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2021年2月20日江雪左文字 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2021年2月20日新撰組七番隊組長と言えば備中松山生まれの武士・谷三十郎だよ。
谷三十郎の死については詳細が不明で、斎藤一に殺害された…、介錯に失敗して切腹になった…など諸説あるんだ。
ここには新撰組七番隊組長である谷三十郎についてまとめてみよう。
目次
【谷三十郎は三兄弟で新撰組に参加】
谷三十郎は備中松山藩士である谷三治郎供行の嫡男として備中松山に生まれたんだ。
幼少期から直心一派の師範であった父から武術を学んだの。
嘉永6年(1853年)1月には家督を相続し、藩主・板倉勝静の近習役として仕えるよ。
しかし安政3年(1856年)10月13日に不祥事庵によって谷家は断絶されてしまうんだ。
谷家に断絶された理由としては、三十郎による藩主の姫君との密通説、家老の奥方との三十郎の不倫などの説が伝えられているよ。
三十郎が不祥事案を起こしたという説のほかに、万太郎が不祥事案を起こしたという説もあるんだ。
谷三十郎は谷家との断絶後、弟である万太郎とともに故郷を出奔し、大坂の南堀江町で道場を開くよ。
新撰組への加盟時期は不明だけど(一説には文久3年頃)、弟・万太郎、昌武とともに三兄弟そろって新撰組に参加。
ちなみに弟の昌武は元治元年(1864)6月の池田屋事件より前に近藤勇の養子となり、後に「近藤周平」と名乗るようになったよ。
【谷三十郎の新撰組での活躍とは?】
谷三十郎は新撰組七番隊組長としてどのような活躍を行ったんだろう?
ここでは新撰組での谷三十郎の活躍についてまとめてみよう。
<池田屋事件>
元治元年(1864年)7月8日起こった池田屋事件では、谷三十郎ら三兄弟は土方隊の組に属していたよ。
近藤隊よりも遅れて現地に到着した土方隊だったけれど、谷三十郎は階段から刀を振りかぶって飛び降りてきた志士を槍で突き刺しにしたんだ。
突きさされた志士は槍の柄をつたって落ちてきたため、谷三十郎は死体と衝突して尻もちをついたという逸話が残っているの。
事件後には褒章として17両を賜っているよ。
<禁門の変>
禁門の変後には、谷三十郎は隊士らを率いて長州軍の残党狩りに出動。
斎藤九一郎ら8名を拘束する手柄を得ているよ。
<ぜんざい屋事件>
慶応元年(1865年)1月に起こったぜんざい屋事件では、谷三十郎と弟・万太郎ら4名は、土佐勤王党の残党による大坂城乗っ取り、焼き討ち計画を察知し、未然に阻止したよ。
<交渉役を務めた>
大坂の豪商であった加賀四郎兵衛に対する献金要請の際には、谷三十郎が交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功したよ。
【原田左之助に槍を指導した?!】
谷三十郎は種田流槍術の師範で、原田左之助に槍を指導したと言われているんだ。
しかし子孫に伝わる話においては、三十郎は剣術では神明流剣術の指南役の腕前だったけれど、槍の腕前に関してはよく分かっていないんだ。
そのため、原田左之助に槍を指導したのは、谷三十郎の弟・万太郎の可能性もあるよ。
【谷三十郎の死因とは?】
谷三十郎は、慶応2年(1866年)4月1日雨が降る夜に、京都東山にある祇園社(八坂神社)の石段下に死体となって転がっていたんだ。
谷三十郎の死について、新選組は会津藩に対して「七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於て頓死相遂げ候」とだけ報告しているよ。
その死因については諸説あり、はっきりとは分かっていないの。
ここでは、谷三十郎の死因についてのいくつかの説をまとめてみよう。
<斎藤一による暗殺説>
新撰組三番隊組長・斎藤一によって暗殺されたと言われているよ。
もしも斎藤一に暗殺されたとすると、新撰組内で何か問題を起こした可能性があるね。
<脳卒中説>
谷三十郎は大酒飲みだったため、過度の飲酒によって脳卒中を起こしたと言われているよ。
<介錯に失敗説?>
子母沢寛の「新選組始末記」によると、不都合により切腹となった田内知の介錯を谷三十郎が担当したそう。
しかし、どういう訳か急所をはずれてしまい首が落ちず、取り乱した三十郎は田内知をずたずたに切ってしまったんだ。
見かねた斉藤一が代わって抜き打ったと言われているよ。
その醜態以後、新鮮隊の隊士たちからの反感を買って、評判を落としたと書いてあるんだ。
この話は完全な創作であると言われているんだ。
なぜなら田内知が葬られたのは谷三十郎が死んだ9ヶ月後のことだったの。
さらに谷三十郎は直心一派の奥義を極めて神明流剣術の指南役の腕前で、実戦経験も豊富。
そんな谷三十郎が介錯を誤るとはとうてい考えられないよね。
谷三十郎は横柄な態度が多かったことから、死後このような悪意を持った創作になって今に伝わったのでは?と考えられているよ。
【悪役として描かれることが多い谷三十郎】
谷三十郎は新撰組のドラマや小説の中では、きまって悪役として描かれているの。
実際に当時の新撰組の中では、七番隊組長・谷三十郎の評判はあまりよいものではなかったと言われているよ。
谷三十郎は、老中・板倉勝静の旧臣であり、120石を取った武家出身、つまり地位があったんだ。
さらに、弟は新選組局長・近藤勇の養子であるという立場もあって、局長の親類ということで隊士たちからも一目置かれ威勢が良かったそう。
新撰組の他の隊員を見下したような態度をとっていたとも言われているの。
禁門の変で捕縛した中田九一郎に対して、谷三十郎は「新撰組には見かけほど強い隊士はいないので、いつも自分が先頭に立たされる」とこぼしたそう。
この発言からも、新撰組の隊士たちをバカにしていることが分かるよね。