日本号 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月18日巴形薙刀 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月22日
目次
【御手杵の歴史と概要】
御手杵(おてぎね)は「御手杵の槍」と呼ばれていて、天下三名槍の1つとして広く知られているよ。
御手杵ができたのは室町時代のこと。下総国結城(現在の茨城県結城市)の大名であった17代当主・結城晴朝が作らせた大身槍なの。
作者は駿河国嶋田の鍛冶師・島田義助(五条義助)だよ。
御手杵の最大の特徴は、その巨大な槍身。
全長は一寸一尺(333.3㎝)もあり、槍の中でも特に桁外れのサイズだったんだ。
次に御手杵の来歴をまとめてみよう。
<結城晴朝>
下総国結城の第17代当主である結城晴朝が島田義助に作らせたのが御手杵だよ。
晴朝は、この威風堂々たる御手杵を馬印として誇示していたの。
馬印(うまじるし)とは、戦場で武将が所在を明示するために馬前もしくは馬側に立てた印のことなんだ。
<結城秀康>
その後、御手杵は結城家を継いだ晴朝の養嗣子・結城秀康に伝えられたよ
ちなみに結城秀康の実父は徳川家康なんだけど、羽柴秀吉の養子となった後に結城家に養子となったんだ。
<上野国橋藩主・松平大和守家>
御手杵はその後、結城晴朝の子孫である上野国前橋藩主・松平大和守家の自慢の家宝となるよ。
松平大和守家は、結城秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫にあたるんだ。
松平家では御手杵を非常に大切にしていたと伝えられていて、槍に少しでも錆がつくとすぐに継ぎ研ぎしていたそう。
その度ごとに研師には、十人扶持の加増をしていたと言われているんだ。
同家の象徴としてその名にちなんだ手杵の形をした巨大な鞘が新たに作られ、参勤交代では家格を表す爪折傘とともに藩主の乗り物の所在を示す「馬印」とされていたの。
この鞘は熊毛で覆われていて高さ五尺(約150㎝)、直径一尺五寸(約45㎝)、重量は六貫目(22.5 kg)もあったと伝えられているよ。
道中で雨が降ると熊毛が水を含み、その重量は十貫目(37.5kg)を超えたと言われていて、普通の人間では運ぶのも大変だったと言われているんだ。
また松平大和守家では御手杵の鞘を抜くと雪が降るという言い伝えもあったそう。
江戸時代末期には、その五尺六貫目の巨大な鞘と同じ形の杵形白熊毛鞘が作られたよ。
その杵形白熊毛鞘の所有者は11代将軍・徳川家斉の24男で、松平大和守家と養子縁組し跡継ぎとなった松平斉省だったんだ。
松平斉省は、養子縁組の際に、将軍家より拝領した白熊皮を鞘に仕立てて、江戸城登城の際に用いる自分専用の馬印としたの。
松平斉省は早世したため、この馬印は3年間しか使用されなかったんだ。
3年間という短期間にも関わらず、当時の武鑑や行列絵巻などに馬印が描かれていることから、とても注目を集めていたことが分かるよ。
ちなみに武鑑とは大名や幕府役人のプロフィールを記した紳士録のことなの。
<近代>
御手杵はその後、東京大久保にあった松平家の所蔵庫に移され保存されていたんだ。
昭和4年(1929年)3月日本名宝展覧会では、直基系越前松平家第14代当主・松平直之伯爵が所持。
昭和20年(1944年)5月25日の東京大空襲にて、所蔵庫が焼夷弾の直撃を受け、その中に保管されていた御手杵は焼失してしまうの。
ちなみにその所蔵庫には、鎌倉時代以来の結城氏の古文書や重要美術品認定の式部正宗をはじめとした刀剣など多くの宝物があり、すべて焼失してしまったんだ。
【御手杵の作風】
槍身は刃長四尺六寸(約138㎝)、茎まで合わせて全長七尺一寸(215㎝)と桁外れの大きさだったんだ。
槍は刀身に柄を装着した長さを加えると一丈一尺(約333.3cm)
地鉄は小杢目交じりで、刃文は小乱に光が線状に見える砂流し入り。
穂先の断面は正三角形になっていて、三面に太い樋をかく。
このことからも御手杵は突くための武器であったと分かるんだ。
【御手杵の豆知識】
御手杵のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<御手杵の名前の由来とは?>
御手杵の名前の由来になっている「手杵」とは臼で餅米などをつく時に用いる、中ほどがくびれた太い棒のことだよ。
手杵は元々シンプルな長い棒であったものが、中間部分の握り部分を細く、両端部分を太く加工することで、握りやすくし打撃の威力がますように両頭のものになったと言われているよ。
この御手杵の矛先を鞘に収めた時の形状が、手杵に似ていたことから「御手杵」と呼ばれるようになったんだ。
またこの御手杵という名前が付いた由来には、戦国時代ならではのエピソードが残されているの。
ある戦場で、御手杵の所有者であった結城晴朝は倒した敵の首を十数個、愛槍に突き刺し、担いで帰城の途についていたんだ。
その帰り途中、中央あたりの首級が1つ落ちてしまったの。
その時、槍の姿が持ちをつくための杵「手杵」のように見えたため、手杵形の鞘を付けたんだ。
御手杵の鞘の形状から「御手杵」と呼ばれるようになったの。
<御手杵の作者・島田義助とは?>
御手杵の作者は、駿河嶋田で活動していた刀鍛冶・島田義助だよ。
島田義助は、室町時代中期から江戸時代中期まで代を重ねた刀工一派・嶋田派の4代目なの。
島田義助の技量は極めて高く、御手杵を実際に鑑定した本阿弥光遜(ほんあみこうそん)は御手杵の穂先に刻まれた樋をみて「谷のように深い溝だ」と感嘆したと言われているんだ。
現代の工作機械による切削とは違って、手作業による鍛造による成型で、この樋は極めて高い技量を物語っているんだ。
<天下三名槍「御手杵」の所有者・結城晴朝とはどんな人物だった?>
御手杵の最初の所有者で、島田義助に作らせた人物と言えば、下総国結城の第17代当主・結城晴朝だよ。
結城晴朝は天文3年(1534年)に下野国(現在の栃木県)の戦国武将・小山高朝の三男として誕生。
その後、結城氏当主であった叔父・結城政勝の養子となるんだ。
永禄2年(1559年)政勝の死後、家督を継いだ結城晴朝は、実父・小山高朝との「親子之好」を切るという起請文を作成して古河公方の使者・瑞雲院周興に提出したとされているよ。
しかし、翌年の永禄3年には、上杉謙信が関東出陣をすることになり、事態は一変してしまうんだ。
上杉謙信は、古河公方の補佐役である「関東管領」に任命されるものの、これを決めたのは、義氏の兄・足利藤氏だったの。
本来であれば、関東管領を任命するのは、古河公方である義氏の職権だったんだ。
晴朝は、結城氏を存続させるために道を探るようになるよ。
結城氏は、反北条勢力として、北条氏と上杉氏の巨大勢力の狭間を渡っていくことになるんだ。
<天下三名槍の中で唯一現存しない御手杵>
御手杵は日本号、蜻蛉切と並んで天下三名槍として知られているよね。
天下三名槍は、数ある槍の中で特に優れた誉れの高い三振りであり、「天下三槍」と呼ぶこともあるよ。
江戸時代には、日本号とこの御手杵が、「西の日本号、東の御手杵」と称されていた強靭な槍だったの。
そこに蜻蛉切も加わってからは「天下三名槍」と呼ばれるようになったんだ。
しかし残念なことに御手杵は現存していないの。
天下三名槍の中で日本号と蜻蛉切は現存するものの、御手杵は長らく東京で保管されていたものの、第二次世界大戦時の東京大空襲で所蔵庫が焼夷弾の直撃を受けてしまい、他の宝物とともに焼失してしまったんだ。
この時、保管していた当主は留守の間に家臣たちへ「戦火を避けるために地面に埋めるように」と申しつけていたの。
しかし家臣たちは「お家の宝にそんな扱いはできない!」と頑なに申し入れを聞かず、結局は大空襲で焼けてしまうんだ。
また所蔵庫であった土蔵は湿気を抑えるために木炭が敷き詰められた造りで、それが焼夷弾の炎によって燃え上がり、所蔵庫内は溶鉱炉のようになったのだろうと推測されているの。
戦後になって、焼け残りを光遜のもとに持ち込んで御手杵の復元を依頼したものの、ただの鉄塊と化していた御手杵の復元は不可能だったんだ。
<模擬刀によって復元された御手杵>
御手杵は東京大空襲によって焼失してしまったものの、模造による復元がされているんだ。
御手杵のレプリカはいくつもあるので、それぞれまとめてみよう。
・茨城県結城市所蔵品のレプリカ
平成14年(2002年)に、郷土史研究家の塚本昭一氏と静岡県島田市の有志により最初の復元が図られたよ。
その当初はさほど注目されず、少ない現存資料からの復元だったんだ。
この復元によってその後全国各地での御手杵の復元や研究の呼び水となったと言われているよ。
平成15年(2003年)、完成した復元品は柄の長さが243cmで、結城氏初代・朝光の没後750年祭にあわせて島田市から茨城県結城市に贈呈されたの。
この御手杵のレプリカは、復元品の中で唯一、拵えに鍔を備えているんだ。
当初の鞘は代用として牛毛皮によるものだったのが、平成27年(2015年)10月、資料に伝わる黒熊毛皮の鞘が完成。
この鞘も島田御手杵槍顕彰会が結城市へ寄贈したよ。
その後、島田市での展示を機に牛毛皮鞘は島田市の制作者の元へ返還されたんだ。
平成29年(2017年)には静岡県島田市博物館で日本号写し・蜻蛉切と共にこの御手杵写しも展示されたよ。
現在、茨城県の結城市内にある結城蔵美館で展示。
・埼玉県東松山市展示のレプリカ
平成27年(2015年)に、前橋藩の飛び地・松山陣屋があった縁からレプリカ制作を実施。
東松山市の比企総合研究センター代表の・高島敏明氏が、御手杵の詳細な寸法が判明したとして、島田鍛冶の流れをくむ静岡県菊川市の復元者に依頼。
制作された御手杵の復元は、埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社に奉納されたよ。
平成29年(2017年)4月には形状を改めた2本目の御手杵の模造品を制作。
・群馬県前橋東照宮所蔵のレプリカ
平成28年(2016年)4月17日、松平大和守家17代当主・松平直泰によって復元品が作成されたよ。
この復元品は、徳川家康薨去400年の東照宮祭禮において松平大和守家所縁の群馬県前橋東照宮に奉納。
松平大和守家に伝わる写真と古文書から、御手杵の寸法を正確に割り出して、1945年に焼失した御手杵とほぼ同寸としているの。
現在も前橋東照宮にて常設展示されているよ。
・川越城本丸御殿(川越市立博物館)所蔵のレプリカ
川越藩火縄銃鉄砲隊保存会の主催者によって復元。
川越市立博物館が保管している「松平大和守侯行列図巻」などの史料を元に、黒熊毛鞘のみが復元されたの。
結城市や東松山市で復元された熊毛鞘は胴体に直接毛皮を貼り付けた造りだったのに対し、川越の復元は木型に熊毛を植えつけた造りで、本来の製作方式なんだ。
例年、川越春まつりで行われる「甲冑武者時代行列」の行列先頭に御手杵の復元が掲げられるよ。
川越市川越城本丸御殿にて常設展示されているんだ。
<鍛造の写しによっても復元された御手杵>
御手杵の復元は数多くされているんだけど刃のない模造刀でしか叶っていなかったの。
そこで、群馬県前橋市内の有志たちは刀工である上林恒平・高橋恒厳師弟へ鍛造による真剣での御手杵の復元を依頼したんだ。
平成30年(2018年)4月に御手杵の復元は完成し、第2回前橋藩主・松平大和守家顕彰祭にあわせて臨江閣別館で公開されたよ。
鍛造の写しによって復元された御手杵は、大正期と昭和初期の書籍に残る写真画像から考証して復元したんだ。
身幅は約2.6cm、槍身(刀身)は約140.5cm。
また白熊毛鞘も復元し同時公開されたよ。
この白熊毛鞘は川越藩火縄銃鉄砲隊保存会の主催者によって江戸時代の製作法を考証し製作されたものなの。
朴の木の芯に桐材の杵形を組み合わせて、それに和紙を貼り、白熊毛を植え付けた造りになっているよ。
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