新選組最強の剣士と言われた一番組組長・沖田総司は病に倒れた?!

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新選組最強の剣士と言われた一番組組長・沖田総司は病に倒れた?!

 

新選組の一番組組長・沖田総司は最強の剣士であったと言われているよね。

新選組のドラマや漫画などでは、美少年キャラとして登場することが多い沖田総司は女性からの圧倒的人気を誇っている新選組メンバーの1人だよ。
ここでは沖田総司がどんな人物だったのか、解説していこう。

 

新撰組レモン
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新撰組の中でも最強の剣士として今でも絶大な人気を誇る沖田総司です♪

 

【沖田総司ってどんな人物だったの?】

 

沖田総司は天保15年あるいは弘化元年(1844年)に生まれたと言う2つの説があり、赤ん坊の頃から元気よく手足を振っていて、少年時代から川で泳ぐフナを素手で捕まえるほど高い運動能力を持っていたそう。

陸奥白河藩足軽・沖田勝次郎とミキの長男として、白河藩の下屋敷(東京都港区元麻布)で生まれた総司は、みつとキンという2人の姉もいたんだ。
両親は総司が幼い頃に亡くなってしまったため、長女のみつが井上林太郎を婿に迎えて、家督相続したの。

 

総司は9歳の頃に、剣術で大人に勝ったと言われており、天然理心流道場「試衛館」に入門することに。

近藤周助の内弟子となった総司は、1852年、沖田総司が12歳のころに、白川藩の剣術指南と対戦して勝利。
1860年には若くして試衛館塾頭をつとめたんだ。
近藤勇、土方歳三とは同門にあたるんだよ。

 

新撰組レモン
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生まれた時から元気いっぱい!運動神経も相当、良かったんだろうね♪

【新選組としての沖田総司】

 

1863年に清河八郎が松平春嶽に建白し浪士組の参加者が募集されると、近藤勇を始め試衛館の山南敬助・土方歳三・永倉新八らとともに沖田総司も参加。

しかし、清河八郎が本当の目的は攘夷にあると宣言し江戸に戻ると、近藤勇や芹沢鴨らは反対して、将軍警護を果たすためにそのまま京に残って、壬生浪士組を結成したんだ。
ちなみに総司の姉の夫・沖田林太郎も当初は壬生浪士組に参加していたが、途中で離脱したよ。

 

壬生浪士組では沖田総司は不逞浪士の取り締まりと市中警護を任されて、副長助勤筆頭となったの。
そして壬生浪士組は、8月18日の政変の功績によって「新選組」を拝命したんだ。

 

沖田総司は新選組では一番隊組長として活躍。
この一番隊は剣豪ひしめく新選組の中でも、常に重要な任務をこなしていたと言われており、その組長を務めた総司の実力がよく分かるね。

新選組では、分久3年(1863年)9月の芹沢鴨暗殺、元治元年5月20日の大坂西町奉公所与力・内山彦次郎暗殺などを手掛けたんだ。

さらに有名な事件といえば、池田屋事件だよね。

元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、沖田総司は近藤勇らとともに最初に池田屋に乗り込んだメンバーの1人なんだ。
この奮闘の最中、喀血によって総司は戦線離脱したとも言われているけれど、はっきりとしたことは分かっていないの。

 

新撰組レモン
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一番隊の隊長を任された

んだぞ!

【病に倒れた沖田総司】

 

沖田総司は当時では不治の病とされていた「結核」に感染してしまうんだ。
池田屋事件で喀血したのも、肺結核の発作だったのでは?と言われているよ。

体調の悪化によって、第一線で活躍できなくなったのは慶応3年(1867年)以降とされているんだ。
実際、沖田総司が新選組で活動したのはわずか3年足らずだったの。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
たった3年で現代まで語り継がれる剣客。。。

慶応3年12月18日には、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅が、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎が襲撃。
この際、沖田は伏見奉公所へ出立した後だったからなんとか難を逃れたよ。

総司は病気のため、鳥羽・伏見の戦いには参加せず、鳥羽伏見の敗戦後には隊士とともに海路で江戸にもどることに。

幕府の医師・松本良順によって匿われ、近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去したんだ。
沖田総司は、近藤勇の死を知らないまま亡くなった…という説もあるんだよ。
享年は、24歳、25歳、27歳の3説が存在するの。

 

刀剣レモン
刀剣レモン
めっちゃ若くして病に倒れてしまったんだよ。。