短気で死損ね左之助というあだ名があった?原田左之助の気になるエピソードを徹底解説
2021年3月29日新撰組十番隊組長・原田左之助のトレードマークと言えば槍!新撰組唯一の槍の名手だったって本当?
2021年3月29日新撰組の隊士は妻子持ちが少なかったんだけど、その中でも原田左之助は妻子がおり愛妻家であったと言われているんだ。
ここでは原田左之助と家族のエピソードをまとめてみよう。
目次
【妻を愛した誠実な男】
新撰組の幹部の多くは、京の地に休息所を持っていて、そこに妾を囲っていたんだ。
つまり現地妻であり、本当の正妻ではなかったの。
しかし、そのような幹部が多い中で、原田左之助は恋人や妾などにせず、京都で正式に妻を迎えたんだよ。
新撰組の幹部の中では唯一、在京中に正妻を娶ったよ。
原田左之助の妻はまさという名前で、苗字帯刀を許された商家の娘だったんだ。
単なる休息所の妾ではなく、正式に妻として迎えることができたのは、まさが由緒正しい家柄であったことも理由の1つとなっているよ。
左之助はまさのことを非常に大切にしており、愛妻家であったと言われているの。
このまさは昭和5年まで生き、たくさんの孫もいたそう。
【子煩悩だった原田左之助】
原田左之助と妻・まさは本願寺筋金に所帯を構え、結婚した翌年には長男・茂(しげる)が誕生。
この「茂」という名は江戸幕府14代征夷大将軍徳川家茂から一文字取ったといわれているよ。
左之助は長男・茂のことをとても可愛がっており「将来は立派な武士に育ててやる」と意気込んでいたそう。
非番の日には茂を抱いて屯所に現れて、子供自慢をしていたとも言われているの。
まさに幸せを絵に描いたような暮らしを送っていたんだ。
妻のことを大切にして、我が子にも惜しみない愛情をあたえていた左之助はまさに理想の父親像と言えるよね。
また非常に甲斐性のある夫でもあったんだ。
左之助が生活のために、妻・まさに月々渡していたお金は月に10~15両ほどであったと言われているよ。
この額が本当であれば十分贅沢に暮らせる金額と言えるんだ。
3度の食事は、新撰組の隊のまかないをもらえたのでとてもよい暮らしをしていたんだよ。
【最愛の妻との別れ】
夫婦の別れが来たのは、結婚してからまだ2年半しか経っていなかった頃。
鳥羽伏見の戦いの直前、新撰組が不動堂村の屯所を引き払って、伏見に布陣することになってしまったの。
出発の前日、原田左之助は200両という大金を持って家に帰ってきて、「当座の暮らしの資金だ」と言って妻・まさにお金を手渡したそう。
左之助はまさに「俺に万が一のことがあった時は、まさが茂を立派な武士に育ててくれ、まさは体に気を付けるように」と何度も何度も繰り返し告げたんだ。
そして慌ただしく隊へ戻っていってしまったの。
実は原田左之助とまさの最後の別れの時、まさのお腹には二人目の息子がいたんだ。
しかも臨月で今にも生まれそうというタイミングで、夫である左之助が行ってしまうことに。
結局、左之助と別れてから5日後に、まさは次男を出産。
しかし、出産後1週間で夭折してしまったんだ。
夫はおらず、生まれたばかりの我が子は亡くなってしまう…というつらい経験を背負うことになってしまうんだ。
【妻・まさとの別れ、左之助のその後】
原田左之助ら新撰組は、鳥羽・伏見で敗走後、甲陽鎮部隊で甲州勝沼の戦いに参加。
しかし幕府軍と新政府軍では装備と兵力に大きな差があり、それも敗戦してしまうんだ。
明治元年3月には、原田左之助は近藤勇と袂を分かち、新撰組を脱盟。
脱盟後は、永倉新八と靖共隊を結成したものの、左之助はすぐに脱退し、単身で江戸に引き返してしまうんだ。
永倉は原田左之助が脱退した理由を「妻子への未練で、口実を設けて江戸に帰ったのだろう」と言ったものの、実はそうではなかったの。
左之助は、江戸に戻ると彰義隊に参加し、上野戦争での敵から受けた銃弾によるケガがもとで戦死したよ。
【左之助と別れた後、妻・まさはどうした?】
まさは原田左之助と別れてから、薩長を主とする新政府軍に厳しい取り調べを何度も受けることになり、つらい境遇に身を置いていたんだ。
また、第2子を身ごもっていたまさは、左之助と別れてから5日後に出産したものの、生後まもなくして次男が亡くなってしまうの。
生まれてすぐに神に召されたこの赤ちゃんは「禅雪童子」という戒名を授けられたんだ。
まさはそのことをなんとか原田左之助に伝えようと手を尽くすものの、もう左之助がどこにいるかさえ分からなかったと言われているよ。
なんとまさが、左之助の死を知ったのは、明治2~3年になってからだったんだ。
その後、まさは昭和5年(1930年)まで生き、たくさんの孫たちに見守られながら亡くなったよ。