明智光秀は幕臣だった?幕府内における身分は足軽衆?!
2020年10月26日近藤勇率いる新選組が活躍した「池田屋事件」「禁門の変」「三条制札事件」はどんな事件だった?
2020年10月26日
新選組の二代目局長といえば近藤勇(こんどういさみ)だよね。
近藤勇は、故郷の道場から一緒だった土方歳三や沖田総司など他の隊士から絶大な信頼を受けていたんだよ。
ここでは近藤勇についてまとめてみよう。
目次
【農家の三男として生まれた近藤勇】
近藤勇は天保5年(1834年)に武蔵国多摩地方の農家の三男として誕生したよ。
元々の名は「宮川勝五」で16歳の時に、天然理心流の「試衛館(しえいかん)」に入門。
ここで、道場主の近藤周助に大変気に入られ、近藤家の養子になり、「近藤勇」と名乗るようになるんだ。
28歳になった近藤勇は、天然理心流宗家を継いで、近藤は試衛館の主となったの。
剣術の腕前はもちろん、おおらかで包容力があった近藤勇は、人格的な魅力にも溢れていたと言われているよ。
そんな近藤勇の噂を聞きつけ、各地から名うての剣豪が続々と近藤勇の元へ集まってきたんだ。
そして、将来の新選組の原型ともなる「市谷柳町」が出来上がったんだよ。
この時、近藤勇の元へ集まったのは
・土方歳三
・沖田総司
・山南敬助
・井上源三郎
らの門人の他、
・永倉新八
・原田左之助
・藤堂平助
・斎藤一
らも食客として滞在していたと言われているよ。
ちなみに食客とは、居候のようなもの。
道場の食客は、ただ飯を食ってゴロゴロしているだけではなく、弟子たちに稽古をつけたり、道場破りに対応したり、薪割りをしたりと、何らかしらの働きでもって宿主に報いていたと言われているよ。
【浪士組に参加し、京都へ行くことに】
そんな中、近藤勇は、14代将軍・徳川家茂が上洛するために、亡父が警護要因として浪人者を集めているという噂を耳にすることに。
武士であった者でなくても、志さえあれば身分にこだわらないということから、農家出身の近藤勇は「これはまたとない好機会だ」と考えたんだよ。
近藤はなんとしても武士になりたいと考えていて、サムライの心を持って幕府への忠誠を誓い、鍛えてきたその腕を存分に試したいと感じたそう。
【近藤勇はどんな性格をしていた?!】
近藤勇の性格については、いくつかの証言が残っているんだ。
その証言をまとめてみると、近藤勇は温厚な人で、決して無鉄砲な乱暴者ではなかったそう。
愛嬌があって、いつもニコニコしていたので、多くの隊士から慕われていたと言われているよ。
頑固で強情な部分もあるものの、処刑される際に一緒に捕まっていた仲間2人の命乞いをするなど、仲間想いのエピソードが多いんだ。
また近藤勇の変わった特技として「こぶしを丸ごと口の中に入れる」というものがあったそう。
この特技は、戦国時代に活躍した加藤清正も持っていたと言われていて、加藤清正のように出世したいとこの特技を周囲に見せてたんだって。
【壬生浪士組、新選組の結成】
京都へ着くと、浪士組の首謀者である清河八郎は「浪士組の本位は将軍の警護ではなく、尊皇攘夷の 先陣に立つことである」言い出すの。
幕府に対しては口実として集めた尊攘派浪人たちを、本当の尊皇攘夷運動に転換させようとした清河八郎に対して、近藤勇ら試衛館グループと、水戸藩浪士であった芹沢鴨らは大反発。
浪士組を脱退して、京都守護職である会津藩に嘆願書を提出し、「会津藩預かり」の部隊として認めてもらえることになったの。
そして近藤勇らは「壬生浪士組」として活躍するようになるんだ。
【芹沢鴨の暗殺、鉄の規律と粛正で新選組を取りまとめる】
壬生浪士組のメンバーの中には1人問題児がいたんだ。
それが新選組初代局長でもある芹沢鴨だよね。
芹沢鴨は近藤勇の試衛館派ではなく、水戸藩の郷土出身者。
頭が非常によく、剣の腕も弁舌も達者だっため、壬生浪士組のリーダーとなっていたものの、乱暴者で悪行三味を繰り返し、メンバーに迷惑をかけていたんだ。
見かねた朝廷・会津藩からも芹沢を除くように命令がくだり、土方、沖田、山南、原田ら近藤派によって芹沢鴨の暗殺は実行されてしまうの。
芹沢鴨の死後、政変を機に壬生浪士組から「新選組」に名前を変え、近藤勇を局長、土方歳三を副長、試衛館派のメンバーを中心に組織は生まれ変わることになるんだ。
新選組には、剣術に長けたものがそろっていたけれど、その出身は近藤勇のように農民出身者もいれば、もともと武士だったものもいたんだ。
新選組は幕府のために命を懸けて戦うという武士の本分を信条としていて、厳しい隊規を定めて、その隊規を破ったものに関しては暗殺や切腹など罰を与えていたの。
ちなみに新選組が定めた「局中法度」がこちら。
一、武士道に背いてはならない。
一、局を脱してはならない。
一、勝手に金策をしてはならない。
一、勝手に訴訟を取り扱ってはならない。
一、私闘を禁ずる。
この法度に背いた者に関しては、切腹させられていたそう。
実際に、法度破りで粛正された人数は41名もいたんだよ。
【近藤勇が中心となって新選組としての活動がスタート】
新選組の隊名が与えられると、近藤勇は試衛館の一派であった土方歳三とともに、壬生浪士組の幹部であった新見錦を自殺に追い込むんだ。
この新見錦は、法令を犯すなど悪行が目立ったため、自殺に追い込まれたと言われているよ。
芹沢鴨の暗殺に次いで、新見錦を自殺に追い込むなど、新選組は近藤勇の主導のもとで活動が行われるようになるんだ。