新撰組八番隊組長・藤堂平助は旗本5,000石の藤堂家出身?新撰組四天王の1人と呼ばれた藤堂平助とは?
2021年3月9日新撰組・藤堂平助が殺された油小路の変とはどんな事件だった?
2021年3月16日
新撰組四天王の1人である藤堂平助は、新撰組を離脱してかつての同朋に斬られ最期を遂げてしまうんだ。
ではなぜ、藤堂平助は新撰組メンバーに殺されてしまうんだろう?
ここでは藤堂平助が新撰組を離脱した理由や、暗殺されてしまった経緯についてまとめてみよう。
目次
【伊東甲子太郎を新撰組に勧誘】
池田屋事件が起きた翌月元治元年(1864年)7月19日、憤慨した長州藩は京都御所に突入し攻め入る「禁門の変」が勃発したんだ。
池田屋事件で額を割られ負傷していた藤堂平助は、傷の具合は不明なものの、この禁門の変の天王山の戦いに参加していたの。
その後、元治元年(1864年)11月には新撰組の新規隊員募集の命令を受けた藤堂平助は、京都を離れて江戸へ下向。
江戸で、藤堂平助の運命を左右した男とも言える伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とその一派を新撰組隊員に勧誘することに成功したんだ。
実をいうと、藤堂平助と伊東甲子太郎はこれ以前からよく知る間柄で、藤堂平助が試衛館に入る前には伊東道場に通っていたとも言われているの。
伊東甲子太郎は近藤勇に伴われて藤堂平助よりも先に上洛したんだ。
その後、遅れて藤堂平助も京都に戻るんだけど新しい屯所に着いた時には、留守中に山南敬助が新撰組の掟を破った罪で切腹させられるなどの大きな事件が起きていたの。
【伊東甲子太郎とともに新撰組を離脱し、御陵衛士となる】
新撰組の幹部として大きな役割を担っていた藤堂平助だけど、大きな転機が訪れることになるんだ。
それが伊東甲子太郎とともに新撰組を離脱したことだよ。
慶応3年(1867年)3月、強い勤王倒幕思想を持っていた伊東甲子太郎は、新選組から離脱。
新たに「御陵衛士(ごりょうえじ)」という組織を作ったんだ。
この御陵衛士は、表向きには亡くなった孝明天皇のお墓の護衛、薩摩や長州藩の動きを探って、新選組に協力することを目的とした組織だったの。
御霊衛士は東山の高台寺に屯所があったことから「高台寺党」と呼ばれることもあるよ。
この御陵衛士には新撰組から14名も引き抜かれたんだけど、その中の1人が藤堂平助だったんだ。
藤堂平助は伊東甲子太郎の思想に心酔していたとも言われているよ。
伊東甲子太郎は鈴木大蔵という名前で、常陸国の出身。
水戸学を学び、尊皇攘夷思想に深く傾倒していったんだ。
その一方で剣道にも優れ、北辰一刀流の伊東誠一郎門の道場主でもあったの。
武辺者の多い新撰組の中で藤堂平助は文武に優れた若者だったけれど、その平助が心酔するほど伊東甲子太郎は知勇兼備な人物であったんだ。
【藤堂平助が新撰組を離脱した理由は伊東甲子太郎だけではない?】
藤堂平助は伊東甲子太郎が作った御霊衛士に引き抜かれることになったんだけど、新撰組を脱退した理由はそれだけではないんだ。
藤堂平助が敬愛していた山南敬助が、自分が江戸にいる間に切腹させられたことによって、近藤勇ら首脳幹部に対して不信感を抱くようになったの。
山南敬助は、仙台藩出身の浪人で江戸・千葉周作の道場で北辰一刀流を学んだよ。
つまり藤堂平助の同門であり、先輩でもあったんだ。
山南は誰とでも親しく交われる温厚で人のよい性格であったと言われていて、沖田総司も藤堂平助もみな山南の人柄を慕っていたんだよ。
敬愛する山南を切腹まで追い込んだ新撰組幹部に不信感を抱いてしまうのは仕方がないのかもしれないね。
【御陵衛士の陰謀発覚!斎藤一がスパイとして潜入していた?】
御陵衛士となった藤堂平助は南部弥七郎と名前を改名し、新撰組時代の平助の風評が御陵衛士同士の活動に及ぼす影響を懸念していたの。
新撰組から御陵衛士に移った隊士の中には、藤堂平助の他に、伊東甲子太郎の実弟である鈴木三樹三郎や斎藤一の名もあったんだ。
実はこの斎藤一は新撰組随一の使い手であり、新撰組から送り込まれたスパイであったと考えられているよ。
近藤勇や土方歳三は伊東甲子太郎を信用しておらず、斎藤一を御陵衛士に忍ばせることでよからぬ計画を立てていないか見張らせたんだ。
斎藤一は御陵衛士の内情を近藤勇や土方歳三に報告しており、やがて伊東甲子太郎の計画は新撰組側にばれてしまうことになるの。
その計画とは御陵衛士が新撰組を襲撃し、近藤や土方らを殺害すること。
そして他の新撰組隊士をそのまま御陵衛士に取り込むという計画だったんだ。
この計画を斎藤から聞いた近藤らは憤慨し、伊東甲子太郎の暗殺を決めたよ。
次回は伊東甲子太郎、藤堂平助が最期を迎える油小路の変についてまとめてみよう。