一文字則宗 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
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2021年6月10日
目次
【村雲江の歴史と概要】
村雲江(むらくもごう)は天下三作の1人でもある越中国の刀工・郷義弘が作ったとされる日本刀なんだ。
享保名物帳の原本には村雲江の記載は見られないものの、追加の部所載で「村雲郷 磨上長二尺二寸二分 代金三百枚 松平美濃守殿」と記されているよ。
このことから、後世になってから追記したものだと言われているの。
次に村雲江の来歴についてまとめてみよう。
<豊臣秀吉>
元々村雲江は、豊臣秀吉が所持していたんだ。
本阿弥光徳が江州から掘り出してきた村雲江を秀吉に見せたところ、たいそう気に入り秀吉のものになったと言われているよ。
<前田家>
秀吉のもとにあった村雲江はその後、加賀国の前田家へと伝わるんだ。
<徳川将軍家>
加賀国・前田家から徳川将軍家へ献上。
この時、将軍家は5代将軍・綱吉の時代であったよ。
徳川実記の元禄15年(1702年)4月26日に、将軍・徳川綱吉が加賀藩主・前田綱紀の江戸屋敷に臨んだときに、前田綱紀は将軍・綱吉へ、備前長光の太刀、会津新藤五(新藤五国光)の短刀とともに、「郷義弘の刀」を献上していたと伝えられているの。
その郷義弘の刀が村雲江だったのと推測されているよ。
<柳沢家>
徳川5代将軍・綱吉は村雲江を寵臣であった柳沢吉保に与えたと言われているよ。
そこから柳沢吉保家に伝わるよ。
享保名物帳編纂時は柳沢家(松平美濃守)所有となっているんだ。
しかし、柳沢家における記録については将軍・綱吉から柳沢吉保・吉里父子が村雲江の刀を拝領したという記録がないんだ。
また柳沢に伝わる刀剣台帳である「御腰物帳」にも、村雲江の名もみることができないし、村雲江ではないか?と思われる郷義弘の刀もないんだ。
柳沢家では明治4年(1871年)7月に廃藩になると、10月には早くも刀剣の処分を始め、売立に出したといわれているよ。
明治5年、廃藩置県のさいに調製した「御腰物台帳」には、「御刀 郷義弘 無銘 折紙有リ(御残シ)」と記された江義弘の刀が1振のみ記されているんだ。
<窪田平兵衛>
10本1束にまとめて、それを12、13束と売りに出された村雲江を越後新発田の旧藩士であった窪田平兵衛が手に入れたんだ。
そのうちの1本を本阿弥家に鑑定に出したの。
本阿弥家においては平十郎・成善・長識ら集まりが審査したが、誰も、村雲江が郷義弘とは気付かなかったそう。
そして本阿弥家の「留帳」を調べてたところ、それが「村雲江」であるとことが初めて分かったと言われているんだ。
<伊藤悌治>
窪田平兵衛は明治20年(1887年)頃に、大審院評定官の伊藤悌治に250円で売った。
<高木復>
伊藤悌治の死後、遺族が村雲江を処分・売却した後は高木復のもとに伝わるよ。
<内田良平から瀬戸保太郎へ>
その後、高木復から内田良平へ渡るんだ。
内田良平は旧福岡藩士で武芸の達人として知られた内田良五郎の三男。
昭和7年(1932年)の血盟団事件、昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕とされている人物なんだ。
さらに内田良平から関西の広告主と称された瀬戸保太郎の所持となるよ。
昭和9年(1934年)12月20日に重要美術品指定、この時は瀬戸保太郎氏の所持。
<中島喜代一氏→島田和昌氏→田口儀之助氏>
昭和17年(1942年)時点では、中島喜代一氏の所持。
昭和27年(1952年)3月29日に重要文化財指定され、その時点では島田和昌氏が所蔵。
昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では田口儀之助氏が所持。
現在は個人蔵となっているよ。
【村雲江の作風】
長さ:二尺二寸三分(67.56cm)、反り:七分(2.12cm)、元幅:九寸五分(2.87cm)、先幅:六分三厘(1.9cm)、元重ね:二分(0.6cm)、先重ね:一分五厘(0.45cm)、鋒長さ :一寸(3.03cm)、茎長さ:五寸四分五厘(16.51cm)、茎反り:僅か
形状は、鎬造、庵棟で中反りやや高くつき、重ねは頃合いで鋒は中鋒で猪首ごころである。
鍛えは、板目流れ柾交ってつみ、地沸よくつく。
刃文は、直刃ごころに浅くのたれ、互の目交じり、小足入り、沸よくつき、砂流しかかり、匂口冴える。
彫物は表裏棒樋をかき流す、鋩子は一枚風。帽子は、小丸、先掃かけごころあり。茎は、大磨上げ、先切、鑢目勝手下り、目釘孔は四個。
【村雲江の豆知識】
村雲江のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<村雲江の名前の由来とは?>
村雲江という名前は豊臣秀吉が名付けたと言われていて、村雲とは刀身の「沸」の出来のことなんだ。
ある時、本阿弥光徳が持ってきたこの刀を見た豊臣秀吉は、刃紋(刃と地の間)にある沸を見て「まるで叢雲のようだ」と言ったそう。
このことから、この刀は村雲江と呼ばれるようになったんだ。
ちなみに「叢雲(むらくも)」とは湧き出てくる、群がり集まった雲のことで高積雲の通称だよ。
<村雲江を掘り出してきた本阿弥光徳とは?>
村雲江を掘り出してきた本阿弥光徳は、刀剣の鑑定や研磨を行う本阿弥宗家の第9代目になるよ。
豊臣秀吉は本阿弥光徳に折紙(鑑定書)の発行を許可したんだ。
この折紙とは、刀剣に価値を付けるもので、現在の鑑定証明書とは違ったの。
光徳は秀吉から刀剣鑑定所を免許され、この後江戸期になっても本阿弥家が代々世襲することになるよ。
<村雲江を作った郷義弘とは?>
村雲江を制作したのは、南北朝時代の越中の刀工・郷義弘だよ。
郷義弘は正宗十哲の1人にも選ばれている名声高い刀工であり、相州正宗、粟田口吉光とともに天下三作の1人でもあるんだ。
名は松倉郷右衛門で、はじめは義広と言い、善広と改めたのちに義弘と名乗ったよ。
出自に関してはよくわからない部分が多くて諸説あるんだ。
郷義弘は師である相州正宗と同じく銘を切らないのが特徴。
義弘の在銘作は皆無で、「郷とお化けは見たことがない。」と言われるほどなの。
そのため偽物が大量に出回っているんだ。
郷義弘の作刀は、全ての日本刀の中でも最も入手困難と言われているんだよ。
村雲江の他にも、数多くの国宝、重要文化財があるんだ。
郷義弘の初期の作品には古い流派である大和伝(奈良)、山城伝(京都)の影響が見られるんだけど、師である正宗に師事した後は相州伝(鎌倉)を基調としているよ。
上品で明るく冴えわたる作風が特徴で、ひときわ美しさを増しているんだ。
また刃文にも郷義弘の美的感覚が反映されており、立山連峰の風景が描き出されている日本刀もあるんだよ。
義弘の刀は、戦国時代の武将からも人気が高く好まれていたそうで、そのほとんどは秘蔵の宝刀として人目に触れる機会がなくなったそう。
郷義弘の刀は各地を転々とするうちに、その多くが焼失したり、逸失したりしてしまったんだ。
郷義弘作の日本刀として、明智光秀の愛刀剣として伝わる「倶利伽羅江」があるよ。
この倶利伽羅江もまた、戦乱の世で行方不明になってしまい、その後の消息は分かっていないんだ。
<村雲江を徳川将軍5代・綱吉から譲り受けた柳沢吉保は水戸黄門にも登場する人物?>
徳川将軍5代・綱吉から寵愛を受けた側用人・柳沢吉保は、元禄時代には老中以上の権勢をふるった人物として知られているよ。
また柳沢吉保はドラマ「水戸黄門」に登場する人物としても有名で、作中では事件・策略における黒幕として暗躍し、水戸光圀一行と対立する悪役という立ち位置になるんだ。
1658年、上野国舘林藩士の長男として生まれた柳沢吉保は18歳で家督を継いだ時には530石だったの。
当時、舘林藩主であった徳川綱吉に小姓として仕えるようになるよ。
1680年、綱吉が将軍に就任すると、柳沢吉保は将軍の傍近くに仕える「小納戸役」になったんだ。
1688年には、将軍と老中を取り次ぎする「側用人」に抜粋されたよ。
この側用人は、徳川綱吉が最初に設置した役職であり、老中と同じ、もしくはそれ以上の待遇を受けることもあったの。
側用人となった柳沢吉保の石高は1万2,000石になり、見事に大名の仲間入りをしたんだ。
1694年には川越藩主となり7万2000石の石高となるよ。
待遇も老中格から老中上格になり、1701年には綱吉の名から一字を与えられ、この頃から「吉保」と名乗るようになったと言われているんだ。(それまでは「保明」と名乗っていたよ)
さらに柳沢吉保は出世街道をのぼりつめていくよ。
これまで将軍一門しか治めることがなかった甲斐(現在の山梨県)の領地替えとなり、石高は15万石にもなったんだ。
1709年に徳川綱吉が死去すると、柳沢吉保は長男に家督を譲り隠居生活を送ることになるよ。
元々は小姓で530石の石高しかなかった柳沢吉保が、隠居前には15万石にもなっていたんだ。
収入は約300倍にも増えており、下級役人から大名までのし上がったことがよく分かるよね。
<なぜ柳沢吉保はドラマや小説で悪役として登場するの?>
柳沢吉保がドラマや小説の中で悪役として登場するのは、徳川5代将軍・綱吉に寵愛を受けたからなんだ。
将軍綱吉は生類憐みの令を出したり、幕府財政を悪化させたりするなど「悪政」と呼ばれた政治を行っていたの。
そんな評判の悪い綱吉のもとで立身出世を遂げた柳沢吉保は、批判的な目で見られがちなんだ。
側用人であった柳沢吉保は、将軍・綱吉にとってお気に入りの重臣であり、将軍・綱吉のそば近くにいて、将軍の意向を老中に伝えたり、老中からの意見を将軍に伝えたりする役割を果たしていたの。
老中にとっては側用人である柳沢吉保の機嫌を損ねてしまうと、自分たちの悪口が将軍に吹き込まれるため、ないがしろにできなかったんだ。
身分としては老中よりも格下であったものの、結果的には側用人は老中よりも大きな権力を持つことになっていくの。
将軍にとっても、口うるさい老中からは距離を置いて、独裁的な政治を行うことができたため、側用人という役職はわがままな性格であった綱吉にとっては好都合だったんだ。
このような経緯から柳沢吉保は、ドラマや小説などで悪役として描かれることが一般的になっているよ。
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刀剣男士と共に―いざ出陣!
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