髭切 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年3月30日大倶利伽羅 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年4月5日
目次
【膝丸の歴史と概要】
膝丸(ひざまる)は髭切とともに代々源氏に伝わる日本刀だよ。
「平家物語」の「剣巻(つるぎのまき)」などの伝承で語られている太刀で、源義経やや曾我兄弟の仇討ちとの縁も深いんだ。
膝丸は髭切と同様、所有者が変わるたびに何度も改名が繰り返されているの。
どのように名前が変わっていったのかその変遷をまとめてみよう。
<膝丸>
膝丸は髭切とともに源満仲が刀鍛冶に作らせた日本刀。
60日間かけて鍛えさせてできた、2尺7寸の太刀である膝丸と髭切は2対ワンセットの名刀なの。
この膝丸の出来にたいそう喜んだ源満仲は、試し切りとして人を斬ったんだ。
その刀の一振りは首を落とした時に髭を1本も残さずに切断したため「髭切」と名付けられ、もう1つの刀は一振りで膝のあたりまで斬り下げたので「膝丸」と名付けられたの。
源満仲が所持していた際には膝丸と呼ばれていたよ。
<蜘蛛切>
源頼光が所持していた時、頼光は原因不明の熱病で苦しんだんだ。
病に倒れた頼光の枕元に立てかけていた膝丸で、熱病の原因となった「土蜘蛛」を切ったことから膝丸から「蜘蛛切」に改名されたんだよ。
<吼丸>
源為義の手元にあった蜘蛛切は、娘婿であった熊野別当教真に譲られ、熊野権現に奉納。
さらのその後、熊野別当湛増の手に渡ったよ。
この刀は、夜に蛇が鳴くような声で吠えたことから蜘蛛切から「吼丸」と名前が改名されたの。
髭丸は当時「獅子の子」という名前で、吼丸(膝丸)と2対ワンセットであったものが、所持者が別々になってしまうんだ。
獅子の子を所持していた為義は、一振りでは寂しいとなり、吼丸の代わりの刀として「小鳥」が作られたよ。
<薄緑>
熊野別当湛増から源義経の手に渡った吼丸は「薄緑」に改名されたよ。
この名前は熊野の春の山にちなんで改名されたと言われているんだ。
ちなみに熊野別当湛増は、武蔵坊弁慶の父親と言い伝えられているの。
元々湛増は平家方だったものの、後に源氏方に付き、壇之浦の戦いでは熊野水軍を率いて参戦。
その湛増から源義経に刀が譲られ、それを喜んだ義経が「薄緑」と改名したんだ。
その後、義経は薄緑を箱根の権現に寄進。
そして、箱根の権現から源頼朝の元に戻されたんだ。
最終的に髭切も膝丸も二振りとも、源頼朝の元に戻ったよ。
膝丸の作者については筑前正応、筑後光世、奥州文寿、宝寿など複数の説があるの。
筑前国三笠郡土山の異国から来た鍛冶という説もあるよ。
現在、京都の大覚寺に重要文化財である薄緑が、神奈川県の箱根神社には「薄緑丸」が収蔵されているんだ。
【膝丸の作風】
膝丸だと伝えられる刀剣はいくつかあるんだ。
それぞれの作風をまとめてみよう。
<京都・大覚寺所蔵の薄緑(膝丸)>
京都・大覚寺所蔵の薄緑は重要文化財に指定されているよ。
太刀に付属する「薄緑太刀伝来」によれば、安井門跡に代々伝わっていたもの、明治維新後、門跡が廃された後に大覚寺に移されたの。
茎の上部には「□忠」と銘が切られていて、1文字目の□部分は大きく破損しているためなんと銘が切られていたのか、判読不明なんだ。
この破損に関しては、刀身を造った時の共哲で作られたハバキの影響とされるよ。
目釘穴の上の方に銘が切られているのは、古備前派刀工の作品によくみられる特徴で、長船派の祖である光秀の父・古備前派近忠か同派の実忠、家忠によって作られたのではないか?と推測されているんだ。
ただ古備前派近忠には在銘確実な作例が現存していなくて、薄緑の作風や銘振の比較ができないため、決定力に欠けているの。
この薄緑は刃長87.6㎝、反り3.72㎝。
地鉄はよく詰んだ小板目肌で、直調に小足の入った小丁子、小互の目交じりの刃文に淡く映が立つ。
薄緑が入っていた刀箱は菊と桐の飾り金具が付いた約160㎝の箱。
2020年に勧進によって刀箱とハバキを新調しているよ
<神奈川・箱根神社所蔵の薄緑丸>
箱根神社が所蔵している薄緑丸も、薄緑(膝丸)なのでは?と言われているよ。
「箱根山略縁起」によると、源義経は箱根権現に奉納した後、別当行実が曽我兄弟の仇討ちにこの薄緑丸を貸し与え、その後、頼朝の渡った薄緑丸は改めて箱根権現に奉納したとされているの。
箱根神社の社伝によれば、この薄緑丸は三条宗近作の太刀と言われているよ。
この太刀は無銘で、刃長76.5m、反り2.4㎝。
<丹波宮津藩主・本庄家に伝来した、銘・長円の薄緑>
丹波宮津藩主・本庄家に伝来した銘・長円の薄緑も、源氏由来の膝丸では?と言われているよ。
本庄家2代目の本庄資俊が元禄15年(1702年)9月12日に、5代目将軍・徳川綱吉の御成の際に拝領した刀で、元禄10年(1697年)の金100枚の折り紙付き。
本庄家では享保7年(1722年)に本阿弥家へ鑑定に出したところ、3,000貫の折り紙が付いたそう。
この薄緑は長さ73.6㎝、刃長63.6㎝、反り約2.6㎝。
本造りで庵棟、地鉄は板目肌に地沸えつき、刃文は中直刃に互の目まじりに沈む。
擦りあげて短くされていて、佩表に素剣、裏に梵字の彫り物が残っているものの、茎に隠れているよ。
また、銘の部分を切り捨てずに折り返し銘になっているために、「長円」の二字が逆になっているんだ。
擦りあげる前は三尺近く、二尺七、八尺あったと見られているよ。
薄緑の作者である長円は、永延頃に活躍していた刀工で、銘が切られている太刀は非常に少なく、平安時代作と鑑定されるものは非常に希少なんだ。
【膝丸の豆知識】
膝丸のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<蜘蛛切という名づけの由来となった山蜘蛛退治のエピソード>
源頼光の手に渡った膝丸は「蜘蛛切」という名前に改名されたんだ。
その改名の理由が、膝丸で山蜘蛛を退治したからなの。
これは膝丸にまつわる逸話としてとても有名なんだよ。
源頼光には四天王と呼ばれる有能な家臣が4人いたの。
当時、源頼光は原因不明の熱病に悩まされていて、四天王が頼光の看病にあたっていたんだ。
頼光の状態が落ち着いたある夜、詰所で休んでいたところ、頼光の元に背が2m以上ある法師が歩み寄って縄をかけようとしたそう。
寝ていた頼光は驚いて飛び起き、「何者だ!」と叫んで、枕元に置いてあった膝丸で法師を斬りつけたの。
すると、2mもの大柄な法師の姿はたちまち消えてしまったそう。
騒動を聞きつけてやってきた四天王に頼光はその話をすると、四天王は燭台の下に血がこぼれていたのを発見。
四天王たちはその血痕後を追ってみると、北野(現在の京都府京都市)の裏に大きな塚がある場所で血が途絶えていたんだ。
そこを掘り返してみると、なんと1.2mもある大きさの山蜘蛛が傷だらけで倒れていたそう。
四天王はその山蜘蛛にとどめを刺すと、主君・頼光の熱病がみるみるよくなり、病気が治ったの。
このことから、病の元凶が山蜘蛛であったことが発覚し、この出来事をきっかけに膝丸は「蜘蛛切」と改名されたんだよ。
<膝丸が源氏の元から熊野へ渡ったのはなぜ?>
膝丸(その当時は蜘蛛切)は代々、源氏家に受け継がれていたんだけど、源為義の代の時に熊野へ渡るんだ。
ではなぜ源家の大切な膝丸は熊野家へ渡ったんだろう。
為義の代で、膝丸は「吼丸」と改名。
この頃、源氏と平氏の間で合戦が起こるという噂が広まっていて、この噂は都だけではなく遠くの国・熊野を統括していた教真の耳にも届いたんだ。
この教真という人物は源為義の娘を娶った相手なの。
そのことが原因で、義父になった源為義とは疎遠になってしまっていたんだけれど、教真は源氏と平氏の合戦を案じて「私は不孝者だが、こんな時だからこそ駆けつければ不孝が許されるえかもしれない…」と考え、援軍を引き連れて上洛したんだ。
教真が京都に付くと、「和泉や紀州にこんな大名はいない…いったい誰なんだ」と人々から何度も尋ねられ、自分の名前を明かしたところ、その噂が源為義のもとに知られることになったの。
知らせを聞いた為義は「姓や素性は知らないが、おまえはどこの一門だ」と尋ねると、教真は「実方中将の末孫です」と答えたそう。
実方中将(さねかたちゅうじょう)とは、平安時代の貴族で藤原実方のこと。
藤原実方は優れた歌人としても知られており、それを聞いた為義は、教真が名家の血を継いでいたことを初めて知り「私が命令できるような相手ではなかった…」と言い、娘を娶った教真と初めて対面し、その志に深く感心したんだ。
その時、源為義は源氏に伝わる名刀である吼丸(膝丸)を教真に渡したよ。
しかし教真は「私ごときが持つものではありません」と熊野三山に祀られている神・熊野権現に奉納したの。
その頃、熊野の地を教真に変わって引き継いだ湛増は、「源氏は私達の母方であり、源氏の世になることは素晴らしいこと。熊野権現に奉納された吼丸(膝丸)を使って平氏を滅ぼしていただきたい」と、熊野からはるばる京都へ上洛し、吼丸を源義経に渡したんだ。
この湛増の行動に、源義経はたいそう喜び、熊野から春の山々をかき分けて出てきた吼丸を「薄緑」と改名。
名刀を手に入れてから、源氏はさらに勢力を増し、山陰、山陽、南海、西海などの地域の兵たちも源氏に従属したんだ。
どんどん戦で勝ち進んだ源義経は名を挙げることになるよ。
<源義経と源頼朝の不仲>
源義経の元にあった薄緑(膝丸)は最終的には兄である源頼朝の元に渡るよ。
源義経と源頼朝は兄弟でありながら、不仲であったことはよく知られているよね。
源義経は兵士を次々と討ち、兄・源頼朝がいた鎌倉へと帰還。
しかし頼朝は戦上手の義経が兵を率いて鎌倉へ戻るふりをして裏切ると考え、鎌倉へ入ることを許さなかったんだ。
兄のその行動に、義経は鎌倉へ戻ることを諦め京へ引き返すことに。
その途中に、義経は箱根権現に参詣して、少しでも兄弟仲がよくなることを願って薄緑(膝丸)を奉納し祈りをささげたんだ。
しかし、その祈りもむなしく、頼朝と義経の対立はさらに悪化。
結局、源義経は妻と娘を殺害し、31歳で自害することになるよ。
<箱根権現に奉納された曽我兄弟>
建久4年(1193年)に、曽我祐成と曽我時致の曽我兄弟が、親の仇である工藤祐経を仇討ちする事件が勃発。
この仇討ちは日本三大仇討ちの1つであり、曽我兄弟は箱根別当から「兵庫鎖太刀」を授かり望みを果たしたんだ。
その時に授かった太刀こそが、源義経が箱根権現に奉納した薄緑(膝丸)だったの。
最終的に薄緑は源頼朝に召し上げられ、髭切と膝丸の2振りの刀剣は巡りに巡り最終的には同じ場所に戻されたんだよ。
この出来事は鎌倉時代初期に起きたんだけど事件の顛末に関しては「曽我物語」にもまとめられているんだ。
<膝丸の刀箱は別の刀の箱だった?>
京都市右京区にある大覚所蔵の太刀「薄緑」は源氏の重宝であった膝丸であると言われているんだ。
重要文化財にも指定されている薄緑を納める刀箱は、実は本来は別の刀の為に作られたことが京都博物館の調査によって分かったんだよ。
膝丸は北野天満宮が所蔵している髭切と同様に源氏の重宝とされていて、現在は京都国立博物館に寄贈されているんだ。
2018年に、京都国立博物館で行われた特別展を機に、調査をしたところ、菊と桐の飾り金具のついた長さ160㎝の刀箱は、大覚寺に伝わる別の刀のために作られた刀箱であることが判明。
それを受けて大覚寺では、膝丸の為の刀箱を造ろうと「結縁プロジェクト」に取り組み、浄財を元に膝丸(薄緑)にぴったりの刀箱を新たに作ったんだ。
膝丸は第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ)に接収されたために、白木づくりと鞘部分には英文で書かれた貼り紙がそのまま残っているの。
また経年劣化により、鞘の合わせ目も割れてきていたので、刀箱だけではなく、ハバキも新調されることになったよ。
膝丸(薄緑)のために新たに作られた刀箱は、漆塗の外箱と桐材の内箱の二重箱となっているの。
内箱には膝丸を納める新しい鞘と、連合国軍総司令部(GHQ)の貼り紙が残っている古い鞘、「薄緑太刀伝来記」や「巻子」(寄進者の名前が記してあるもの)などが収納されているよ。
外箱は、今までの刀箱の倍以上の大きさとなっているんだ。
刀剣乱舞キャラ紹介
刀剣乱舞とは
刀剣男士と共に―いざ出陣!
西暦2205年。歴史改変を目論む敵によって過去への攻撃が始まった。
歴史を守る使命を与えられた“審神者(さにわ)”は、
最強の付喪神“刀剣男士(とうけんだんし)”と共に過去へ飛ぶ――。▼刀剣乱舞-ONLINE-とは?
名だたる刀剣が戦士へと姿を変えた“刀剣男士”。
あなたは彼らを率いる“審神者”となり、歴史を守る戦いに出ます。
短刀、脇差、打刀、太刀、大太刀、薙刀、槍、剣の
計8種の個性豊かな刀剣男士を集めて育て、あなただけの部隊結成!
様々な合戦場を攻略していく、刀剣育成シミュレーションゲームです。(公式サイトより引用)
刀剣乱舞 関連サイト
当記事は著作権法第32条に基づき画像を引用しております。
著作権は権利者様側へ帰属しておりますので画像の転載・流用はご遠慮下さい。
また、権利者様側からの画像等の削除の依頼や警告は速やかに対処いたします。