新選組の初代筆頭局長・芹沢鴨について 1 ~芹沢鴨は敵に回したくない人物だった?!~
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2020年10月26日前回は新選組初代筆頭局長である芹沢鴨の性格や、数々のエピソードをまとめてみたね。
今回は、なぜ芹沢鴨が仲間である新選組内で暗殺されてしまったのか?その理由についてまとめてみよう。
目次
【芹沢鴨はなぜ暗殺されてしまったの?】
芹沢鴨は新選組の筆頭局長だったにも関わらず、同じ新選組の仲間である近藤派に暗殺されてしまうんだ。
ではなぜ、芹沢鴨は暗殺されてしまったんだろう?
新選組はもともと、芹沢派と近藤派の2つの派閥があったという話はしたよね。
近藤派の土方歳三や沖田総司は小さい頃から近藤勇を慕っていて、近藤勇についてきて新選組に加入したんだ。
芹沢鴨が新選組の筆頭局長になったところで、そのスタンスは変わらなかったそう。
芹沢鴨はリーダーシップがあったものの、酒癖が悪く、様々な問題行動を起こしていたよね。
このことに関して不満を感じていた近藤派のメンバーは多かったと言われているよ。
商家へ強引な金銭の要求をしたり、目に余るような酒癖の悪さを露呈したりと、近藤らにとって頭の痛い存在になっていたんだ。
そのため芹沢鴨は、会津藩の密命を受けた近藤派の隊士らによって粛清されていたんだよ。
また、一説には、水戸学を学び、過激な尊王攘夷思想を持っていた芹沢を危険視したとも言われているんだ。
隊内で二極化する勢力によって、芹沢鴨は暗殺されてしまうんだ。
【芹沢鴨の暗殺はどうやって行われた?!】
文久3年(1863年)9月16日、新選組は島原の角屋で芸妓総揚の宴会を開催したんだ。
その宴会が終わった後も、芹沢鴨は芸妓らと屯所の八木邸でどんちゃん騒ぎをした後、そのまま就寝したそう。
近藤派の面子は、泥酔した芹沢鴨の様子を確認した後、襲撃を開始。
同室で寝ていた芹沢鴨の妾であるお梅と芹沢派の平山五郎を殺害。
芹沢鴨はギリギリ難を逃れて、八木家一家が寝ていた隣の部屋へ裸のまま逃げこむものの、八木家の息子が使っていた机に足とられ、その隙に近藤派に切り殺されてしまうんだ。
この角屋での宴会も、屯所での飲み直しも実は、すべて近藤派による芹沢鴨暗殺計画の一部だったそう。
八木家の人達は、土方歳三がその夜に、芹沢鴨たちの様子を再三うかがっていたこと、暗殺現場に土方歳三や沖田総司などがいたことに気づいていたんだ。
そのため、土方歳三が暗殺直後に服を着替えて現場に戻って、心配を装っていたこともすべて八木家の人達は知っていたの。
近藤派の隊士が「芹沢先生を殺して証拠も残さず逃げたのは敵ながら天晴れだ」と褒めるのを聞いて、恐ろしく思ったと言い伝えられているんだよ。
当時、八木邸には野口健司、平間重助などの芹沢派がいたけれど、芸妓たちとうまく逃げることができ、そのまま行方しらずになったそう。
芹沢鴨暗殺後、芹沢派は誰もいなくなり実質解体することに。
芹沢鴨の暗殺に関しては、あくまでも表向きは長州藩の仕業とされたんだ。
暗殺2日後には、盛大に、近藤勇主で芹沢鴨と平山五郎の告別式が営われたんだよ。
【芹沢鴨が暗殺された八木邸は現存!柱には刀傷も残っている?!】
実は、芹沢鴨が暗殺された八木邸は現存していて、机など当時の配置のままで残されているんだ。
柱の刀傷もそのまま残っているから、新選組ファンなら一度は訪れておきたいスポットといえるね。
ちなみに八木邸は、京都府京都市中央区にあるよ。
邸内はガイドさんから分かりやすい説明を聞きながら見学することもできるよ。
また、すぐ近くには、同じく新選組の屯所として使われていた旧前川邸もあるので合わせて訪れてみるといいね。
ただ、前川邸は個人宅のため、内部は非公開。
一般公開は土日祝に玄関先を開放して、新選組や幕末関連のグッズを販売しているそう。
前川邸では拷問部屋や新選組総長の山南敬助が切腹した部屋も残っているんだって。
毎年3月に山南忌の時に公開されているので要チェックだね。