新選組三番組組長・斎藤一は新選組最強の剣士だった?!斎藤一はどんな人物だったの?その1
2020年12月26日
新選組三番組組長・斎藤一は新選組最強の剣士だった?!斎藤一はどんな人物だったの?その3
2020年12月26日

新選組三番組組長・斎藤一は新選組最強の剣士だった?!斎藤一はどんな人物だったの?その2

1897年に撮影された藤田五郎(斎藤一)のポートレート。当時数え54歳。 PD from wikipedia

 

前回は斎藤一の幼少期や、新選組に入るまでの斎藤一についてまとめてみたよね。

 

 

今回は新選組に入ってからの斎藤一の活躍についてまとめてみよう。

 

 

【一番多く新選組の人斬り・暗殺事件に関与している斎藤一】

 

斎藤一は新選組のメンバーの中でも最も多く人斬り・暗殺事件に関与していると言われているんだ。
ここでは斎藤一が関与した新選組の主な事件をまとめてみるね。

 

<大坂力士乱闘事件>

新選組に入隊した斎藤一はメキメキと力を発揮して、副長助勤、剣術師範を務めるようになるよ。
長州征討に向け、再編成された新選組行軍録には三番隊組長として斎藤一の名前があり、撃剣師範も務めたんだ。

 

文久3年(1863年)夏頃に、新選組隊士は大坂で、六角棒を抱えた力士と乱闘事件を起こしたんだ。
この大坂力士乱闘事件のきっかけは実は、斎藤一にあったと言われているよ。

斎藤一が腹痛を訴えて乗船を停止させたことで、力士と乱闘することになったそう。
ちなみに、この大坂力士乱闘事件に斎藤一本人は参加していないよ。

新撰組レモン
新撰組レモン
腹痛で。。。

 

<池田屋事件>

新選組の事件として最も有名なのが、池田屋事件だよね。
元治元年(1864年)に起こった池田屋事件にも斎藤一は現場へ駆けつけているんだ。
ただ、第一陣で突撃しておらず、後から到着した土方隊の方に斎藤一はいたよ。

そのため、近藤勇や永倉新八ほどの活躍は確認できていないんだ。
それでも事件痕、幕府と会津藩から金10両、別段7両の合計17両の褒章を得たんだよ。

 

<数々の暗殺事件にも関与>

斎藤一は背が高くて、いかつい顔で無口で酒豪であったと言われているの。
殺伐のクセがあるとの評判もあり、新選組内部での粛清役、暗殺役を多く務めたとされているんだ。

長州藩のスパイであったされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助、武田観柳斎、谷三十郎などの暗殺にも関与していたのでは?と言われているよ。
ただ事実と符合していないことも多いため、はっきりとしたことは分かっていないんだ。

 

<スパイとして突入したこともあり>

慶応3年(1867年)3月には新選組・伊東甲子太郎が御陵衛士を結成し、新選組を離脱。

慶応3年正月早々に、斎藤一は永倉新八とともに、伊東甲子太郎の誘いを受けて、島原・角屋で酒宴にふけていたの。
伊東甲子太郎はこの前年から御陵衛士を結成していて、新選組の幹部であり、新選組最強の剣士と呼ばれた永倉新八と斎藤一を御陵衛士に勧誘しようとしたんだ。

 

新選組に復帰する際には、御陵衛士の活動資金を盗んで逃げたんだ。
これは、金に困って斎藤一が逃げたように見せかけるためであったとされているよ。
斎藤一はそこで、スパイとして御陵衛士に入隊したとされているよ。

 

斎藤一が御陵衛士から新選組に戻った際には「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出たそう。
ちなみに新選組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は斎藤一が復帰した際にもたらした情報に基づいて起きた事件であるとも言われているんだ。

新撰組レモン
新撰組レモン
いろんなところに顔を出していますね!笑

<天満屋事件>

慶応3年、坂本龍馬が暗殺されたことによって起こった土佐藩士は龍馬を暗殺した犯人を血眼になって探していたんだ。

そんな中、陸奥宗光は佐幕論者の紀州藩士・三浦休太郎が犯人であると確信して、付け狙うようになるの。
慶応3年(1867年)12月7日、紀州藩の依頼を受けて、同藩士・三浦休太郎を警護し、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃される天満屋事件にも斎藤一は関わっていたよ。

三浦休太郎とともに、酒宴を開いていた新選組は遅れをとってしまい、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡し、梅戸勝之進が斎藤をかばって重傷を負ってしまうんだ。
斎藤一は刺客に後ろから抱きつかれて危うかったものの、鎖帷子という防着を着ていたため、無事だったよ。
また、三浦休太郎も顔面を負傷したものの、命に別状はなかったんだ。

新撰組レモン
新撰組レモン
この時はまさにギリギリでしたわ。

 

<鳥羽伏見の戦い>

将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従って戊辰戦争に参加。
慶応4年(1868年)1月に起こった鳥羽伏見の戦いでは、新選組隊士であった斎藤一は幕府側として参戦。
3月には甲州勝沼に転戦し、斎藤一はいずれも最前線で戦ったよ。

 

近藤勇が流山で新政府軍に投降した後、斎藤一は江戸に戻った土方歳三らと国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流後、下妻へ向かうんだ。
斎藤ら新選組は、会津藩の指揮下に入り、4月には白河口の戦い、8月には母成峠の戦いに参加。
敗戦によって若松城下に退却し、この時期に土方歳三と合流したと言われているよ。

 

その後、土方歳三らは庄内へと向かって、大鳥圭介ら幕府軍の部隊は仙台に転戦。
斎藤一はそのまま会津に残留し、会津藩士らとともに城外で新政府軍への抵抗を続けたんだ。

同年9月には会津藩が降伏したものの、斎藤一はその後も戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降したんだ。
降伏後、捕虜となった会津藩士らとともに、旧会津藩領の塩川、その後越後高田で謹慎生活を送ったと言われているよ。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
最前線に立っていても尚、生き残ったのだ!

 

【新選組最強の三剣士の1人であった斎藤一】

 

斎藤一は、沖田総司、永倉新八とともに、新選組最強の剣士と言われていたんだ。
3人は剣術師範として、隊士を指導する立場であったとされており、新選組・阿部十郎によると剣の腕前は僅差ではあったものの「永倉新八>沖田総司>斎藤一」の順になると証言しているよ。

 

斎藤一はその当時の成人男性としては非常に高く、身長が170㎝前後もあったと言われているんだ。
当時の成人男性の平均身長は158㎝程度であったと言われているから、かなり大柄な体格であることが分かるよね。
さらに20歳前半という若さもあり、どんどんと強くなっていったと言われているよ。

 

ただ、斎藤一の剣術に関しては実はよく分かっていないんだ。
阿部十郎の証言によると、最強剣士3人のうち、永倉新八だけが別の流派だったと言っているよ。
永倉新八は実践的でだまし討ちも辞さない「天然理心流」とは異なり、道場剣術の「神道無念流」を会得していたんだ。

 

斎藤一が沖田総司と同じ流派だとすると天然理心流ということになるんだけど、斎藤一が試衛館に出入りしていたのか、その説については謎が多いため、斎藤一の流派についてはハッキリしていないの。
ちなみに斎藤一の流派については諸説あり、天然理心流説以外に、無外流や一刀流(山口一刀流)などの説もあるよ。

次回は斎藤一の晩年についてまとめてみよう。

 

新撰組レモン
新撰組レモン
斉藤一に関しては、いろいろな流派の説があるんだね〜

 

 

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