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新撰組4番隊組長・松原忠司は温厚で優しい人物だった?

新撰組

新撰組4番隊組長である松原忠司はいったいどんな人物だったんだろう?
ここでは新撰組4番隊隊長で柔術師範でもあった松原忠司の人物像に迫ってみよう。

 

【新撰組の隊士として最初から参加していた松原忠司】

 

松原忠司(まつばらちゅうじ)は文化12年(1815年)頃播磨国小野藩の藩士の子として生まれたよ。
初名は小太郎、松原弥三左衛門は親族と思われているんだ。

 

松原忠司は船川楫之輔柳真斎から天神真楊流柔術を学び、北辰心要流柔術を開いたんだ。
安政年間に徘徊御免となり、大坂で北辰心要流柔術(もしくは関口流柔術)の道場を開くことに。
新撰組隊士・永倉新八は、松原忠司を「大坂浪人」と呼んでいたよ。

 

文久3年(1863年)5月までに松原忠司は、新撰組の前身となる壬生浪士組に入隊。
最初の募集で新撰組に入隊したんだ。

松原忠司は関口流柔術の免許を持っていたから、隊では柔術師範を務めたよ。

剣客ひしめく新撰組の中で、松原忠司は初期から柔術のエキスパートとして活躍することになるの。
文久3年(1863年)八月十八日の政変では、仙洞御所前、及び禁裏御所南門の警備を担当したんだ。
その時の風貌が、坊主頭に白い鉢巻を巻いていて、脇に大きな薙刀を携えていたことから、「今弁慶」という異名をとったよ。

 

元治元年(1864年)の池田屋事件の際には松原忠司は土方歳三の隊に属していたんだ。
主に屋外の警備を務めたと言われているの。
池田屋事件で戦功を上げた松原忠司は、報奨金15両を賜っているよ。

このような活躍によって、慶応元年(1865年)4月に行われた新撰組組織再編の際に、新撰組4番隊組長となり、柔術師範を兼任することになるんだ。
しかし同年9月1日死去。松原忠司は5か月ほどしか4番隊組長を勤めることができなかったとされているよ。

新撰組の記録には松原忠司の死は病死と書かれているものの、実はその死について諸説あるんだ。
なんらかの理由で切腹したものの未遂に終わって平隊士に降格されたという説もあるの。
切腹の際の傷が元でなくなったのでは?という説もあるよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
なぜ、亡くなったかは定かでは無いんだね!!

 

【親切者の松原忠司】

 

初期の新選組の屯所があった京都の壬生村では「親切者は山南、松原」という言葉が明治頃まで伝わっていたそう。
山南とは同じ新選組隊士であった山南敬助のことで、松原とは松原忠司のことだよ。

松原忠司は山南敬助とともに、非常に温厚で親切な新撰組の隊士として、壬生村の人々に好かれていたんだ。
また隊士に対しても非常に温厚で優しかったと言われているよ。

八月十八日の政変に出陣する際には、近藤勇や土方歳三は甲冑が用意されているのにも関わらず、総長であった山南敬助には甲冑が用意されていなかったそう。

このことに腹を立てた山南は怒ったんだけど、そんな山南を松原忠司はなだめたと言われているよ。
松原忠司は気は優しくて力持ちタイプの新撰組隊士だったんだ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
「親切者は山南、松原」と語り継がれるほど優しい隊長だったんだね!

 

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