祢々切丸 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月29日南海太郎朝尊 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月1日
目次
【白山吉光の歴史と概要】
白山吉光(はくさんよしみつ)は鎌倉時代に作られたされる剣で、日本の国宝にも指定されているんだ。
現在は石川県白山市にある白山比咩神社が所蔵しているよ。
この剣の号の由来は、白山比咩神社が所蔵しているため、「白山吉光」の通称で呼ばれるようになったと言われているんだ。
白山吉光の作者は、山城国粟田口派の刀工・藤四郎郎吉光だよ。
吉光は鎌倉中期を代表する刀工で、特に短刀や剣を得意としていたの。
この白山吉光に関しては、藤四郎吉光が短刀と剣の名手であるという世評の根拠になっているんだよ。
次に白山吉光の来歴をまとめてみよう。
<徳川将軍家>
寛永10年(1633年)12月に徳川家光の養女である大姫(清泰院阿智子、水戸藩主徳川頼房の四女)が加賀藩3代藩主・前田光高に嫁いだ際に持参した婚礼道具の1つなの。
そのため、白山吉光は元々徳川将軍家もしくは水戸徳川家が所蔵していたものとされているよ。
ちなみに清泰院は寛永20年(1643年)に長男・綱紀を出産。光高はその2年後の正保2年(1645年)4月5日の茶会の席で突然倒れて急死してしまうの。
<清泰院阿智子死後に白山比咩神社へ奉納>
明暦3年(1657年)に清泰院阿智子が死去した際に、清泰院阿智子の子である5代藩主・前田綱紀が母の冥福を祈って、翌明暦4年に白山比咩神社へ奉納したんだ。
加賀で代々、金工を務めていた水野家の記録によると、享和3年(1803年)7月6日に「参詣之砌白山吉光御拭紙」としてその時の包紙が遺されているの。
このことから、その頃に地鉄を黒くすることによって光沢を出すことを目的とした工程が行われていたことが分かるよ。
<近代>
明治42年(1909年)9月21日に古社寺保存法による旧国宝に指定。
文化財保護法施行後の昭和27年(1952年)3月29日には国宝に指定されたよ。
現在も石川県白山市の白山比咩神社所蔵で、石川県立美術館に寄託されているよ。
【白山吉光の作風】
白山吉光は鎌倉中期を代表する名剣の1つであり、殊に出来栄え、品位の高さ、健全さにおいては比類のない藤四郎吉光の代表作なんだ。
刃長は22.9cm、元幅は2.2cm。
造りは両鎬、両刃造りで、中ほどで幅がやや狭まり、先のあまり張らない細身の剣で、平肉の豊かな姿をしている。
表裏の鎬筋に棒樋を掻き流しているよ。
地鉄は板材の表面ような模様「小板目」が詰んでおり、地沸が細かくつき、地景が入る。
刃文は直刃に小丁子交り、二重刃ごころがあり、小足よく入り、匂深く小沸よくつき、匂口やや締まりごころに明るく冴える。
帽子は鎬に焼き詰めて先は掃きかける。
茎は生ぶ、茎尻は栗尻、鑢目は浅い勝手下がり、目釘孔は一個、表の中央よりやや下寄りに「吉光」と銘を切っているよ。
【白山吉光の豆知識】
白山吉光のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<白山吉光の作者・藤四郎吉光とは?>
白山吉光の作者である藤四郎吉光は、鎌倉時代の刀工・粟田口則国あるいは国吉の子とされているんだ。
山城国粟田口派の刀工の中で最も著名であり、藤四郎吉光は特に短刀や剣の作刀が得意で、名手として知られていたの。
相州伝の基礎を築いた新藤五国光と同じように、短刀の名手として有名であり、吉光と国光はその双璧と讃えられているんだ。
粟田口派は山城国・粟田口(現在の京都市東山区)を拠点として活動しており、粟田口派は地鉄の精緻さにおいて、日本で作刀された刀の全時代、全流派を通じて最高峰とされているよ。
江戸時代初期の刀剣鑑定書「解粉記」を始めとする多くの刀剣書において絶賛されているんだ。
藤四郎吉光は名工の覆い粟田口派の中でも妙手であり、江戸時代中期に8代将軍・徳川吉宗の命で作成された名刀リスト「享保名物帳」において天下三作にその名を連ねていた存在なの。
吉光は実父である国吉と比べると、剣の現存作が稀。
作風は、格式高い雰囲気が持ち味で筍反りの姿である短刀が多く、平肉が豊かで、重ねが厚くなっているところが目立つよ。
また、刃文は沸本位の中直刃を基調としていて、特徴的な小互の目が見られるんだ。
地鉄は潤いが顕著で、小杢目肌と梨子地肌が際立っているの。
白山吉光は、名手の名にふさわしく姿形が極めて美しく、地鉄の出来の良さは他に及ばないほど伝統の良さにあふれていると評されているよ。
<剣とは?>
白山吉光は日本刀の中でも剣に分類するよ。
剣とは両刃の刀のことで、刀身の両側に刃が付けられているんだ。
刀身に反りはなく、形状がまっすぐである武具が「剣」なの。
ちなみに刀は、片刃で刀身に反りがあるのが特徴だよ。
両刃を剣、片刃を刀と区別されるようになったのは奈良時代になってからのことなの。
平安初期になると、剣といえば、僧侶の護持の剣を指すようになっていったんだ。
剣は武家の実用品ではなく、神社の御神体、仏像の胎内に納められたり、仏像の持物である三鈷柄付剣などの刀身や祭祀に用いられたりしたの。
また、高位の高僧や山伏などの僧侶が護持の剣として身につけ、時代が下ると高貴な女性が守り刀として所持していったんだ。
平安時代以降に剣の作がみられるようになり、両鎬造の剣は鎌倉中期以後に多いよ。
山城国では国吉、吉光、来国次、大和では保昌貞吉、備前では光忠、長光、景光、真守、元重などに剣の遺作があるんだ。
剣が刀のように反りがなく、直刀であったのは、切りつける効果がある攻撃「斬撃」よりも、突き刺す攻撃「刺突」を目的とした武具であったことが理由となっているの。
刺突を目的として作られた剣には血抜き溝があり、この溝を彫ることで刀身の軽量化につながるんだ。
また血抜き溝があることで、相手を刺した時に体内の血液を抜いて圧力を下げ、空気を入れて剣を抜きやすくするという効果もあると言われているよ。
剣における血抜き溝は、日本刀でいう「樋」に該当するんだ。
<白山吉光を所蔵す白山比咩神社は白山神社の総本社>
白山吉光を所蔵する白山比咩神社は、富士山、立山とともに日本三霊山の1つである白山を御神体とする神社なの。
白山神社は全国に数多くあるんだけど、その中で白山比咩神社は総本社として、古来より信仰を集めてきたんだ。
白山比咩神社は長い歴史の中で何度も繁栄と荒廃を繰り返してきた歴史があるの。
江戸時代には加賀国を所領した金沢藩主・前田家の手厚い庇護を受け発展したんだ。
<白山で起こった白山論争とは?>
白山比咩神社がある白山は、加賀国能美郡(現在の石川県)と、飛騨国大野郡(現在の岐阜県)にまたがる名山の1つで、古来より山岳信仰の対象として崇められ、富士山、立山と並んで日本三大霊山と称されているんだ。
平安時代には、越前・加賀・美濃の三方面からの修行僧により禅定道が開かれて、その登山口にはそれぞれ越前馬場、加賀馬場、美濃馬場が発展。
越前馬場には平泉寺白山神社、加賀馬場には白山比咩神社、美濃馬場には長滝白山神社がそれぞれ建立されたよ。
その中でも越前馬場にある平泉寺白山神社は最盛期に48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成したんだ。
戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったものの、天正2年(1574年)一向一揆勢に焼き討ちされて衰亡してしまうよ。
そして江戸時代にはそれぞれ再興されるものの、白山嶺上の管理を巡り三馬場間で論争が起きたんだ。
これを「白山論争」と呼ぶの。
白山論争は寺院と馬場だけではなく、それぞれの藩主家も巻き込む領地争いへと発展。
越前(平泉寺白山神社と親藩福井藩)と加賀(白山比咩神社と外様筆頭100万石前田家)の争いは特に激しかったの。
寛政8年(1688年)8月幕府裁定によって白山麓十八ヶ村は幕府領となったよ。
このとき白山山頂が平泉寺領と定められて、白山頂上本社の祭祀権を獲得。
こうして白山論争は終結したんだ。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
刀剣男士と共に―いざ出陣!
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