新選組三番組組長・斎藤一は新選組最強の剣士だった?!斎藤一はどんな人物だったの?その2
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2020年12月28日
前回は新選組として数々の殺人事件、暗殺事件に関与した斎藤一の活躍をまとめたよね。
今回は、会津戦争への参加や晩年の斎藤一についてまとめてみよう。
目次
【会津戦争に参加し、斎藤一から山口次郎へ改名】
1868年京都の鳥羽・伏見の戦い後、新選組は「甲陽鎮撫隊」と改名して甲州勝沼の戦いに挑んだよ。
斎藤一は、この甲州勝沼の戦いでも最前線で戦うものの、敗退。
その後、永倉新八や原田左之助など新選組中核メンバーが離れていき、新選組は散り散りになってしまうんだ。
さらに1868年4月には近藤勇が捕獲、処刑されてしまうの。
その後、斎藤一は新選組の残党を率いて、土方歳三らとともに会津へ向かうよ。
会津戦争では、新政府軍VS旧幕府軍の戦力は約75,000VS約9,400と圧倒的な差があったんだ。
会津藩や新選組の残党は旧幕府軍であり、斎藤一は会津城外で会津藩士・佐川官兵衛らとともに戦うものの会津城は滑落してしまうんだ。
この頃、斎藤一は「山口次郎」と名前を改名したよ。
会津城が滑落した後も、斎藤一は戦いをやめず、藩主・松平容保に説得されてようやく投降。
その後、会津にとどまることを決め、蝦夷地へ渡る土方歳三と会津で別れることになったんだ。
斎藤一は、会津藩士らとともに暮らし、斗南藩領・五戸への集団移住にも同行したよ。
【篠田やそと結婚】
斗南藩では五戸に移住し、そこで篠田やそと結婚した斎藤一。
篠田家は会津藩士としては大身に属した名家であり、白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたるんだ。
警視庁が設立されると、新政府は佐川官兵衛らに出士を求め、多くの旧会津藩士とともに斎藤一も上京し、明治7年(1874年)に警視庁に採用されることに。
上京時に妻は残してきており、結局、篠田やそとは離縁してしまったの。
【高木時尾との再婚】
上京した斎藤一は、元会津藩大目付・高木小十郎の娘である高木時尾と再婚。
時尾の父は三百石という上級藩士の出身で、時尾は松平容保の義姉で会津藩の姫君として慕われた「照姫」の祐筆であった才女なんだよ。
高木時尾と結婚した際には、元会津藩主の松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛、山川浩らが下仲人をつとめたの。
斎藤一は、高木時尾との結婚を機に、時尾の母方の姓名である「藤田」に改名し、「藤田五郎」と名乗るようになるんだ。
時尾との間には3人の子供に恵まれたよ。
【西南戦争での活躍は新聞に掲載されるほどだった?】
1877年に勃発した西南戦争では、会津の遺恨を果たそうと多くの旧会津藩士たちが、政府軍として参戦することに。
警部補に昇進した斎藤一(藤田五郎)もこの西南戦争に「別働 第三旅団 豊後口警視徴募隊 二番小隊半隊長」として参戦。
その奮闘ぶりは素晴らしかったと言われているんだ。
斬りこみの際には敵弾で負傷するものの、大砲2門を奪取するなど奮戦したそう。
東京日日新聞に掲載される活躍を見せたそうだよ。
実はこの西南戦争には、佐川官兵衛や山川浩も参戦しているんだけど、佐川官兵衛は敵弾を受けて戦死しているんだ。
その後、藤田五郎(斎藤一)は、麻布警察署詰外勤警部として勤務するものの、明治24年(1891年)4月には警視庁を退職したよ。
【警視庁退職後の斎藤一は守衛としての晩年を送る】
警視庁を退職した後は、日本で最初に設立された教員養成学校・東京高等師範学校校長・高嶺秀夫の推挙で、明治26年9月から東京高等師範学校附属東京教育博物館の看守をしながら、同校の撃剣師範を務め、学生に撃剣を教えたんだ。
斎藤一は口が固かったと言われており、永倉新八のように仲間の慰霊や新聞記者の取材に応じることはなかったそう。
しかし親しい人物には新選組時代の経験を語っていたともいわれているよ。
斎藤一の勤務態度は「格別勉励」であり、とてもまじめに働いていたそう。
大正4年(1915年)9月28日長年の深酒がたたり胃潰瘍のため、東京の自宅で亡くなったよ(享年72歳)
【最期は正座で息を引き取った】
斎藤一は、非常に寡黙で生真面目な人間だったそうえで、常に正座をして胡坐もかかなったという逸話が残っているの。
死に際しても、病床から起き上がり、正座したまま息を引き取ったというエピソードもあるくらいなんだよ。
最期を看取った、斎藤一の子・藤田勉の妻・みどりは「床の間で正座し、膝の上に両手を置いて、息を引き取った」と語っているんだ。
【斎藤一のお墓は会津にある】
斎藤一のお墓は、福島県会津若松市の阿弥陀寺にあるんだ。
戦い抜いた会津の人々とともに眠りたいというのは、生前から山川浩らに語っていたそうで、斎藤一の願いが叶えられた結果になるね。
「るろうに剣心」にも登場する斎藤一は、フィクションで描かれる際に、シャープで寡黙でミステリアスなイメージが強いよね。
実際の斎藤一は、もっとシャイで慎重な人間であったとも言われているんだ。
根が真面目な性格だったからこそ、守衛として真面目に勤めあげたんだろうね。
【晩年のエピソード】
新選組三番隊組長として活躍した斎藤一は晩年にも様々なエピソードが残っているよ。
ちょっとまとめてみよう。
<老人になっても剣術は衰えていなかった?>
明治の末に、神道無念流有信館・山本忠次郎は木に吊るした空き缶を竹刀でつく練習をしていたそう。
そこに斎藤一と思われる老人が通りかかり、山本忠次郎の竹刀で空き缶を突いてみせたんだ。
その老人は一瞬にして突き、空き缶は揺れることなく貫通したそう。
斎藤一は山本忠次郎に対して「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」と語ったんだって。
年をとっても剣術が衰えていなかったことが良く分かるエピソードで、さすが新選組の最強剣士と呼ばれた人物なだけあるね。
<子供たちにも剣術を教えていた>
斎藤一は、子供たちにも剣術や武士の心得を教えていたそう。
孫・藤田實によると父・勉(斎藤一の長男)はたびたび竹刀を持って物陰へ潜んで、子供たちが帰宅すると不意打ちに「士道不覚悟」と叱ったそう。
藤田勉は、歩兵第65聯隊中隊長、歩兵第9聯隊大隊長、歩兵第36聯隊附などを勤めているよ。