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2020年12月26日新選組三番組組長・斎藤一は新選組最強の剣士だった?!斎藤一はどんな人物だったの?その2
2020年12月26日
新選組の寡黙な斬りこみ隊長と言えば、三番組組長の斎藤一だよね。
クールなキャラとして描かれることが多い斎藤一はいったいどんな人物だったんだろう。
実は、斎藤一が一番多く新選組の人斬り・暗殺事件に関与しているんだ。
ここでは斎藤一についてまとめてみよう。
目次
【斎藤一はどんな人物だったの?その幼少期は謎に包まれている】
斎藤一ははじめの名前は「山口一」といったんだ。
1844年1月1日、江戸(現在の東京都文京区あたり)に生まれたとされているよ。
斎藤一の父は明石出身で明石浪人を名乗っていたことから、播磨・明石藩出身説や会津出身という説もあり、斎藤一の幼少期に関しては良く分かっていない点が多いんだ。
父・山口祐助は、元々明石藩の足軽だったけれど浪人し、江戸へ出て石高100万石の旗本である鈴木家の足軽になったと言われているの。
その後、御家人株を買って御家人になったとされているけれど、実際には鈴木家の公用人だったそう。
ただ、この御家人株というのは決して安くはなく200両はしたそう。
足軽であった山口祐助にとってはかなりの高価な買い物であったことからも、足軽奉公ではなく、商売をしていたのでは?とも考えられているよ。
【斎藤一の青年期】
斎藤一は19歳の時に、江戸小石川関口で旗本と口論となり、人を斬ってしまうんだ。
そのことが原因で、父や兄に旅支度をさせられて、その日のうちに京都に旅だったの。
京都にいった斎藤一は、父・斎藤祐助の友人であった聖徳太子流剣術道場主であった吉田某の元に身を隠すことになり、そこで師範代を務めていたよ。
ちなみに、そこに行くまでは「山口一」と名乗っていたんだけど、身を隠すために京都にいった際に「斎藤一」と名を変えたんだ。
ちなみに斎藤一は、江戸で近藤勇の天然理心流試衛館に出入りしていたという説があるものの、浪士組には参加しておらず、京都で新選組の微募があった際に初めて加入したのでは?
という説が濃厚なんだ。
少なくとも斎藤の上洛は、近藤勇たちとは別行動であったと言われているよ。
【新選組・斎藤一の誕生】
1863年3月10日、将軍警護の目的で江戸から京都に上洛した浪士組が、江戸に戻った際、近藤勇、土方歳三らを中心とする「試衛館派」と芹沢鴨らを中心とする「水戸派」は、あくまでもも将軍警護のために京都・壬生村に残り、新選組の全身となる「壬生浪士組」を結成したんだ。
即日、隊士を募集して11名が入隊したんだけど、その中には「斎藤一」の名もあったんだよ。
ただ、芹沢鴨や近藤勇らが3月10日に松平容保に提出した京都残留嘆願書には、斎藤一の名前がすでに記載されていたそうで、江戸にいた時から近藤勇ら試衛館組と知り合いだったのでは?という説もあるの。
その後、壬生浪士組は京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなって、斎藤一は20歳という若さにして副長助勤に抜擢されたんだよ。
その際の他のメンバーの年は以下の通りだよ。
・近藤勇 30歳
・土方歳三 29歳
・山南敬助 31歳
・永倉新八 25歳
・沖田総司 22歳
・藤堂平助 20歳
斎藤一は藤堂平助と並んで最年少で、その若さで副長助勤となったんだ。
さらにその後、新選組が結成された際にも、斎藤一は三番隊組長となったよ。
若いながらも、剣術の才能があったことがよく分かるよね。
斎藤一は撃剣師範も務めたほどの剣術の達人であり、沖田総司、永倉新八と並んで「新選組最強の剣士」と言われていたんだ。
次回は斎藤一の新選組での活躍をまとめてみよう。