京都にある新撰組ゆかりのスポットを徹底解説 その1
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2021年4月14日京都で活躍した新撰組は現在でも人気があり、新撰組ゆかりの地を訪ねるファンは多いよ。
前回と同様、今回も京都にある新撰組ゆかりのおすすめスポットをまとめてみよう。
目次
【ここだけは押さえておきたい!京都にある新撰組ゆかりの地とは?】
・光縁寺
壬生郷士八木邸の近くにある光縁寺は、数多くの新撰組隊士のお墓があるお寺なんだ。
旧前川邸で切腹した新撰組総長・山南敬助もこの光縁寺に葬られているの。
光縁寺は、新撰組の馬小屋があった場所のすぐ近くにあり、隊士たちにとってもおなじみのお寺だったと言われているよ。
また、山南家と光縁寺の家紋が同じだったこともあって、山南敬助と当時の光縁寺の住職が懇意にしていたそう。
・島原角屋
島原角屋は、新撰組や西郷隆盛、伊藤博文、木戸孝充など明治の元勲らが頻繁に利用した旧花街で、刀傷が多く残っていることでも有名なんだ。
日本最古の公許花街(京都で唯一の幕府公認の遊里)であった島原角屋は、屯所のあった八木邸から島原までは歩いて数分の場所にあったことから、あしげに通った新撰組隊士がたくさんいたよ。
現在残っている島原大門は1867年に作られたもので島原の東の入り口にあり、当時の雰囲気を感じることができるの。
この島原は江戸にあった遊郭「吉原」とは違って、老若男女が出入り自由の街だったんだ。
花街の中で特に知られていたのが「角屋」で、近藤勇や土方歳三などがよく出入りしていたよ。
角屋は揚屋として商売繁盛していたんだけど、現在もその建物を見ることができるんだ。
揚屋建築の貴重な遺構として、国の重要文化財にも指定されていて、春・秋には「角屋もてなし文化美術館」として調度品などを一般公開しているよ。
・輪違屋
島原の中で現在もお茶屋として営業を続けているお店が「輪違屋(わちがいや)」なの。
浅田次郎氏の小説「輪違屋糸里」でも知られているよね。
輪違屋は揚屋の角屋とは違って、置屋というお店だったの。
「角屋」は外から芸妓がやってくる料亭だったんだけど、「輪違屋」は舞妓や芸妓を育てるお店だったんだ。
つまりお茶亭や料亭のリクエストに応じて、輪違屋が芸妓を派遣していたんだよ。
現在の輪違屋は安政4年(1857年)に再建されたもので、「2つ重なる輪」と主の姓高橋から「高」をとった模様が、襖、傘、瓦などお店の至るとこに見ることができるの。
・洛中屋敷跡の碑
京湯元「ハトヤ瑞鳳閣」(ホテル)の敷地内には新撰組最後の洛中屋敷跡の石碑が建てられているよ。
池田屋事件によって広くその功績が評価された新撰組は、1867年6月に幕府直属の旗本に取り立てられ、新たな屋敷を建設したんだ。
それが洛中屋敷なんんだよ。
近藤勇の甥で新撰組の隊士でもあった宮川新吉の手記によれば、新撰組隊士は1867年6月15日に洛中屋敷に入居したそう。
この屋敷に移って間もなくの10月には、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還し、12月に薩長による王政復古となるんだ。
・油小路
油小路の変でも有名な油小路は京都駅からほど近い場所にあるよ。
慶応3年(1867年)11月18日、伊東甲子太郎が近藤勇に招かれた酒宴の帰り道に待ち伏せしていた新撰組に暗殺されてしまうんだ。
惨殺された伊東の死体は、残りの御陵衛士をおびき寄せるために、油小路に放置されたままにされたの。
伊東惨殺の知らせを受けた御陵衛士たちは、新撰組が待ち伏せしているのを覚悟して、油小路へ行き激闘。
この激闘によって、元新撰組隊士・藤堂平助は闘死したよ。
・本光寺
本光寺は伊東甲子太郎など3名が殉難した場所だよ。
参謀者であった伊東甲子太郎は新撰組を離脱し、御陵衛士を結成。
近藤勇らは伊東を暗殺するために、慶応3年11月18日に伊東を酒宴に招き、その帰り道に襲撃。
伊東は本光寺門前の門派石により絶命したと言われているよ。
・池田屋跡
新撰組の中を世に知らしめた「池田屋事件」の現場となった旅籠「池田屋」跡地には、現在「池田屋はなの舞」という名の居酒屋があるよ。
新撰組ファンの食事スポットとしてとても人気があるんだ。
店内には大階段があって、池田屋事件の舞台となった「池田屋」を再現したイメージの内装になっているの。
内装に関しては京都太秦映画村の協力によって作られたそう。
いたるところに維新志士の絵が飾られているよ。
ランチメニューは「沖田総司ランチ」「斎藤一ランチ」など隊士の名前が付いたものがあるの。
・不動堂村屯所跡
不動堂村屯所跡は京都駅からほど近い場所にあるよ。
次々と手柄を立てていった新撰組が幕臣となり、屯所を不動堂村屯所に移したんだ。
現在は石碑が残っているだけなんだけど、新撰組が不動堂村を屯所としていた当時は、大名屋敷並みに立派な屯所であったと言われているの。
・西本願寺
世界遺産としても知られている西本願寺は、浄土真宗本願寺の総本山。
多くの参拝客でにぎわう西本願寺は、壬生の屯所が手狭になった後に、新撰組が幕末の一時期、この西本願寺を屯所として駐屯していたんだよ。
13名の隊士から始まった新撰組だったけど、最も隊士数が多い時には200名を超える大所帯になったの。
八木邸の屯所だけで入りきらず、慶応元年(1865年)3月10日に西本願寺へ屯所を移転したんだ。
長州藩との結びつきが強かった西本願寺を屯所にすることで、長州藩への探りや揺さぶりをかけようとしたとも言われているよ。
ちなみに新撰組が屯所として使用したのは西本願寺の北集会所と太鼓楼と言われるところ。
ここで隊士たちは、射撃訓練や大砲の練習を行っていたそう。
2年後には屯所移転費用の全額を西本願寺が負担して、新撰組は屯所を移転することになるんだ。
現在の西本願寺には、新撰組隊士が駐屯していた北集会所の一部と太鼓楼が当時のままに残っているよ。