大千鳥十文字槍 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月27日一文字則宗 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年5月30日
目次
【泛塵の歴史と概要】
泛塵(はんじん・ちりはらい)は室町時代に作られたとされる脇差で、真田幸村(信繁)の差料とされているよ。
ただ現在は行方不明になっているんだ。
泛塵の作者は、越中で活躍した越中宇多派の刀工・宇多国次だよ。
泛塵は真田幸村の脇差として、大坂夏の陣まで共にあったと言われているんだ。
幸村が使用していた愛槍・大千鳥十文字槍と泛塵はいつも一緒にあった可能性が高いよ。
次に泛塵の来歴をまとめてみよう。
<真田幸村(信繁)>
泛塵は、中心に金象嵌で「泛塵 真田左衛門帯之」とあるんだ。
泛塵の金象嵌(金で銘文を嵌入した物)銘から、真田幸村が佩用していたとされているよ。
また堀川国弘が磨り上げたとされているよ。
<紀州高野山から売りに出される>
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で真田幸村の死後、14年間過ごしていた紀伊国(和歌山県)の紀州高野山(伊都郡高野町)から売りに出されたよ。
<伊藤蘭嵎>
その後、江戸時代中期から後期にかけて紀州藩にて儒者として仕えた刀剣愛好家の伊藤蘭嵎が、泛塵を所持し差料としたんだ。
紀州藩主の四男で養子として三河国挙母藩藩主となる内藤学文に、伊藤蘭嵎が儒書を講義したの。
その際、内藤学文は泛塵を所望されたけど、蘭嵎は涙を流して「いやしい身の佩刀をご所望とはありがたいことでございますが、忠臣智勇の人の佩刀などではなく、真田幸村は(徳川方に)敵対した者でございます」などと述べ、献上の求めは撤回されたと言われているよ。
内藤学文は儒学を愛好し、紀州藩にいた頃は蘭嵎らに師事していたんだ。
<野呂介石>
伊藤蘭嵎の死後、その息子である伊藤亦蘭が泛塵を「高野山の方」に質に出したんだ。
それを画家で紀州藩士であった野呂介石が買い求め、所持したよ。
野呂介石は、10歳頃に伊藤蘭嵎に師事したことがあった人物なの。
介石の友人である橘南谿は、随筆「北窓瑣談」に泛塵のことを記しており、その中で「真田幸村は武略のみと思いしに、泛塵の二字風流の銘なり」「此脇差高野山より出で、伝来正しき宝刀なり」などと述べているよ。
なお、野呂介石より後の所有者や、現在の存否に関しては分かっていないんだ。
【泛塵の作風】
刃長は一尺六寸~七寸(48.5cm~51.5㎝)と言われていて、中反り、常体、菖蒲造りで、刃文は広直刃であるという。
無銘であるものの、中心に金象嵌銘で、表に「泛塵 真田左衛門帯之」と彫られており、表銘は草書、また「泛塵」の下に目貫穴があったんだ。
また裏には「宇多国次作国広上之」と入っていて、これは堀川国広が磨り上げたことを示しているよ。
表銘は草書、また「泛塵」の下に目貫穴があったんだ。
【泛塵の豆知識】
泛塵のエピソードや豆知識をまとめてみるね。
<泛塵の名前の由来とは?>
泛塵という号の由来は、「南紀徳川史」によると、泛塵は「ちりはらい」と読み、水の流れに刃を向け、水上から塵を流すと刃に振れた塵が両断されて流れるという意味だと言われているよ。
また、別の説としては、昭和以降に活躍した刀剣研究家・福永酔剣が、泛塵は「はんじん」と読んだ上で、「泛塵は浮塵と同じで、人の命は空中に浮かぶ塵のように、はかないものと達観した心境の表現であろう」と見解しているよ。人の命のはかなさを空中に漂う塵と重ね合わせた心境を表現したのが「泛塵」だったという説なんだ。
泛塵の泛は「浮かぶ、漂う」という意味で、塵は「チリ」のことだよ。
ちなみに浮塵とは、ユスリカという昆虫の別名で、蚊に似ている昆虫なんだ。
ただ蚊のように血を吸うことはなく、口が退化しているため餌が食べられずわずか数日のはかない命という不思議な昆虫なの。
<泛塵を制作した刀工・宇多国次とは?>
泛塵は、越中で活躍した越中宇多派の刀工・宇多国次によって作られたとされる脇差だよ。
宇多派は大和国宇陀郡で活動していた古入道国光が越中に移住したことから端を発した刀工一派なの。
鎌倉時代後期の文保頃(1317年)の古入道国光を祖とするんだ。
宇多国光が郷里を示すために「宇多」と全てに二字銘を切ったことから、「宇多派」という名がついたものとされているよ。
国光に「建武二二年五月日 越中国吉岡庄住宇多国光」と切った太刀があり、この吉岡庄とは五位庄(現在の富山県西砺波郡福岡町三日市)の古名なんだ。
国光は五位庄三日市(現在の富山県高岡市福岡町三日市)に居を構えて、後世の宇多派の刀工も越中を拠点に活躍していたんだ。
古入道国光は越中にくだると「宇ノ津」または「宇野津」と号したと言われているよ。
しかし銘には全て「宇多」で、「宇津」と切ったものは見られないんだ。ちなみに「宇津」は地名(魚津のことを「ウツ」と呼んでいた)と言われているよ。
その他、宇多派の一門であった宇多国宗は新川郡大田庄本郷(現在の富山市大田本郷)に居を構えていたよ。国宗が「大田保住」と切ったのも、ここの地名のことであると言われているんだ。
越中宇多派の作風は、応永年間(1394年)以前に作られた古宇多物は小杢目肌に平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見える「地沸」がついた上品な直刃が特徴なの。
一方で応永年間以降の作刀においては、鍛えは柾目交じりに粕立ち、刃文はこれまでの直刃の他に、互の目交じりもあるが、刃文の一部が乱れ、刃文が崩れてはっきりしない「焼き崩れ」などもあり、下品であると言われているよ。宇多物の多くは、応永年間以後の作になるの。
また、刀身の棟側にも焼きが入ってしまう「棟焼き」が多いことも目障りとなると、低く評されているんだ。
宇多国次は同一銘を使った刀工が複数存在しているの。
南北朝時代の延文年間に活躍した古入道国光の子もしくは弟ともいわれる宇多国次や、安土桃山時代の天正年間に作刀していた宇多国次まで多岐にわたるよ。
なお、泛塵を作刀した「宇多国次」がどの時代の宇多国次であるかは判明していないんだ。
<大坂夏の陣まで大千鳥十文字槍とともにあった泛塵>
泛塵は真田幸村の愛刀として知られているんだけど、大坂夏の陣で幸村が討ち取られるまで手元にあったと言われているよ。
また幸村は槍の名手としても名高く、幸村愛用の槍と言えば朱塗りされた大千鳥十文字槍が有名だよね。
泛塵は、この大千鳥十文字槍とともに、幸村に佩用されていたと言われているんだ。
泛塵は大坂の陣で真田幸村が佩用していた刀としても有名だよ。
ここでは泛塵の所有者でもあった真田幸村が、大坂の陣でどのような活躍を見せたのか?についてまとめてみよう。
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康にとって、最後に残った課題が大坂城を居城としていた豊臣秀頼の存在だったんだ。
家康にとって大坂冬の陣・夏の陣は、様々な手段を講じて、大坂方を決戦の場へ招き入れて、豊臣家を排除するための天下取りの総仕上げだったんだ。
・なぜ大坂の陣が起こったの?
慶長5年(1600年)年9月27日、徳川家康は大坂城において秀頼とその母淀殿に対面し、関ヶ原の合戦における勝利を報告したの。
現状は家康が天下を獲ったに等しく、慶長8年(1603年)には家康は征夷大将軍に任命されるよ。
この頃は、まだ豊臣家への忠誠の姿勢をもつ大名も多く残っていたため、家康は豊臣家壊滅のチャンスをじっとうかがっていたんだ。
その引き金となったのが慶長19年(1614年)の「方広寺鐘銘事件」だよ。
方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文字が、徳川家を冒涜し豊臣家の繁栄を願うものであるとし、方広寺の落慶法要を無期限で延期させたんだ。
秀頼の守役・片桐且元は、徳川家康のもとへ釈明に遣わされるものの、秀頼と淀殿の不信を買い、家康と内通していると嫌疑をかけられてしまうの。
実はこれは全て家康の策略であり、その策略にまんまとはまってしまったというわけ。
秀頼は家康の提示した交渉に応じず、片桐且元は大阪城を追われ武装の上茨木城に籠城。
これがきっかけで、家康が秀頼を討つ大義名分となったんだ。
・大坂冬の陣での真田幸村の活躍とは?
慶長19年(1614年)徳川氏との関係悪化から、戦いの準備を始めた豊臣家は浪人を募り、真田幸村は流刑先であった九度山を脱出。
真田旧臣や嫡男・真田幸昌を連れて大坂城へ駆け付けたよ。
さらに、幸村入城の声を聞き付け、総勢5,000人ほどが幸村軍として集結したと言われているの。
大坂冬の陣では、真田幸村は五人衆に選ばれ軍事会議に参加したんだ。
大坂城籠城に反対するものの、真田幸村は徳川方に寝返るのでは?と警戒されていたため、幸村が提案する策はことごとく却下されてしまったの。
その中で唯一許されたのが、大坂城の弱点である南側に土作りの出城を作るという案だったんだ。
これが世に名高い「真田丸」だよ。
真田丸周囲には三重の柵を設けて、さらにその周りに深い空堀、正面には水堀と、何重もの防御を持って堅固な出城を作ったんだ。
また後方は、大坂城への侵入を防ぐだけでなく、後方から狙われても対処できるように小曲輪を設置。
幾度もの戦を経験してきた真田幸村の集大成ともいえるものだったんだよ。
この真田丸は大坂冬の陣で大活躍。
幸村は徳川方の前田氏などを引き付けては反撃し、大きなダメージを与えることに成功。
浪人の集まりで統率が取れない豊臣方が次々と敗北していく中で、真田幸村の真田丸での戦いは見事だったんだ。
これによって真田幸村の武名を天下に知らしめることになるんだけど、徳川方主導で和議が成立したの。
徳川方により、大坂城は本丸以外を破却、堀がすべて埋め立てられ、真田丸も破壊されてしまうんだ。
つまり、大坂城は防御の城としてはほとんど機能しない状態になってしまうよ。
・大坂夏の陣
大坂冬の陣で真田幸村の活躍を見た徳川家康は、真田信之を通じて幸村に「信濃一国」を条件に寝返るよう誘ったんだ。
しかし、誘いを受けた幸村はこれを拒否。
この頃、幸村はすでに豊臣方の負けを覚悟していたと言われているんだ。
親族などに、負けると分かっていながらそれでも豊臣方に付くことを詫びる手紙を書き送っているの。
大坂夏の陣では、先の戦で大坂城がほとんど防御機能を失ってしまったため、豊臣方は野戦に持ち込むしかなかったんだ。
徳川率いる東軍15万人ほどに対し、豊臣率いる西軍は80,000人ほどで、圧倒的な軍数の差があったよ。
それでも真田軍の士気は非常に高く、真田幸村軍と毛利勝永軍は、徳川方の伊達政宗軍に誉田陵まで迫られるものの反撃し、じわじわと後退させるんだ。
しかし真田幸村らの奮闘むなしく、西軍は敗北を重ねて次々と東軍の手に落ちてしまうよ。
遂には大坂城の本丸のみが残される形となってしまうんだ。
死を覚悟した真田幸村軍と協力する毛利勝永軍らは、幸村の提案により5人1組の3隊に分離。
敵本陣の守りを手薄にするために、正面と左右に分かれて攻撃しながら集結して攻撃を繰り返す戦法を取ったよ。
この戦法により真田幸村率いる真田隊は徳川家康の本陣まで攻め込むと、あと一歩のところまで徳川家康を追いこむんだ。
この時、徳川家康は2度も自害を覚悟したと言われていて、それほど真田軍の勢いは凄まじかったんだよ
しかし、すでに多くの兵を失った真田幸村は徳川家康の首を取ることは叶わず、徳川方の援軍の前で力尽きるんだ。
結局、大坂夏の陣も東軍の勝利に終わり、豊臣家はこれによって滅亡、徳川家の時代が始まるの。
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