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新撰組・藤堂平助が殺された油小路の変とはどんな事件だった?

戒光寺 本堂

 

前回は新撰組八番隊組長である藤堂平助がなぜ新撰組を離脱したのか?についてまとめたよね。

 

今回は新撰組を離脱して、御陵衛士となった藤堂平助がなぜ殺されてしまったのか?について解説してみよう。

伊東甲子太郎と藤堂平助が暗殺された「油小路の変」とはどのような事件だったんだろう?

 

新撰組レモン
新撰組レモン
暗殺と聞くと不穏でしかないね!!

 

【近藤勇、土方歳三は伊東甲子太郎の暗殺を計画そして実行】

 

御陵衛士にスパイとして送り込まれた斎藤一から、伊東甲子太郎が近藤や土方らを殺害して新撰組隊士をまるまる御陵衛士に取り込もうとする計画を知ったよ。
それを聞いた近藤達はすぐに伊東甲子太郎の暗殺を決意。

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、北辰一刀流の使い手である伊東甲子太郎を確実に殺すためには、口実をつけて近藤勇の妾の屋敷に伊東甲子太郎を招待して存分に酒を飲ませたの。
そして帰宅途中の七条油小路で、暗殺の命を受けた新撰組隊士が、酔っぱらった伊東甲子太郎を刺殺したんだよ。

 

新撰組レモン
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酔わせて夜道でズバッとです!!

 

【新撰組の待ち伏せ戦術を知りながらも現場に向かった藤堂平助】

 

新撰組は殺された伊東甲子太郎の死体を、新撰組はそのまま現場に放置したんだ。
そして、他の御陵衛士の隊員が伊東甲子太郎の遺体を引き取りにくるのを待ち構えていたの。

伊東甲子太郎が遭難したという急報を受けた藤堂平助は驚愕。
新撰組の待ち伏せ戦法があると見抜いていながら、そのままにしておくことはできず藤堂平助は同士たち7人とともに、伊東甲子太郎が襲われた現場に向かったよ。

そこで伊東甲子太郎の遺体を発見し、運び出そうとしていた時に、待ち構えていた40名以上の新撰組隊士たちに包囲され、抜刀して斬り合いとなったんだ。

死闘の末、藤堂平助は慶応3年11月19日(1867年12月14日)未明に戦死したよ。

 

新撰組レモン
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7人対40人は無理がある。

 

戒光寺 本堂

 

藤堂平助の墓碑がある戒光寺の墓碑

「 東武之人 武明没之日於同所戦死 藤堂平助宜寅 年二十四 」

(武蔵国東部出身 伊東甲子太郎と同日同所で戦死 藤堂平助宜寅 享年24歳)

 

【藤堂平助は殺されないはずだった?】

 

実は新選組としては藤堂平助を殺すつもりはなかったんだ。

新撰組・永倉新八は近藤勇から「藤堂平助はまだ若く、惜しい人材であるから、できれば殺すな」と命令を受けていたんだよ。

そのため永倉新八は藤堂平助を逃がそうとしたものの、新撰組に入りたての隊士・三浦常三郎が、その命を知らずに藤堂平助を背後から斬りつけ、振り向いたところに致命傷となる顔面への一撃を与えたんだ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
命令を聞いていなかった隊士がいたのね〜!!

 

検死結果による額から鼻にかけての傷は長さ約21㎝、深さ6㎝に達しておりほぼ即死の状態であったとされているよ。
「油小路の変」では、藤堂平助ら4名の遺体は3~4日ほどそのまま捨て置かれた後、新選組が収容し葬られたそう。

藤堂平助はわずか24年の生涯を終えることとなったんだ。
ちなみに墓所は泉涌寺の塔頭戒光寺にあり、共に討死した同志の伊東甲子太郎や毛内有之助、服部武雄ら共に、後月輪東山陵に眠る孝明天皇の御霊を守護し続けているよ。

 

歴史に登場したのはわずか5年程度であったんだけど、藤堂平助の名は現代でも広く知られているよね。

己の信念を貫き、最期はかつての仲間であった新撰組隊士によって命を落としてしまう藤堂平助。
短い人生だったにも関わらず、これほどまでに人気があるのは、彼の人柄によるところも大きいと言われているよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
24歳で亡くなってしまい、新撰組として頭角を現したのが5年。それでも尚、今も有名な藤堂さんは凄いよね!
新撰組レモン
新撰組レモン
惜しい人を早々に亡くしてしまったのだ。。。