新撰組六番隊組長・井上源三郎は努力家だった?沖田総司と親戚って本当?井上源三郎にまつわるエピソードを解説!
2021年2月18日
新撰組七番隊組長・谷三十郎は悪役として有名?本当に性格が悪かったの?
2021年2月20日

六番隊組長・井上源三郎も戦士した鳥羽・伏見の戦いとは?

新撰組

 

新撰組六番隊組長である井上源三郎が戦死した鳥羽・伏見の戦いとはいったいどのような戦いだったんだろう?
ここでは新撰組が戦った鳥羽・伏見の戦いについてまとめてみよう。

 

 

【鳥羽・伏見の戦いとは?】

 

鳥羽・伏見の戦いとは慶応4年(1868年)1月3日~6日に起こった戌辰戦争の初戦ともなった戦いのこと

この戦いは京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見、橋本で行われたんだ。
「新政府軍」VS「旧幕府軍」の戦いとなった鳥羽・伏見の戦いで、新撰組は「旧幕府軍」として参戦しているよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
漫画やドラマ、映画でも大盛り上がりする戦だよね!

 

【局長・近藤勇は負傷していて不参加だった】

 

鳥羽・伏見の戦いが起こる数週間前の、慶応3年(1867年)12月16日、「王政復古の大号令」が発せられ、新選組は京都を退くことになり「伏見奉行所」に駐屯。
この伏見は旧幕府軍の前線拠点となる場所だったんだ。

12月19日、局長・近藤勇は二条城での会議から伏見奉行所へ戻る際に、何者かによって銃撃に遭い、右肩に銃弾を受けてしまうの。
近藤ら一行は伏見の城下町に入る直前で襲撃されてしまうんだ。

近藤らを襲った襲撃犯は、「油小路の変」で新選組に暗殺された伊東甲子太郎の一派であった御陵衛士の残党だったんだよ。
銃弾を受け重症を負った近藤勇は、鳥羽・伏見の戦いが始まった頃、大坂城で治療を受けていたため、新撰組の指揮をとることができなかったんだ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
局長がいないと士気がなかなか上がりませんかね〜。

 

【土方歳三による指揮で参戦】

 

局長・近藤勇の負傷によって、その代わりに副長である土方歳三が新撰組の指揮をとり参戦。
鳥羽街道で進撃した旧幕府軍VSそれを拒もうとする薩摩軍(新政府軍)の間で武力衝突が起こったの。

旧幕府軍とは違い新政府軍は、最新式の武器や銃器を使って戦ったと言われているんだ。
一方、会津藩や新選組などの「旧幕府軍」は、最新鋭の銃器ではなく、刀や槍を中心とした白兵戦を行うほかになかったの。

 

この戦いで土方は「もはや刀や槍の時代ではなくなった」と嘆いたというエピソードがあるよ。

新撰組は、最強剣豪の集まりだよね。
しかし、この戦いでは銃器や大砲などの武器を使っての戦い方にシフトされてしまって、もはや戦いに剣豪は必要ない時代になったと土方は感じたと言われているんだ。
西洋の銃器と戦略の前では、幕末の京において震撼させた新選組の刃でも、全くその力を活かすことができなったの。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
副長の土方歳三さまが引っ張っていったよ!
新撰組レモン
新撰組レモン
でも、刀では銃には届きませんでした。。。

 

【二番隊隊長が斬り込みに成功するものの退去を余儀なくされる】

 

最新鋭の銃器をそろえた薩摩軍に対して、刀や槍で攻撃する新撰組はどう考えても不利な状況だったんだ。
しかし、剣豪である二番隊組長の永倉新八らは、唯一敵陣への斬りこみへ成功し、奮戦。

その後も、宇治川や八幡山麓あたりで退去しながら果敢に応戦を続けるものの、味方の寝返りなどにもあってしまうの。
しまいには1月6日に将軍・徳川慶喜が江戸へ逃亡したという報告を受け、全軍は崩壊してしまったんだ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
将軍・徳川慶喜が江戸へ逃亡。。。
新撰組レモン
新撰組レモン
これでもう心もポッキリする人が続出ですわな。

 

【鳥羽・伏見の戦いで六番隊組長・井上源三郎は戦死】

 

新撰組は応戦しながら伏見から淀へと退去。
その際、淀千両松で官軍と激突することになるんだ。
この時、六番隊組長である井上源三郎は敵軍の銃弾を受けて戦死してしまうよ。

 

鳥羽・伏見の戦いの開戦前には150名ほど新撰組隊士がいたんだけど、戦死者は22名、負傷者は約70名にも及んだんだ。

また江戸で再結成した際にはわずか40数名ほどになってしまったんだよ。
体制を崩した旧幕府軍に対して、逃げだした者や志を変えたものなども多かったの。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
剣士の誇りも折れた近代兵器との戦い!
新撰組レモン
新撰組レモン
残ったのはたったの40人!
新撰組レモン
新撰組レモン
これからまた壮絶な新撰組の歴史が続きますよ!

ログイン

パスワードを忘れた場合