新撰組十番隊組長・原田左之助は殿軍を務める新撰組幹部メンバーだった!原田左之助の活躍とは?
2021年3月24日新撰組十番隊組長・原田左之助は愛妻家で子煩悩だった?
2021年3月29日新撰組十番隊組長の原田左之助は短気で竹を割ったような一本気な性格だったんだ。
ここでは性格など、原田左之助のエピソードをまとめてみよう。
目次
【原田左之助は短気で有名!】
原田左之助は短気な性格ですぐにカッとなってしまうため、手が出ることも多かったそう。
特に若い頃は勝気で生意気であったんだ。
伊予松山藩の中間をしていた頃、郷里松山でよく相手をしてやり、慕われていた奉公先の親戚筋の子供がいたそう。
しかし、松山でその子供に再会した時、左之助は少し立場が上の若党になっていたため、会っても知らん顔をしたと言われているの。
左之助が気分屋であったことがよく分かるエピソードだよね。
また江戸三田の松山藩邸では、普段から反抗的な態度であった中間の原田左之助が泥酔して帰宅したため、先輩たちから縛られて猿ぐつわの上、水をかけられる体罰を受けたこともあったんだ。
どれだけ左之助が先輩たちに対して生意気な態度をとっていたのかが想像できるよね。
さらに原田左之助が、西洋式の進軍に使う太鼓を腹に抱えて、ふんどし1つの裸姿で、太鼓をドンドンと叩きながら道を歩くという奇行も見られているんだよ。
短気で強気な性格で、若い頃にはやんちゃであったこともよく分かるね。
新撰組の幹部になった後も、原田左之助の強気は変わらずに継続したんだよ。
ストレートな性格であったため、思ったことをすぐに口に出してしまうことがあったそう。
長州の間者・楠小十郎を斬り殺した際には「あぁ、良い気持ちだ」とうっかり言って笑ってしまったんだ。
これを聞いた近藤勇にこっぴどく叱られたと言われているよ。
【死損ね左之助というあだ名があった?】
原田左之助は伊予松山藩の中間(雑役をした武家奉公人)をしていた時、上官にあたる武士と喧嘩をしたそう。
その武士に「腹を切る作法も知らぬ下司め」と罵られた原田左之助は怒って、自分の腹を切ってその武士に見せたんだ。
その傷は浅かったから、命に別状はなかったものの、その腹につけた一文字の傷から「死損ね左之助」というあだ名が付けられたと言われているの。
新撰組内では「死損ね左之助」と呼ばれていたんだよ。
原田左之助は腹に残った一文字の傷を酒に酔った時には自慢げに周囲に見せていたそう。
また天気の良い日には傷をお日様にさらしながら、「てめぇたちのようなヤワなのとは違うんだ。俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」と自慢していたんだ。
この切傷を誇りに思っていた原田左之助は、これをもとに家紋を〇に切腹傷の一文字を入れた形にしてしまったという逸話も残っているの。
ちなみにお腹にある切傷が、左からの真一文にあるため、左利きだったのでは?と推測されているんだよ。
【新撰組の中では永倉新八と仲が良かった】
原田左之助は1歳年上の新撰組二番隊組長・永倉新八と仲が良かったんだ。
新撰組を脱退した時も、永倉新八と一緒だったし2人の仲の良さは周知だったんだよ。
また、原田左之助は新撰組の中では美男子だったと言われているの。
【芹沢鴨など粛清を担当していた?】
近藤勇らの命令によって芹沢鴨を粛清した原田左之助は、刺客として存在感を見せつけていくの。
ちなみに芹沢鴨の暗殺に関しては、左之助の仲が良かった永倉新八は何も知らされていなかったとされていて、粛清後に知ったそう。
また原田左之助は、芹沢鴨の粛清後も、スパイの粛清を担当していたと言われているよ。
新撰組内部で長州藩間者(スパイ)の粛清が相次いでいたんだけど、その中で楠小十郎を暗殺したのも原田左之助なんだ。
【三条橋制札事件で名を残した原田左之助】
1866年、三条大橋の西詰北に掲げられた幕府の制札が引き抜かれるという事件が繰り返し起こっていたんだ。
その警備にあたっていた新撰組が、犯人の土佐藩士を捕縛した事件のことを「三条制札事件」と言うよ。
この三条橋制札事件では、新撰組十番隊と、その組長である原田左之助が活躍。
事件の褒賞金給付記録の筆頭には、原田左之助が20両もらったと名前が残っているんだよ。
この事件の活躍によって、原田左之助という名前は土佐藩に印象付けられることになるんだ。
そのため坂本龍馬暗殺においても、原田左之助が実行犯なのでは?と疑いをかけられてしまったとも言われているの。