近藤勇率いる新選組が活躍した「池田屋事件」「禁門の変」「三条制札事件」はどんな事件だった?

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近藤勇率いる新選組が活躍した「池田屋事件」「禁門の変」「三条制札事件」はどんな事件だった?

 

近藤勇局長のもと新選組は「池田屋事件」「禁門の変」「三条制札事件」など様々な活躍をみせたね。

この頃、新選組は隊士組200名を超える大所帯となって最盛期を迎えるんだ。
今回は、近藤勇率いる新選組が活躍した事件についてまとめてみよう。

 

新撰組レモン
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誰もが聞いたことのある事件だね!

【一躍名をあげた池田屋事件とは?】

 

元治元年(1864年)6月5日、新選組は長州藩過激派による「テロ計画」の情報を入手したんだ。

長州藩は、その前年の文久3年(1863年)に、八月十八日の政変によって京都政局から追い出されたの。
この劣勢を挽回するために、京都の町に火を鼻って、混乱に乗じて天皇を長州へ連れ去ろうという計画が進行中だったんだ。

陰謀に関わる密議のため、志士たちが京都・三条小橋の旅籠・池田屋に集結しているという情報を掴んだ近藤勇らは、これを会津藩に通報。
藩兵がなかなか到着しなかったため、近藤たちは少人数で突入することになるんだよ。

 

【旅籠が立ち並んでいた池田屋周辺】

 

池田屋があったのは京都・三条小橋西。

このあたりは、現在でも多くの飲食店が立ち並ぶ京都市内で最も賑やかな一角なんだ。

幕末時代、三条大橋東から三条小橋西にかけて、三条通りには両脇にびっしりと宿籠が建ち並んでいたそう。
東海道五十三次は、江戸の日本橋を起点としているけれど、終点は京都の三条大橋なんだ。
終点付近にたくさんの旅籠があるのは当然だよね。

 

その中でも、池田屋は長州藩京都屋敷とのつながりが深かったそう。
長州藩士がよく訪れていた場所なんだ。

新撰組レモン
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京都の三条はとっても賑わっていたんだよ♪

【池田屋に最初に踏み込んだのは誰?!】

 

池田屋の2階に集結していた長州藩の浪士たちは約30名はいたそう。
これに対して、新選組は近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名のみで斬りこんだんだよ。

戦闘中、沖田総司と藤堂平助は離脱。
近藤勇は永倉新八と必死でしのぐうち、土方隊が応援に駆け付け、さらに会津藩兵も到着。
池田屋周囲を固めると、浪士たちは追い詰められる形になったんだ。

 

結局浪士たちは、長州藩の吉田稔麿、熊本藩の宮部鼎蔵ら9名が死亡し、4名が捕縛されることに。
さらに翌日20名以上の逮捕者が出たんだよ。

この池田屋事件の功績によって、新選組は幕府や朝廷から感謝状と褒賞金を賜ることに。
新選組という隊名は、一躍京都の町に広まることになったんだよ。
その後、新選組は慶応3年(1867年)に、幕臣に取り立てられることになるんだ。

新撰組レモン
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最初はたったの4人で斬り込んでいったんだ!
新撰組レモン
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土方隊の応援が来てくれて助かったよね!

“Battle scene from the Hamaguri Gate Incident of 1864, Kyoto, Japan”, an ukiyo-e print by Yūzan Mori, based on a drawing by Gorei Maekawa. LOC description: Ukiyo-e print illustration showing a burning building and people fighting. from wikipedia PD

 

【禁門の変でも活躍した新選組】

 

池田屋事件が起こった数ヶ月後、元治元年(1864年)7月19日、京都では250年ぶりに鉄砲の玉が飛び、街並みも大火に見舞われることに。
これを「禁門の変」「蛤御門の変」と呼ぶんだ。

この禁門の変では、長州藩浪士と薩摩、会津、桑名の諸藩に新撰組も加わった公武合体派連合軍が激突。
京都の御所の9つの御門周辺で、両軍合わせて450名以上の死者を出す激戦を繰り広げたんだよ。

 

新撰組レモン
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450人以上の死者が出る衝突が京都で起きるなんて!!

新選組がこの禁門の変に関わっていたと分かったのはつい最近のこと。

2017年に京都市南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で禁門の変に新選組が参戦していたことが書かれた日記が発見されたの。
この日記は、当主・長谷川軍記が書いたもの。
京都の南入り口であった東九条村の農家に、1ヶ月前から新選組が宿泊していて、この地で長州浪士らと鉄砲の撃ち合いとなって、撃退したと記されていたんだ。

 

この日記が発見される前は、新選組と禁門の変の関わりは不明瞭だったんだけど、この日記の発見によって新選組も禁門の変に参戦していたことが分かり、御所の南の護衛を任されていたことが判明したんだよ。

また、天王山に立てこもる真木保臣を攻めたのも、新選組であったとされていて、禁門の変でも新選組が多大な活躍をしたことが良く分かるね。

新撰組レモン
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2017年までは、あやふやだったんだけど、日記が発見されて新事実が確定的になったよ。

【新選組が活躍した三条制札事件とは?】

 

三条制札事件とは江戸時代幕末期の慶応2年(1866年)10月20日に、土佐藩士8人が三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとしたところ、京都の治安維持を行っていた新選組が襲撃・捕縛した事件のこと。

当時、禁門の変が起きて以降、三条大橋西詰の高札場には長州藩を朝敵とする内容の制札が掲げられていたんだ。
けれど、どんどん焼けで焼け出された市民たちからは、長州藩を同情する世論が根強かったの。

 

慶応元年(1865年)に実施された第二次長州征伐の失敗以降、江戸幕府の権威は失墜。
慶応2年(1866年)になると、京都では幕府の立てた制札が引き抜かれるという事件が頻発し始めたんだ。

特に鴨川にかかる三条大橋の西詰北に立てられた制札は3度に渡って引き抜かれ鴨川に捨てられたの。

このことから、新選組に制札の警備が命じられ、新選組は三条大橋など3拠点に隊士を配置。
いつでも包囲体制をとれるように準備を整えていたんだよ。

 

事件当日、三条会所に原田左之助ら12名、町屋に大石鍬次郎ら10人、酒屋に新井忠雄ら12名を配置し、犯人の出現を待ち構えていたの。

新選組が警備にあたっていたところに、藤崎吉五郎と宮川助五郎を中心とした土佐藩士8人が三条大橋西詰に現れ、制札を引き抜いたんだ。
土佐藩士8人中3人を確保。
残りの5名逃した浅野薫は新選組を追放されることになるよ。
参戦した原田左之助ら隊士には会津藩から恩賞が与えられたんだ。

 

新撰組レモン
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警察みたいな役回りで犯人を捕まえたんだね!
新撰組レモン
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江戸幕府の力が弱くなっている象徴でもあったよね。