白山吉光 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月29日肥前忠広 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月10日
目次
【南海太郎朝尊の歴史と概要】
南海太郎朝尊(なんかいたろうともたか)は日本の刀工で、幕末期に京都、土佐などを中心に活躍したんだ。
号は南海太郎、本名は森岡友之助と言うよ。
文化3年(1806年)に土佐国高岡郡黒岩村(現在の高知県佐川町)に生まれるよ。
父・森岡善右衛門は大鋸鍛冶(林業などで用いるために大材から板を挽く大型の鋸鍛冶)をしており、朝尊も当初は家業を継いでいたそう。
やがて刀剣に興味を持つようになり、自己流で短刀を造るなど作刀を行い中々の評判であったと言われているの。
文政年間には刀工として転身することを決意し、転身に反対していた妻と離別した上で、京都へ上ったんだ。
上洛後には伊賀守金道に作る技術を学んだのちに、江戸の水心子正秀に師事。
伊賀守金道の後見役や公卿でありながら鍛刀に興じていた千種有功の相槌役など、貴人などの交流も行っていたよ。
天保年間(1831年~1845年)に独立して、湯島天神(現在の湯島天満宮:東京都文京区)の近くに住んで作刀していたの。
そこでは多くの門弟を受け入れ、師である水心子正秀が唱えた復古刀論に基づいた鍛刀法を伝授することに尽力していたよ。
また、安政5年(1858年)には土佐へ帰郷して、黒岩村二ツ野鈴原で鍛刀を行ったんだ。
そこでは朝尊の甥である森岡亦次郎や土佐藩家老堀尾家家臣で佐川の古沢義正にその技法広く伝えていったよ。
南海太郎朝尊が鍛刀のために利用していた井戸は劔井と呼ばれていて、現在は工房の跡地と含めて佐川町の町指定史跡となっているんだ。
【南海太郎朝尊の作風】
刀身に彫りではなく「焼き」で梵字を表した、驚きを隠せない技法が特徴。
刃文と同時に焼き入れをしたと考えられていて、非常に難易度が高い技法になっているんだ。
水心子正秀と東西の双璧と称されていた南海太郎朝尊ならではの高い技術と理論は、多数の弟子へと伝えられたんだ。
表銘「朝尊」、裏銘「天保四年十月日」の作刀は、平造りの体配で脇差というよりも寸延び短刀の風情があるよ。
湾れ互の目で、刃文は匂口締まり繊細になっている。
地鉄は小板目肌よく詰み、表に七文字、裏に一文字の梵字を焼いているよ。
帽子は尖って返り、その返りは二寸近い。
茎は状態の良い生ぶ茎で、独特のタガネは朝尊によくみられるんだ。
思わず梵字ばかりに目がいってしまうけれど、地刃共にとても上手で欠点はなし。
拵も豪華極まりなく、楓の葉をそのまま埋め込んだかのような写実的な蒔絵鞘がみられるよ。
朝露を表すかのごとき銀片を散らし、間を取り、金具は五三桐紋で、金地と赤銅の色味も良く、拵だけでも相当な価値があるんだ。
また南海太郎朝尊の初銘は「友尊」や「朝高」であり、後に「朝尊」「朝尊造 」「山城国西陣住朝尊」「土佐国住人権守朝尊 」「森岡朝尊作 」「山城国幡枝寓朝尊」などの銘も切っているんだ。
南海太郎朝尊は優れた理論家であった一方で、実際の作品はその通りにはなっていないと言われていて、刀剣研究家・常石英明は、同時代の水心子正秀や源清麿の作品と比べると南海太郎朝尊の作刀は相当劣るとも言われているんだ。
【南海太郎朝尊の豆知識】
南海太郎朝尊のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<新々刀の代表的な刀工であった南海太郎朝尊>
南海太郎朝尊は新々刀の代表的な刀工として知られているよ。
この新々刀とは、江戸時代後期の1781年(安永10年/天明元年)~1876年(明治9年)まで、100年弱の間に作られた刀剣のこと。
新々刀は古代の作刀方法にこだわって、新刀の時代に求められていた芸術性から、武具の役割を果たしていた時代の実用性に立ち返って作られているんだ。
新々刀が制作されるようになった時期は諸説あるものの、1781年(安永10年/天明元年)、江戸幕府10代将軍・徳川家治の時代。
その当時、戦いはほとんどない太平の世となっていたため、刀剣は実際の戦いで武具として用いるために必要とされる「実用性」が失われていたの。
その代わりに刀工の技術的な工夫を発揮した、美術品の側面も併せ持った作刀が主流となっていたんだ。
そのため南北朝時代から室町時代初期に作られていた古刀で使われていた品質の高い「玉鋼」を作る技術は衰退。
この時期に作られた刀剣は、古刀の時代に比べると頑丈さや実用性に欠けていたと言われているの。
このような流れに異を唱えて、古刀の力強さを復活させようとした刀工が江戸で活躍していた「水心子正秀(すいしんしまさひで)」なんだ。
復古刀論と呼ばれる彼の考えに共鳴した刀工たちが弟子入りを志願するために全国から水心子正秀の元へ集まったと言われているよ。
南海太郎朝尊もこの水心子正秀の唱える復古刀論に賛同し、各地に出向いて復古刀の鍛錬法を広めて、水心子正秀と同様に多くの弟子を育てたんだ。
新々刀が広まったのは幕末の動乱期で、古刀の時代のように、戦いが始まりそうな不穏な空気が流れていたの。
そのため刀剣にも実用性が求められ、新々刀がより発達していくよ。
勝海舟も、水心子正秀の作刀を愛刀としていたと言われているんだ。
ちなみに新々刀が終わった時期は明治9年(1876年)廃刀令が出された年とされているよ。
これによってそれまで作られてきた刀剣の流れは断たれ、現代に続く現代刀に継承されていったんだ。
<新々刀の特徴とは?>
新々刀の特徴と言えば、失われてしまった玉鋼の鍛え方を復活させて、より実用的な形状にした点だよ。
昔の状態や体制に戻す「復古」という考え方が、新々刀のキーワードとなっているんだ。
新々刀の時代における作刀は、製鉄技術が発展していたために地鉄が美しくなっていたの。
その一方で、古刀に比べると焼き入れ技術が低下しており、刃文の美しさはそれほどでもなくなってしまっていたんだ。
水心子正秀が唱えた復古主義の影響によって、古刀期である鎌倉時代、南北朝時代の慶長新刀の写しが流行したよ。
新々刀ではそれまでに見られた優しい姿から一変して、長い切先と広い身幅、さらには反りがある力強く立派な姿に移行していったんだ。
また、新々刀期には新刀期にはほとんど作られていなかった短刀が再び作られるようになったことも特徴なんだよ。
<南海太郎朝尊に影響を与えた復古刀論を唱えた水心子正秀とは?>
南海太郎朝尊は名工・水心子正秀の唱える復古刀論に賛同して、各地に出向いて復古刀の鍛錬法を広めていったよ。
南海太郎朝尊に大きな影響を与えた刀工・水心子正秀とはどのような人物だったんだろう?
水心子正秀(すいしんしまさひで)は寛延3年(1750年)に出羽国に生まれた刀工なんだ。
本名は鈴木三治郎と言い、安永3年(1774年)に山形藩藩主・秋元家に召し抱えられて「水心子」と号したよ。
水心子正秀は、古刀時代に名刀を作った刀工の子孫たちから直接話を聞きに行き、失われてしまった作刀技法について熱心に研究していたそう。
さらには、刀工「正宗」の子孫にあたる刀工に弟子入りをして、秘伝書を授けられるほど貪欲に学んだんだ。
熱心に学んだことによって、新々刀の様式を生み出すまでに至ったんだよ。
水心子正秀は、文政8年(1825年)に76歳で亡くなるまでの間、369振りもの刀剣を自らで作ったんだ。
その一方で教育者としても優れた才能を発揮し、数十人の弟子を全国に送り出し、新々刀を世に広めたよ。
水心子正秀は新々刀の生みの親として、その時代の刀剣を語る上では、欠かすことのできない名工なんだ。
<作刀だけではなく刀剣研究にも熱心な南海太郎朝尊>
南海太郎朝尊は作刀だけではなく刀剣研究にも熱心だったんだ。
「刀剣五行論」「宝剣奇談」「新刀銘集録」などいくつかの著書も残しているの。
また、南海太郎朝尊は江戸の水心子正秀が唱えた復古刀論に同調し、復古鍛錬法の教授のために諸国を回ったよ。
多くの門人を輩出した教育家としての側面も持っているんだ。
刀剣理論に基づいた刀工の教育者としての評価は、江戸・水心子正秀と比較されて「東西の双璧」とも称されていたよ。
さらに晩年には山城国幡枝(現在の京都市左京区岩倉)に居を構え、作刀の傍ら剣術を教えていて、「気心流」という流派を自ら立ち上げて開祖を称していたんだ。
<南海太郎朝尊作の刀を所持していた著名人とは?>
南海太郎朝尊の刀は歴史上の著名人が数多く愛用していたんだ。
南海太郎朝尊の刀を所持していた著名人をまとめてみよう。
・武市半平太
武市半平太は万延元年(1860年)7月より、同門の岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内らを連れて九州で武者修行を行っていたの。
岡田以蔵は修行からの帰途、武市半平太らを先導する形で先に土佐国西端にある宿毛へ立寄っているんだ。
岡田以蔵はしばらく宿毛の地に留まり、地元の侍たちに剣術の稽古をつけていたんだ。
その後、遅れて武市半平太も武者修行の帰途に宿毛へ立寄り、数日間滞在して多くの宿毛の侍たちと交流。
その宿毛滞在時に南海太郎朝尊の刀を購入したと言われているよ。
・安藤早太郎
安藤早太郎は新撰組で副長助勤を務めていた新撰組隊士だよ。
この安藤早太郎も南海太郎朝尊作での二尺五寸の刀を持っていたんだ。
その刀には文政9年(1826年)9月の銘が入っていたとされており、池田屋事件の死闘によって物打の辺りから折れていたという記録が残っているよ。
なお、安藤早太郎は池田屋事件で負った怪我がもととなり、事件の2週間後に死去しているんだ。
<南海太郎朝尊は後醍醐天皇第一皇子である尊良親王の17代孫?>
南海太郎朝尊は刀剣著書「新刀銘集録」においては、出自について鎌倉時代後期から南北朝時代諸島の大覚寺統の皇族で、後醍醐天皇第一皇子である尊良親王の17代孫を称しているよ。
南海太郎朝尊が系図屋に造らせた系図によると、土佐へ配流された尊良親王から森岡氏が発し、その後長宗我部氏に仕えるようになり、代々鍛冶を営むようになったといわれているの。
しかし、南海太郎朝尊は初期の作刀において、藤原姓で銘を切っている物があるので、尊良親王が出自という記録は疑わしいとされているよ。
<南海太郎朝尊から代々刀工が続く>
南海太郎朝尊の子である朝良は、父・南海太郎朝尊に続いて作刀をしていたの。
なんと朝良は8歳にして父・南海太郎朝尊との合作を行っていて、11歳では短刀を作り上げて「虎丸」と銘を切っているんだ。
朝良はとても早熟で、優れた刀工であったものの、明治14年(1881年)頃に35歳にて早逝。
その後、朝良の子で南海太郎朝尊の孫にあたる森岡正吉氏が刀工の道に進み、宮本包則や月山貞一に師事していたよ。
また、森岡正吉氏の甥(南海太郎朝尊の曾孫)にあたる森岡俊雄も刀工となっていて、刀身彫刻の名人・笠間一貫斎繁継に学び、人間国宝・高橋貞次の門人となって、南海太郎正尊という名前で活躍していたよ。
南海太郎朝尊から代々刀工として活躍しているんだ。
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