窪田清音の道場では、代稽古もつとめていたと言われているよ。
・新撰組との関わりが深い?
浪士組で親友の山岡鉄舟とともに取締役となって、新徴組支配を歴任した中條金之助は、窪田清音が門弟である清麿から贈られた刀を懇望。
清音よりその刀をお譲り受けているよ。
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