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2021年3月16日新撰組九番隊組長を務めた鈴木三樹三郎は剣術が苦手だって本当?鈴木三樹三郎の気になるエピソードまとめ
2021年3月18日
新撰組の九番隊組長と言えば鈴木三樹三郎。
鈴木三樹三郎は、新撰組を脱退して御陵衛士を結成した伊東甲子太郎の弟として知られているよね。
鈴木三樹三郎は新撰組の九番隊の組長を務めていながらも、新撰組がテーマの小説、ドラマ、映画などの作品ではことごとくその存在自体がスルーされがちなんだ。
そんな地味な存在である鈴木三樹三郎はどんな人物なんうだろう?
ここでは鈴木三樹三郎についてまとめてみよう。
目次
【鈴木三樹三郎の幼少期】
鈴木三樹三郎は常陸志筑藩郷目付鈴木専右衛門次男として誕生したんだ。
名は多聞、母こよ、兄大蔵、姉こと、妹よしという名前であったよ。
大蔵は、のちの伊東甲子太郎のことなんだ。
鈴木三樹三郎が幼少期に、父が家老の横手惣蔵と対立してしまい、閉門・蟄居を申し付けられてしまったの。
さらに父は、閉門中に脱藩して、高野山へ出家してしまうんだ。
本来であればお家断絶のところ、兄・大蔵が家督相続を許されたものの、父が借金をしていたことが発覚し、一家は志筑を追放されることに…。
父方の祖母の実家に身を寄せることになり、鈴木三樹三郎は兄とともに村塾に通ったとされているよ。
その後、父は高野山本王院のとりなしで許され、志筑近郊の高浜村大橋に戻って村塾を開いたんだ。
【父の死後、村塾を継ぐ】
鈴木三樹三郎が16歳であった嘉永5年(1852年)に、父が亡くなり、跡を継いで村塾で教えることになったの。
しかし「楠多聞丸」という旗を掲げて村の子供と合戦ごっこばかりやっていたため、村塾の生徒は激減。
ついに村塾は閉鎖になってしまったんだ。
それからしばらくして鈴木三樹三郎は筑藩中小姓格寺内増右衛門の養子に迎えられるよ。
そこで山林取締役兼御朱印番につくんだ。
しかしここで鈴木三樹三郎は酒好きで毎晩のように酒を飲んでいたそう。
養父は酒を好まず、結局、酒がもとになって鈴木三樹三郎は離縁されてしまうんだ。
寺内家を離縁されたものの、鈴木三樹三郎は鈴木家には戻れず三木荒次郎と改名。
酒飲みの同僚とつるんで、仕事をさぼるなど、藩則をしばしば軽視していたためにお役御免となってしまったそう。
【尊王攘夷運動に奔走した鈴木三樹三郎】
尊王攘夷運動に奔走するために脱藩した鈴木三樹三郎は、江戸深川の道場主であった兄・伊東甲子太郎の元に身を寄せることに。
この頃、桜田門外の変が起き、浪人に対する詮議が厳しくなったため、鈴木三樹三郎は江戸を離れ数年間、常陸国多賀郡で隠棲していたんだ。
元治元年(1862年)天狗党の乱の際には、兄・伊東甲子太郎の探索依頼を受けて志筑に戻ることになるよ。
志筑に戻る途中に、土浦の桜井旅館で偶然天狗党とかち合ったものの、お互いに警戒して言葉を交わさなかったと言われているよ。
その後、天狗党が志筑を通らずに去り、鈴木三樹三郎も志筑にとどまる理由が亡くなったため、江戸にもどることになるんだ。
【新撰組への入隊、九番隊組長に任命】
鈴木三樹三郎が江戸にもどった頃、兄・伊東甲子太郎の弟子であった藤堂平助が新撰組入隊の勧誘のために、伊東道場を訪れたんだ。
伊東甲子太郎は新撰組幹部となる近藤勇と話し合い、同志とも相談の結果、状況を決意。
鈴木三樹三郎もまた兄・甲子太郎に従い、1864年10月15日に同志らとともに加入希望者として上京のために江戸を出発したんだ。
ちなみに鈴木三樹三郎は、この時から三木三郎と名乗るようになるよ。
京都に着くと、甲子太郎らとともにしばらく近藤勇の妾宅で遊食したとされているんだ。
1865年夏に行われた新撰組の新編成では、新選組九番隊組長に任命。
また6月には目付(監察)として下坂していて、大坂天満宮総代にその丁重さを感心されているよ。
【新撰組在隊中の事績はあまりない?】
新撰組九番隊組長を任された鈴木三樹三郎だったけれど、新撰組在隊中の事績についてはあまり伝わっていないんだ。
生き残りの御陵衛士の史談によると、鈴木三樹三郎は上京してから、各地に出張して情勢を探ったり、新撰組の同志を求めたりしていたと言われているんだ。
【新撰組を脱退、御陵衛士となる】
鈴木三樹三郎は慶応3年(1867年)3月、兄・伊東甲子太郎らとともに新撰組から離脱。
その後、孝明天皇の御陵がある泉涌寺の塔頭戒光寺の長老湛念の周旋で、御陵衛士を拝命するよ。
御陵衛士は高台寺党とも呼ばれていたの。
この頃、鈴木三樹三郎は三樹三郎や三木和泉と称するようになるんだ。
慶応3年(1867年)8月には伊東甲子太郎、斉藤一、藤堂平助らと連名で議奏柳原前光と老中板倉勝静に長州寛大処分の建白を提出しているよ。
後半は鈴木三樹三郎の兄・伊東甲子太郎が暗殺された油小路の変と、生き延びた鈴木三樹三郎のその後についてまとめてみよう。
新撰組九番隊組長・鈴木三樹三郎は、兄・伊東甲子太郎が油小路の変で暗殺された時も生き延び、戊辰戦争にも赤報隊として出立したよ。
ここでは新撰組を離脱してからの鈴木三樹三郎の人生をまとめてみよう。
【油小路の変で生き延びた鈴木三樹三郎】
慶応3年(1867年)11月18日、近藤勇に呼び出された兄・伊東甲子太郎は、酒を飲み帰宅途中に七条油小路で新撰組に暗殺されたんだ。
遺体はそのまま七条油小路に放置され、その知らせを受けた御陵衛士の同志たちは騒然となるよ。
鈴木三樹三郎は伊東甲子太郎の実弟なので「自分が単身で迎えに行けばいい!万が一近藤の術中に落ちれば後日仇をとってくれ」と同志に頼んだそう。
しかし、残りの同志たちは鈴木三樹三郎を見捨てることはできないと、ことごとく駈け出そうとしたんだ。
武装したまま路上で討死すれば臆病者と笑い者になるからと、一同は平服でいくことになったよ。
油小路に急行した御陵衛士たちは、待ち伏せしていた新撰組隊員数十名に包囲され、死闘が繰り広げられたんだ。
この戦いによって、元新撰組八番隊組長・藤堂平助、服部三郎兵衛、毛内監物の3名が討死してしまうの。
鈴木三樹三郎は西側の敵と戦っていたものの、これを斬りぬけて、一条通りを北に逃走中に、包囲を脱してきた加納鷲尾と薩摩藩出身の富山弥兵衛らと合流。
夜3~4時頃には今出川の薩摩藩邸に到着したが、門番がなかなか起きてくれず、再三門をたたいて起こしたそう。
その後、篠原、阿部、内海らも今出川藩邸で保護されて、生き残った彼らは伏見薩摩藩邸に移されることになるの。
【赤報隊として戊辰戦争に参加】
慶応4年(1868年)1月3日、鈴木三樹三郎は、かねてから親交のあった典薬寮の山科能登之助とともに、新政府参与大原重徳の息子である前侍従綾小路俊実を訪ねたよ。
そこで、江州挙兵への助力を乞われ、具体策を相談したそう。
その最中に伏見方面に火の手が上がったのを見て、急いで藩邸に戻ったものの、既に出陣の後だったの。
急いで伏見に向かい、同志らとともに薩摩一番隊に属して鳥羽伏見の戦を戦ったよ。
翌4日には、鈴木三樹三郎が左手に銃弾を受けて負傷したため、京都の今出川藩邸に戻ったんだ。
5日には藩邸を山科が訪れ、挙兵決行を催促。
6日、鈴木三樹三郎は西郷隆盛らに計画を打ち明けて、西郷隆盛からは金子と小銃を融通してもらったと言われているんだ。
夕刻、淀の戦場から戻ってきた同志らとともに今出川藩邸を出発し、洛北で綾小路や山科と合流。
そこへ山科の同志である江州水口藩士・油川錬三郎らが駆けつけて、総勢20人ほどで京都を脱して江州へ向かうんだ。
7日には、相楽総三ら薩摩藩江戸藩邸浪士である相楽派や別途挙兵を計画して京都を脱出した滋野井公寿侍従一行である滋野井派らも合流。
最終的に挙兵参加者は総勢約100名にもふくれあがったていたそう。
1月8日、彼らは綾小路・滋野井を奉じて松尾山で挙兵。
その後、隊名を「赤報隊」と改名して、隊を三組に編成したんだ。
一番隊(先陣)組長は相楽総三、二番隊(君側)組長は鈴木三樹三郎、三番隊(後詰)組長は油川錬三郎であったよ。
この頃、新政府は赤報隊に対し、東海道鎮撫総督の指揮下に入り、桑名に進撃するよう命じたんだ。
赤報隊は「官軍」の一部として認められていたことになるね。
1月15日、赤報隊は桑名に向けて進軍を開始したものの、22日に桑名進撃をとりやめ、信州・甲州方面に進路を変更。
1月下旬には赤報隊が名古屋に駐屯中に、新政府から帰京命令が下り、鈴木三樹三郎と油川錬三郎が率いる二番隊・三番隊(綾小路派)は命令に従って帰京することになったよ。
鈴木三樹三郎らが率いる赤報隊は、油小路の変でなくなった御陵衛士4名の亡骸を壬生・光縁寺から、孝明天皇の御陵のある東山泉涌寺塔頭戒光寺に改葬。
大名にも珍しいほどの見事な葬儀であったと言われていて、生き残った御陵衛士7名は騎馬で野辺送りをしたと言われているよ。
この葬儀にかかった費用は、参与の役所から出たとされているよ。
【偽官軍の嫌疑で逮捕されてしまった鈴木三樹三郎】
葬儀をした1週間後、鈴木三樹三郎ら旧御陵衛士3名は御親兵取締所に呼び出されて逮捕されてしまうの。
その翌日には大津にある阿波徳島藩本陣に護送されて投獄されてしまうんだ。
逮捕された理由は「偽官軍」の嫌疑を受けてのことであったんだよ。
このとき、理不尽だと激怒した新井が、「脱獄する」とか「警備兵を残らず斬り殺す」などといきまき、鈴木三樹三郎らがなだめる一幕もあったという。
結局は待遇が改善され薩摩藩預かりとなるんだ。
【徴兵七番隊に加わり戊辰戦争で戦う】
その後、新政府軍の徴兵七番隊に加わった鈴木三樹三郎は、6月には軍務局軍曹を拝命して江戸へ下向。
戊辰戦争では北越や会津における戦線を戦ったよ。
鈴木三樹三郎は9月1日には勅使附属警衛之兵隊を召連れて帰京するようにとの沙汰を受けて帰京。
一説によると、会津城を攻めた新政府軍の一隊が粗暴で統率する者がおらず、三樹三郎が統率を任されたためだと言われているんだ。
【明治以後の鈴木三樹三郎とは?】
明治2年(1869年)7月、弾正台少巡察に任命され、8月には奥州に巡察に出るよ。
明治3年(1870年)3月、軍曹職廃止に伴って東京府貫属士族として終身四人扶持を得たんだ。
明治4年(1871年)には妻はなを迎え、その後は伊那県、筑摩県、司法省、千葉県、鶴岡県・山形県などを歴任。
明治14年には天皇巡幸警備を指揮しし、明治18年に福島県二等属をもって退職したよ。
退職後、鈴木三樹三郎は茨城県石岡市に約600坪ほどの屋敷を構えて余生を送ったそう。
花が好きで庭一面に様々な花を植えていたと言われているの。
晩年になっても酒好きは変わらず晩酌を欠かさなかったんだけど、「若い時にはこれで失敗ばかりした」と周囲に語っていたそう。
鈴木三樹三郎はとても謙遜家であり、維新期のことは尋ねてもなかなか話そうとしなかったの。
ただ、幕末の頃の恩人・同志で故人となった人々の名前を父母の名とともに紙片に記し、仏壇に張って朝夕礼拝を欠かさなかったという。
紙片には、旧御陵衛士の名のほかに、芳野新一郎、大久保利通、西郷隆盛、桐野利秋らの名前が記されていたんだよ。
鈴木三樹三郎は日記をつけていたんだけど、亡くなる前の年頃からは老衰で筆をとる気力もなくなったそう。
しかし、兄・伊東甲子太郎が従五位を贈位された日には日記が綴られていたんだ。
大正8年(1919年)7月11日、老衰のため83歳で亡くなったよ。