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2020年10月21日新選組の初代筆頭局長・芹沢鴨について 2 ~芹沢鴨はなぜ近藤派に暗殺されてしまうの?!〜
2020年10月21日
新選組の初代筆頭局長と言えば「芹沢鴨(せりざわ かも)」だよね。
新選組ファンであれば、芹沢鴨の名前は一度は聞いたことがあるはず!
芹沢鴨は短気で粗暴、すぐにキレて暴れ出すという強烈なキャラというイメージが強いんだ。
けれど、水戸藩の武士階級出身で教養のある人物だった芹沢鴨は人のよい一面もあったんだよ。
ここでは、新選組が結成されてわずか半年後には近藤派に暗殺されてしまう芹沢鴨についてまとめてみよう。
目次
【芹沢鴨はどんな人物だった?】
芹沢鴨の出自に関しては謎に包まれているんだけど、水戸藩郷士の芹沢家の出身であるとい説が濃厚なんだ。
文武両道で知られている芹沢鴨は、若い頃に水戸藩校・弘道館で水戸学を学んだからと言われているよ。
芹沢鴨というのは実は本名ではないんだ。
そう名乗る前は多賀郡松井村の神官である下村祐斎の婿養子となって、下村嗣次と名乗っていたよ。
芹沢鴨は新選組として発動する以前は天狗党という団体に所属していたの。
この天狗党は、黒船時代から海外の侵略を防ぐ思想である「尊皇攘夷」の名の元に活動していた団体で、お金を巻き上げたり、暴力に訴えたりと好き放題に行っていた団体だったんだ。
評判の悪かった天狗党の活動は、幕府や水戸藩内の反対勢力に問題視されて、水戸藩は天狗党を弾圧することに。
1851年に芹沢鴨ら天狗党の幹部は献金強要の罪で死刑が確定してしまうんだ。
芹沢鴨は拘束された後、処刑を待つ日々を送っていたものの、その間に政府の世論がかわり、2年後に釈放されることに…。
この時に「下村嗣次」から「芹沢鴨」に名前を変えたと言われているよ。
【新選組はどうやって結成された?】
芹沢鴨は釈放から2ヶ月後に、江戸にて清河八郎の「将軍をお守りする」という呼び掛けに新見錦など他同郷の仲間と参加することに。
この呼びかけには芹沢鴨意外にも多数の浪士が集まり、同じ志の中、一行は京都へ向かうことになったの。
しかし、呼びかけをした清河八郎は「将軍をお守りする」というのは建前で、「天皇の配下として遣わせるため」という理由で浪士たちを集めていたんだ。
その事実が発覚し、浪士たちは騙されたと意見が割れることに。
そのまま配下として付いていった者もいれば、清河八郎の計画を阻止するために江戸にもどった者、京都にそのまま残って当初の志通りに「将軍をお守りする」役目を果たそうと新しく組を結成した者などがいたんだ。
京都にそのまま残って「将軍をお守りする」ために新しい組を結成したのが「芹沢鴨」だったんだよ。
芹沢鴨以外にも、この選択をした浪士はおり、それが近藤勇・土方歳三・沖田総司が所属する「近藤組」だったんだ。
芹沢組と近藤組は同じ志を持ち「新選組」と名乗るようになったんだよ。
【新選組初代局長となった芹沢鴨】
芹沢組と近藤組は壬生村で屯所を構え、活動していたために「壬生浪士組」と呼ばれるようになったんだ。
同じ志で結成され「新選組」となったはずの2組だったけれど、出身が同じ者たち同士の方が気心が知れていたからか、1つの組になっても「芹沢派」と「近藤派」で分かれていたんだ。
さらに屯所に関しても、壬生村内の八木邸でお世話になっていた芹沢派と、前川邸でお世話になっていた近藤派という形で拠点も2か所に分かれていたんだよ。
その後、新選組は隊員を募集して、少しずつ大所帯になり京都の警備を任されるまでに成長。
この頃には、隊の規則や役割を決めようということになったんだ。
そこで、隊の役職が
筆頭局長:芹沢鴨
局長:新見錦、近藤勇
副局長:土方歳三、山南敬助
となったよ。
局長は3人いて、その中で筆頭局長になったのが芹沢鴨だったんだ。
【敵にしたくない芹沢鴨の性格とは?人情厚い部分もあった?】
芹沢鴨のに関しては暗殺されるだけの行いをしていた、粗暴な人柄であったというイメージが強いかもしれません。
しかし芹沢鴨はそのような悪い性格なだけではなかったんだ。
今回は、芹沢鴨についてエピソードをいくつかまとめてみるね。
<剣の使い手として知られていた>
新選組は剣豪揃いと言われているよね。
その中でも芹沢鴨はかなりの剣の使い手で、神道無念流の戸賀崎熊太郎に剣を習い、免許皆伝を受け、師範代を務めていたんだ。
カ士を斬り捨てたという事件では肩からへそまで一刀両断し、その斬り口はあばらを砕くほど凄まじかったと言われているよ。
<いつも酒を飲んでいた?!>
芹沢鴨は酒豪としても知られているんだ。
昼から酒を飲み、酔っていなかったことはないと言われるほどだったとか。
酒で問題を起こすことも多く、隊士らは頭を抱えていたんだ…
芹沢鴨は背が高く大柄な体格で、剣の腕前は師範代レベルだったの。
そんな彼が酒に酔って暴れたら、誰も止められる人はいなかっただろうね…
<数々の問題を起こしていた>
芹沢鴨は新選組の結成当時から暗殺されるまで揉め事が尽きなかったと言われているんだ。
1863年2月には、浪士隊上洛の途中、近藤勇のミスで宿所がなかったそう。
この失敗に激怒した芹沢鴨は児玉郡本庄宿の路上で大たき火を焚いたんだって。
また、同年6月には新選組に対して道を譲らなかった力士の態度に腹を立てて力士を斬り捨てた「大坂力士との乱闘事件」や、酒の席で泥酔して大暴れして一方的に店主に対して7日間の営業停止を申し付けた「島原角屋での暴挙」も起こしたよ。
8月には御所警備の隊士を率いて出動していた芹沢鴨に対して、御門を固めていた藩士は壬生浪士を知らなかったため槍を構えて通さなかったそう。
しかし芹沢は大笑いしながら進み、藩兵が槍を突きつけると鉄扇で煽ぎ対抗。
駆けつけた軍奉行によりその場は収またものの、悠然と門を通り抜ける芹沢の豪胆さに人々は驚いたと言い伝えられているんだ。
さらに9月には自分になびかない吉田屋の芸妓・小寅に立腹し、店の主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓を断髪させた「吉田屋の芸妓断髪事件」も起こしているよ。
無茶な行為をたくさんしでかしていた芹沢鴨は、キレると手の付けられない性格だったことが良く分かるよね。
<子供たちに慕われていた?面倒見のいい性格だった?>
芹沢鴨は屯所として世話になっている八木邸にて葬式があった時は受付を引き受けたそう。
また、子供たちが退屈しないよう面白い絵を描いて一緒に遊んだり、面倒を見たりという一面もあったんだって。
屯所内では子供たちに慕われていたという説もあるんだよ。
乱暴だが教養があり人情が厚い兄ちゃんというイメージがぴったりかもしれないね。
次回は、芹沢鴨がなぜ暗殺されてしまったのか、そのいきさつについてまとめてみよう。