一期一振 – 刀剣特集 – 日本の名刀をご紹介
2020年12月9日新選組の数少ない生き残りとなった永倉新八のその後とは?
2020年12月9日
新選組・二番隊隊長で、新選組の中でも代表的な剣豪として知られている永倉新八。
二番隊隊長であった沖田総司が病気で働けなくなってからは、沖田の一番隊も率いてきた永倉新八はいったいどんな人物だったんだろう?
指揮官としての力もすぐれていて、「鳥羽伏見の戦い」では唯一、敵軍を突破できた部隊の指揮官でもあったんだ。
ここでは激動の幕末を生き抜いた、永倉新八についてまとめてみよう。
目次
【永倉新八の幼少期】
永倉新八は、松前藩の江戸定府取次役・長倉勘次(150石)の次男として、1839年4月11日に江戸で誕生。
8歳の頃には、すでに竹刀を握っていて、神道無念流剣術道場「撃剣館」を主宰していた岡田利章の門をたたいたんだ。
1850年に岡田利章が亡くなると、引き続いて岡田助右衛門から学び、15歳の時には最初の免許を得たの。
18歳で本目録を得て、元服してからは「長倉新八」と称したよ。
その後、19歳で脱藩すると江戸にあった百合元昇三の道場で剣を学んだんだ。
【新選組の結成】
永倉新八は25歳の時に、松前藩の浪人・市川宇八郎とともに剣術修行の旅にでることに。
この旅では、自分の腕を試すために江戸を出て各地で道場破りをしたんだ。
そして江戸に戻ると、門人・坪内主馬に腕を認められて、師範代を務め、実践剣術として名をあげてきた天然理心流・近藤勇の道場「試衛館」を訪れたんだ。
これが近藤勇と永倉新八の出会いになるよ。
試衛館では食客なり、1863年清河八郎の発案による浪士組の募集に対しては、近藤勇や土方歳三らと参加して京にのぼったんだ。
新選組が結成されると、永倉新八は二番隊隊長や撃剣師範を務めていたよ。
永倉新八は、新選組が関わったほとんどの戦闘に参加しているものの、芹沢鴨の暗殺の時は刺客にも選ばれておらず、計画さえ知らなかったと言われているの。
【永倉新八は最強剣士と呼ばれた1人】
当時の武士剣術は比較的平和であった江戸時代を過ぎ、スポーツと化していたの。
けれど、荒々しくパワーあふれる殺人剣を継承したのが、西では薩摩にあった「示現流」や「薬丸自顕流」で、東の頂点であったのが新選組の「天然理心流」だったんだ。
新選組のメンバーは、相手を殺傷することを厭わない剣術をマスターしており、新選組メンバーの中でもトップ3と言われていたのが、
・夭折の天才と呼ばれた「沖田総司」
・謎めいた剣士と呼ばれた「斎藤一」
・がむしゃらな江戸っ子と呼ばれた「永倉新八」
だったんだ。
新選組の阿部十郎は、「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」と証言していて、剣術の腕は沖田総司よりも進んでいたと証言しているほどなんだ。
【池田屋事件での大活躍】
1864年に起きた池田屋事件の際には、永倉新八は池田屋に突入したメンバーの1人なんだ。
尊攘派の過激浪士たちが陰謀をくわだてているという情報をつかんだ新選組は、探索のすえ、三条のにあった旅籠・池田屋の二階奥座敷に集結していた浪士たちを急襲。
この時、斬りこみ部隊となったのは、近藤勇、沖田総司、藤堂平助、そして永倉新八だったんだ。
池田屋襲撃の際、永倉新八は主に1階の土間あたりを拠点として、2階から逃げ下りてくる浪士たちを次々と斬り捨てていったんだよ。
やがて同じ1階で戦っていた藤堂平助が敵の攻撃で額を割られると、永倉新八はその敵を斬って捨てたんだ。
藤堂平助の負傷に続いて、2階を担当していた沖田総司が喀血のために昏倒してしまい、2人が離脱。
前線部隊は、近藤勇と永倉新八の2人だけとなってしまうんだ。
この時、永倉新八は左手親指に深い傷を負い、土間のたたきに当たって刀が折れてしまうピンチに。
防具もボロボロになっていたけれど、落ちていた刀を使うなどし、4名を討ち取る奮戦をしたと言われているの。
その後、戦況が危うくなった際に、土方隊が到着し援軍を得て、新選組は一気に攻勢に出たんだ。
【永倉新八と近藤勇には確執があった?】
池田屋事件での活躍や禁門の変での出動を評価された新選組は、その地位と名声が急速に高まったんだ。
新選組の存在が大きくなるにつれて、新選組局長の近藤勇と永倉新八の関係はぎくしゃくしていったそう。
近藤勇は、新選組を軍事組織としてより強固なものにするために、自分と隊員たちとの関係を「大名と家臣」のようにしようともくろみはじめたんだ。
この近藤の考えに、永倉新八は反発。
永倉にとって近藤勇はあくまで剣の道で結ばれた同士であって、主君では決してなかったんだ。
近藤の増長した態度、わがままで傲慢なふるまいに我慢ができなくなった永倉新八は、永倉と同じ思いを持っていた斎藤一、原田左之助、尾関雅次郎、島田魁、葛山武八郎らと、会津藩主・松平容保へ「非行五か条」として訴え出たよ。
この時には、松平容保の仲裁によって、近藤勇と永倉新八は和解し、近藤側に立っていた土方歳三も新選組の内部分裂を恐れて、造反した永倉新八らに対して穏便な処分ですませたんだ。(ただ、葛山武八郎に関しては切腹だったよ)
しかし、この後も永倉新八と近藤勇の間には、見えない溝があり、それは埋まることはなかったんだ。
永倉新八は信念を曲げずに、必要とあれば新選組の局長である近藤勇に批判するほど、気概のある人物であったことが良く分かるよね。
近藤勇や土方歳三らと対立するものの、永倉新八は徳川幕府から見廻組格70俵3人扶持として近藤らとともに幕臣に取り立てられたんだ。
1867年に起きた油小路事件では、永倉新八は原田左之助とともに、新選組を離脱した御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助らを暗殺したの。
次回は、新選組離脱後の永倉新八についてまとめてみるね。