南海太郎朝尊 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月1日北谷菜切 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月10日
目次
【肥前忠広の歴史と概要】
肥前忠広(ひぜんただひろ)は岡田以蔵が愛用していたとされる日本刀(脇差)だよ。
またこの脇差を作成したのは、この刀と同じ名前の刀工・肥前忠広なんだ。
肥前忠広は江戸時代に肥前佐賀藩(現在の佐賀県)を中心に活躍した刀工で、初代肥前忠広(忠吉)にあたる肥前忠吉が最も有名だよ。
初代肥前忠広から江戸時代末期まで9代にわたって同名を用いた刀工が存在したんだ。
次に肥前忠広の来歴をまとめてみよう。
肥前忠広に関しては岡田以蔵の愛刀であることがよく知られているけれど、岡田以蔵に渡った経緯については3つの説があるんだ。
それぞれまとめてみよう。
・坂本龍馬から岡田以蔵へ
坂本龍馬が土佐藩を脱藩する時に、龍馬の姉・栄から龍馬に贈られたのがこの肥前忠広だったんだ。
それを龍馬が岡田以蔵に贈ったと言われているよ。
・坂本龍馬の兄・権平から岡田以蔵へ
坂本龍馬の姉・乙女が兄・坂本権平に贈ったとされる刀が肥前忠広で、それを岡田以蔵に譲ったと言われているよ。
・坂本龍馬→河原塚茂太郎→武市半平太→岡田以蔵
坂本竜馬が脱藩するときに、親友であった河原塚茂太郎に贈ったよ。
この刀はその後、武市半平太を経て、人斬り以蔵こと岡田以蔵の手に渡ったんだ。
<岡田以蔵>
岡田以蔵へ渡った肥前忠広は、本間精一郎暗殺の際に、その切先(物打ち)折れて、破損してしまうんだ。
折れてしまった断片を平井収二郎は短刀に改作したそう。
平井収二郎が藩命によって処刑されるときに、同じ獄中の井原応輔に密かに残していったと言われているよ。
その後「靖国神社遊就館」に展示されていた時期もあったんだけど、現在、肥前忠広の行方は不明になっているの。
【肥前忠広の作風】
刃長は2尺3寸(約69.7cm)
肥前忠広は行方が分からなくなっており、その詳細については不明な点が多いんだ。
樋入り刀身と赤飛沫塗鞘、彫金貼りの鍔だったよ。
また鍔には赤と茶を基調とし龍が描かれていたそう。
【肥前忠広の豆知識】
肥前忠広のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<肥前忠広の作者・肥前忠広(忠吉)とは?>
江戸時代に活躍した肥前忠広は9代にわたって存在するよ。
岡田以蔵の愛刀である肥前忠広は、初代忠広の作ではないか?と言われているんだ。
慶長(1596~1615年)ごろから寛永(1624~1644年)ごろまで作刀を残していて、その後、幕末まで続いたよ。
名工といわれるものも数多く輩出した家柄で、特に秀でた刀工としては初代肥前忠広、二代目近江大掾忠広、三代目肥前忠吉などがいるの。
ここでは代々の肥前忠広についてまとめてみよう。
・初代・肥前忠広
初代忠広は、本名を橋本新左衛門として肥前国長瀬に生まれたよ。
生家は少弐氏の流れを汲む龍造寺隆信に仕える武士であったけれど、天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いで、仕えていた龍造寺家が滅亡。
祖父盛弘と父道弘の両方が亡くなってしまうんだ。
新左衛門は当時13歳で、主家と父祖を亡くしたために武士として生きることができなくなってしまうよ。
そこで、やむなく一族で刀工へと転身したという経緯があるんだ。
初代忠広は刀工名を忠吉と称して鍛刀技術を磨き、加藤清正のお抱え鍛治であった田貫善兵衛の弟子になるよ。
慶長元年(1596年)には山城国(現在の京都府)の埋忠明寿を師として、多くの作品を残したよ。
制作の時期によって、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれていて、「肥前国住武蔵大掾藤原忠広」「肥前国藤原忠広」などの銘もあるんだ。
刀剣は、最上大業物、大業物、良業物、業物とランク分けされているんだけど、初代忠広は業物の最上級ランクとされる最上大業物13刀工の1人でもあるの。
・二代目忠広
初代忠広の死後も、忠広一門は江戸時代を通じて佐賀藩主・鍋島家の御刀鍛冶として幕末まで100人を超える刀工を輩出したよ。
そのため、「肥前国鍛冶」「肥前国忠吉一類」などと呼ばれていたんだ。
また、刀の切れ味で刀工たちの番付を決めた「懐宝剣尺」という刀剣書では、最高の切れ味を誇る最上大業物を作る刀工として、選ばれた12名のうち初代忠吉など忠広(忠吉)一門から3名も輩出しているの。
二代目も父である初代忠広と同じく傑出した刀工とされ、大業物として数えられているんだ。
二代目忠広は「近江大掾藤原忠広」「肥前国忠広」などと刻銘したと確認されているよ。
また、二代目は長寿であったために、歴代の忠広の中でも最も多くの作品を残しているんだ。
・三代目忠吉
三代目肥前忠吉も初代忠広の子であり、最上大業物の1人に数えられているよ。
三代目肥前忠吉は初代につぐ名工とされているものの、50歳で早逝していることや、父や二代目忠広の作刀を手伝うことが多かったために現存する作品は多くはないんだ。
・四代目忠吉
四代目忠吉は三代目の嫡男。
三代目の死後に、父の通称であった新三郎を名乗るよ。
・五代目忠吉
四代目忠吉の嫡男で、通称は新左衛門。はじめは忠広を名乗っていたものの、四代目忠吉の死後に忠吉を襲名。
・六代目忠吉
五代目忠吉の次男で、兄が早逝したため六代目を継いだよ。
はじめは忠広を名乗り、五代目忠吉の死後に忠吉と新左衛門を襲名。
・七代目忠広
六代目が死去後すぐに病没してしまったため、忠吉を襲名していない。
・八代目忠吉
元は鍋島藩・古川家の次男として生まれる。
七代目に実子がいなかったため、橋本家に入り忠吉および新左衛門を襲名。
藩の大砲製造方に任命され、藩の近代化に大きく貢献した1人。
・九代目忠吉
八代目忠吉の嫡男で、作風も八代目に酷似しているのが特徴。
その技量は名工と評された初代、二代、三代目に迫るほどの腕前だったと言われていて、歴代忠広の中でも出色と評されているんだ。
ただ明治時代に入っていて廃刀令を受けて廃業してしまったために現存する作品は少ないの。
そのため、九代目忠吉の存在はあまり知られていないんだよ。
<肥前忠広作の刀を所持していた岡田以蔵>
肥前忠広作の刀を所持していた著名人として知られているのが岡田以蔵だよ。
岡田以蔵が所持していた肥前忠広作の刀は、元々は坂本龍馬の刀だったんだけど、龍馬が脱藩する際に雨に濡れないようにその刀を油紙に包んで持ち出したとされているんだ。
さらに「維新土佐勤王史」によると、坂本龍馬は道中に金銭に苦労したことから、刀の外装をいくつか売り払ったそう。
京都で再会した大石弥太郎からは、その外見を怪しまれ「縁頭を売りて旅費にしたり」と打ち笑ったという逸話が残っているよ。
また岡田以蔵の師匠にあたる武市半平太も初代忠広の門人である河内大掾正広作の刀を所持していたとされているよ。
<岡田以蔵は「人斬り以蔵」と呼ばれていた?>
肥前忠広を愛刀していた岡田以蔵は「人斬り以蔵」と呼ばれていたんだ。
それは天誅と称して、次々と暗殺を繰り返したことが所以となっているんだけど、同志の間では「天誅の名人」ともいわれていたそう。
ここでは岡田以蔵が関与したと言われている暗殺事件をいくつか紹介してみよう。
・井上佐市郎の暗殺
岡田以蔵が「人斬り以蔵」と呼ばれるほど暗殺を重ねていく始まりとなったのが、分久2年8月2日の井上佐市郎暗殺だよ。
公武合体派であった吉田東洋が、尊皇攘夷派の土佐勤王党の志士であった那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に暗殺されたんだ。
この暗殺事件について取り調べていた土佐藩下目付けの井上佐市郎を暗殺したメンバーが岡田以蔵だったんだよ。
岡田以蔵の他にも、久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎が暗殺したメンバーにはいたんだ。
岡田以蔵に暗殺された井上佐市郎に同行していた岩崎弥太郎は難を逃れたの。
その後、岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者となるよ。
・本間精一郎の暗殺
本間精一郎は、越後国出身で特定の藩に属さなかったため、常に疑われて敵も作りやすかったそう。
攘夷督促勅使を推進し勤王党の間で対立があったとも、幕府と通じているのではないかと疑われたともいわれているの。
この本間精一郎を暗殺したのが、岡田以蔵、平井収二郎、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、弘瀬健太、田辺豪次郎、田中新兵衛だよ。
ちなみに田中新兵衛は「薩摩の人斬り」と呼ばれた人物で、岡田以蔵とともに有名な暗殺者だったんだ。
・宇郷重国の暗殺
宇郷重国は前関白九条家の諸大夫だったんだ。
安政の大獄の際に、同じ九条家の侍臣・島田左近と共に志士弾圧を行い、和宮様の降嫁推進にも関わっていたの。
それによって攘夷派志士から目をつけられ、九条家河原町御殿に潜伏中に殺されたんだ。
宇郷重国を殺したのは、岡田以蔵、岡本八之助、村田忠三郎、堤松左衛門だったよ。
・文吉の暗殺
安政の大獄の際に、島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明であった文吉。
また文吉は島田の高利貸しの手伝いもしていて、法外な利益を得ていたとされているんだ。
このようなことで文吉は志士たちから恨みを買っていたと言われているよ。
文吉を暗殺したメンバーは岡田以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人。
暗殺の際には「斬るのは刀の穢れになる」として細い紐で絞殺されたそう。
<岡田以蔵と坂本龍馬は幼馴染だった?>
岡田以蔵に肥前忠広を贈ったとされる坂本龍馬。
2人は幼馴染であったと言われているよ。
岡田以蔵の恩人と言われている土佐勤皇党の武市瑞山と坂本龍馬の坂本家は遠い親戚関係だったんだ。
そのことから、岡田以蔵と坂本龍馬は幼い頃から知り合いだったのでは?と言われているの。
また別の説では、岡田以蔵が江戸で武市瑞山が師範を務める桃井道場で修行中に、千葉道場で修行中であった坂本龍馬と出会ったとも言われているんだ。
ただその後、岡田以蔵は主に京都で武市の命のもと暗殺を繰り返していて、一方の坂本龍馬は神戸や江戸で活躍していたため多くの接点はなかったのでは?とされているよ。
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