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明智光秀は幕臣だった?幕府内における身分は足軽衆?!

 

大河ドラマ「麒麟がくる」では、足利義昭が上洛を果たし、明智光秀と足利義昭の絡みも増えて、ますます盛り上がっているよね。

今回は明智光秀の幕府内における身分についてまとめてみよう。

忍レモン
忍レモン
明智光秀はどんな身分の人だったんだろうね!

【明智光秀の幕府内における身分は?!】

 

明智光秀の祖とされる土岐明智氏は室町幕府の外様衆であったことはよく知られている事実だよ。

実は、この「明智」なる人物が「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書」に「足軽衆」として記載されているんだ。

「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書」は、かつて足利義輝の時代、幕臣の奉公衆などを記載した名簿であると考えられていたの。

しかし、近年の研究では「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書」の前半部分は義輝時代のもので、後半部分に関しては義昭時代のものであることが分かってきたんだ。

つまり、「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書」の後半部分の作成時期は、永禄10年(1567年)2月から永禄11年(1568年)5月の間であると指摘されているの。
光秀が義輝にも仕えていたという論者もいるんだけれど、現時点ではその可能性は極めて低いと言われているよ。

なぜなら「明智」の名が記載されているのは、義輝時代の前半部分ではなく、義昭の時代である後半部分に限定されているからなんだ。

 

レモン姫
レモン姫
いろいろな説がある中、「光源院殿御代当参衆并足軽以下覚書」が決め手になったんだね〜

 

【足軽衆とは?】

 

では足軽衆とはいったいどんな身分だったんだろう?
足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護するような実働部隊と考えられているんだ。

義輝時代の将軍は相次ぐ戦災と幕府政治の混乱によって、信頼できる若党、小姓、近習などの兵員が補充できなくなっていたの。
将軍の身辺警護をする人材が不足していて、幕臣たちがその代用に信頼できる兵員を確保するしかなかったんだよ。
そこで「足軽衆」という組織が創設され、弟の15代将軍・足利義昭にも引き継がれたのでは?と考えられているんだ。

ただ、その身分は奉公衆らの面々と比較してみても、高くはないことは明らかなんだ。
奉公衆と足軽衆では歴然たる身分差があったと考えられているよ。

足軽レモン
足軽レモン
僕たちのような身分の人たちが足軽だよ〜
足軽レモン
足軽レモン
戦では歩兵のような役割だよ!

 

【光秀は政務や戦など幅広い仕事を行っていた?!】

 

足軽衆と記載されている明智光秀だけれど、実際のところ、足利義昭・織田信長とともに上洛を果たし、将軍義昭の家臣となり、色々な仕事を任されていたと言われているよ。
光秀は幕府の京都支配の担当者として、政務に就くことになり、政務はもちろん、戦にも参加していたんだ。
また、幕臣でありながら光秀は織田家にも従属する形になっていたの。

 

足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任した翌年の永禄12年(1569年)、光秀は京都支配の担当者に任命され、織田信長の家臣とともに文書の発給を開始。
信長側の担当者は、村井貞勝、木下秀吉、丹羽長秀、中川重政らで、光秀は彼らと協力しながら、信長に支えられた義昭政権を支えていくんだよ。

光秀は義昭・信長の命令を受けて、味方に付いた若狭武田氏の「三十六人衆」に対して、武田元明への忠節を誓うよう指示するんだ。
けれど、信長と越前の朝倉義景の対立は決定的な状況となっていくことに…。

 

浅井謀反・金ヶ崎の戦いでは、光秀は木下秀吉らとともに、最後尾で敵の攻撃を防ぐ「殿」を務めて、味方を無事に退却させることに成功するなど成果を得ていくんだ。

無事に京都にたどり着いた信長は、秀吉と丹羽長秀を若狭に派遣。
光秀は、義昭の側近だった曾我助乗に出陣を伝え、業務の引き継ぎを行ったんだって。
この頃から、光秀の役割は政務から戦へと移っていったと言われているよ。

足軽レモン
足軽レモン
光秀さまが表舞台にどんどん上がっていくんだね!