新撰組局長・近藤勇は愛刀家でたくさんの刀を所持していた?!
2021年4月5日新撰組一番隊組長・沖田総司の3つの愛刀とは? その1
2021年4月10日新撰組No2と言われた副局長・土方歳三は、組織の統制に尽力した隊士として有名だよね。
局長・近藤勇を支えた人物としても知られている土方歳三は近藤勇と同様、数多くの刀剣を所持していたんだ。
今回は土方歳三が所持していた刀剣についてまとめてみよう。
目次
【土方歳三が所持していた愛刀とは?】
土方歳三が所持していたとされる愛刀はいくつかあるんだ。それぞれ特徴をまとめてみよう。
・和泉守兼定
江戸時代末期に会津藩で活躍した刀工で会津兼定とも呼ばれているの。
この和泉守兼定は現存しているので、土方歳三資料館に保管されているよ。
・越前康継
越前北ノ荘藩主結城秀康(徳川家康の次男)のお抱え鍛冶が作った刀剣。
二尺三寸五分で伝承によると会津候からの拝領した刀なんだ。
徳川家康より「康」の字を賜り、「康継」と改銘したの。
茎に葵の御紋を切ることを許されていたため「葵御紋康継(あおいごもんやすつぐ)」とも呼ばれているよ。
甲州勝沼戦後に佐藤彦五郎の長男・佐藤源之助に贈られ、佐藤彦五郎資料館に現存しているんだ。
・堀川国広
堀川国広は一尺九寸五分の刀剣で当代でもかなり高価な刀であったと言われているんだ。
・大和守秀國
表銘には「大和守源秀國 秋月種明懇望帯之」、裏銘には「幕府侍土方義豊戦刀 慶応二年八月日 秋月君譲請高橋忠守帯之」と刻まれているよ。
【最期までともに戦った和泉守兼定】
和泉守兼定は土方歳三が箱館・五稜郭の戦で倒れるまで身に付けていた愛刀で、土方歳三の愛刀としては最も有名なんだ。
この和泉守兼定は土方歳三が会津藩主・松平容保から賜ったと伝わる打刀で、作者は会津藩のお抱え刀工であった会津11代兼定なの。
会津11代兼定は、鍛冶場を京都に設けて新撰組所要の刀を多く手がけた刀工なんだよ。
【土方は寸違いの兼定を複数所持していた!】
実は土方歳三は和泉守兼定だけではなく、兼定の刀を寸違いで複数所持していたの。
それほど兼定の刀を気に入っていたということだよね。
現存している和泉守兼定は、二尺三寸一分六厘で、函館戦争の際に、小姓・市村鉄之助によって手紙や写真、遺髪などとともに彦五郎の元に送られたんだ。
届けられた和泉守兼定は当時、物打ち部分にところどころ刃こぼれがみられるなど、戦争の激しさを物語っていたとされているの。
その後、昭和時代初期に入り、保存のために一度研き上げられ、現在は刃こぼれした姿を見ることはできないんだ。
また、茶の石目塗に牡丹唐草や鳳凰の蒔絵が施された鞘はたくさんの傷がついていたり、白鮫着せ黒糸巻の柄には激しい摩耗が見られたりと土方が日頃から実戦や鍛錬で使っていた様子が伺えるよ。
【和泉守兼定と同様に使い込まれた大和守秀國】
土方歳三の愛刀として知られる大和守秀國も、和泉守兼定と同じく現存しているんだ。
大和守秀國は、鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いなど、戊辰戦争時に使用された刀とされているの。
刃長は二尺二寸八分で、直刃の実用刀になるよ。
この大和守秀國には、土方が好きだった梅の意匠が縁金に施されているの。
鞘の一部には、帯で擦れて螺鈿が剥がれたような跡があるよ。
また鯉口は一部が摩耗して、色が薄くなった箇所もあるの。
大和守秀國もまた和泉守兼定と同じようによく使い込まれていたことが分かるね。
【越前康継も現存している?】
土方歳三の愛刀の中で現存しているのは和泉守兼定と大和守秀國だと紹介したね。
実は、もう1つ現存する愛刀があるんだ。
それが「越前康継」だよ。
越前康継は江戸時代初期に活躍した刀工で、慶長年間に越前に移り住んで、徳川家康の次男・越前北ノ荘藩主結城秀康のお抱え鍛冶師として活躍したんだ。
この越前康継は鍛刀技術が非常に優れていると高い評価を受け、徳川家の「葵の御紋」を茎に切ることが許されたの。
背負太刀作りの越前康継は、表銘には「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」と刻まれているよ。
佐藤家の伝承によれば、土方歳三はこの刀を京都守護職・松平から拝領したと言われているの。
裏銘には「安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払山田在吉試之」「同年十一月廿三日於千住府ト太々土壇払山田吉豊試之」と書かれているんだ。
山田在吉、吉豊は、吉田松陰や頼三樹三郎らを処刑した7代目山田浅右衛門吉利の子どもで、彼らの試し切りに使用された刀なんだよ。
甲州勝沼の戦いで佐藤彦五郎は「春日隊」を結成するものの、新政府軍に敗北。
この敗北によって彦五郎の長男である源之助は一時的に捕縛され、持っていた刀をすべて没収されてしまうことになるんだ。
このことを気の毒に思った土方歳三が1868年に佐藤源之助に送った刀こそが、この葵紋の入った越前康継だったんだよ。