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2021年3月29日新撰組十番隊組長と言えば原田左之助だよね。
十番隊とは、新撰組の中では殿軍にあたり、その組長を任されていた原田左之助は槍の名手として知られているよ。
近藤勇や土方歳三、沖田総司らとともに試衛館でともに汗を流した生え抜きの新撰組結成メンバーの1人なの。
ここでは原田左之助がどのような人物であったのか、なぜ新撰組に入ったのかなどをまとめてみよう。
目次
【原田左之助の幼少期とは?】
原田左之助は天保11年(1840年)伊予松山藩に生まれるよ。
はじめ藩の武家奉公人(藩士に雇われた雑用係のようなもの)であったものの、のちに出奔。
大坂では、新撰組隊士となる谷万太郎から種田流槍術を学び、免許皆伝を受けて、槍の名手としてその名を知られていたんだ。
松山や江戸藩邸に務め、そこを脱藩すると江戸にある試衛館の近藤勇につき従い、食客となったの。
そこで近藤勇らとともに浪士組に参加して上洛することになるの。
原田左之助は近藤勇らとともに京に残って、壬生浪士組(のちの新撰組)を結成したんだ。
原田左之助は新撰組の創設メンバー、そして新選組の幹部隊士として常に第一線で活躍していたよ。
【新撰組での活躍とは?】
原田左之助は、局長・芹沢鴨の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺事件、大坂西町奉公所与力・内山彦次郎暗殺事件、池田屋事件、禁門の変、油小路の変、三条制札事件など新撰組の名が世に知れ渡った主立った先頭には必ず参加していたと言われているの。
そのことからも原田左之助が新撰組の中でもいかに実力があったかどうかがよく分かるよね。
原田左之助が隊長を務めたのは、新撰組十番隊。
十番隊は殿軍であり、この殿軍を任された原田左之助は、一番隊組長であった沖田総司とともに、副長・土方歳三、局長・近藤勇に信頼されていたという証でもあるんだよね。
原田左之助は副長助勤や組頭の他にも、勘定方(現在の会計係)を務めたこともあると言われているんだ。
この勘定方を任されていた理由に関しては、何らかの処分によってさせられていたものなのか、実際に算術に優れていたために任されていたのかは分かっていないよ。
【原田左之助は坂本龍馬暗殺を疑われていた?】
原田左之助は、坂本龍馬暗殺を行った近江屋事件の下手人としても一時、疑われたんだ。
なぜ疑われてしまったのか?というと2つ理由があるの。
1つは、龍馬の暗殺現場に落ちていた鞘を伊東甲子太郎が原田左之助の差し料と証言したため。
そしてもう1つは、下手人が「こなくそ」という伊予の方言を発したのを聞かれたためなんだ(原田左之助は伊予出身)
しかし、実際には新撰組と坂本龍馬暗殺は何ら関係がなかったと言われているよ。
【永倉新八らと新撰組を脱退し靖兵隊を結成】
鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いは、新撰組として戦うものの、板垣退助らが率いる御親征東山道先鋒総督軍に敗れると、江戸に敗走。
その後、原田左之助は近藤勇らと意見衝突してしまい袂を分かち、永倉新八と共に靖兵隊を結成することになるんだ。
ところが原田左之助は、江戸を出発してすぐに用を思い出したと言って山崎宿(現在の千葉県野田市)で靖兵隊を離れるの。
そして、江戸に戻って彰義隊に加わることになるんだ。
彰義隊に加入した原田左之助だったけれど、上野戦争で負傷してしまい、その傷がもととなって慶応4年(1868年)7月6日に本所の神保山城守邸で死亡したよ。
この時、原田左之助は享年29歳だったんだ。
【原田左之助には生存説がある?】
彰義隊への参加が遅かったためか、彰義隊の名簿に原田左之助の名は載っていないため、実際のところよく分かっておらず原田左之助生存説などもささやかれているんだよ。
この生存説では、原田左之助は上野戦争では死なずに生き延び、新潟や下関、釜山を経て大陸へ渡って、馬賊の頭目になったと言われているの。
この生存説は「馬賊伝説」と言われていて、日清・日露戦争の時に松山で昔語りをする老軍人が「私は原田左之助だ」と名乗ったとも伝われているんだよ。
明治40年(1907年)頃に、愛媛新聞で弟や甥とあって話をした後に「満州に帰る」と言い残して去っていったとも報じられているの。
しかしその真偽は不明なんだよ。